光の洪水のなかで、男がさも残念そうにつぶやく。
「やれやれ。やはり、我が君とは離されてしまいましたか」
時空の狭間。時空と時空を繋ぐ、無の空間。
まだ淡いぬくもりが残る手を握りしめ、彼ははぐれてしまった少女の顔を心に強く思い描いた。
ここでは何の加護もなく、人が個体としての意識を保ち続けることは難しい。あまりのまぶしさに目がくらむ。気を抜けば、すぐに意識が遠のいていく。男は周囲に拡散し、かき消えてしまいそうになる自我をなんとか己の中に押しとどめようと、あらゆる手を尽くし、必死の抵抗を試みていた。ほんのわずかな時間が、久遠にも感じられる。締め付けられる胸を押さえ、苦痛に歪む口の端には、しかし不敵な笑みがこぼれた。
「初めて、ですね……。ここでここまで邪魔者扱いを、されるのは。これは、どういうこと……でしょうか？」
苦しげに呟きながら、しかし彼は希望が心を満たしていくのを感じていた。我が君、この道はどうやら『正解』のようですよ。愛しい主に今すぐそう声をかけられないことが口惜しかった。
「――神の御座にありて、永久をもてあそぶ よ」
唱えたはずの名がかき消され、男は一瞬息を飲んだ。
「これは――、いよいよもって楽しくなってきましたね。いまここにあなたがいれば、どんなに――。どんなに心が躍ったことでしょう」
夜闇色の瞳に強い意志が宿る。男は少女を守る言霊を懸命に紡ぎだす。
「白き よ、たとえあなたであろうと、我が主は害せない」
全てをかき消そうとする光の暴風にひるむことなく、彼はただ愛しい人を思った。なお世界へ抗うことを止めぬ彼女の助けとなるためにも、我が身に刻まれし記憶と二人の絆を、ここで失うわけにはいかないという意地。それが結果的に彼をも守ることとなった。
かくして男は、辛くも時空の狭間を抜け出した。
ただ主の願いを叶えるためだけに、彼はアカシャに刻まれぬ未来から、神の手に縛られし時空へ舞い戻って来た。
（ああ、我が君――）
黄金色の髪を夕焼けに染めて、制服姿の少女が歩いてくる。2本のカサを大事そうに抱えて、きょろきょろと辺りに目を走らせる姿も愛らしい。
少女の周りに護衛の気配がないことをもう一度確認すると、男は自らの結界を解き、神子たる彼女へ接触を試みる。
「もしや、私のことを覚えておいでですか」
「――え？」
落胆の痛みが、絶望には痛みがなかったことを教えてくれる。男は平静を装い、未だなにも知らぬ少女と、さだめを繰り返す心づもりを整えた。
「そんなはずもございませんでしたね。失礼をいたしました」
「…………っ？」
少女の目から、不意に涙がこぼれ落ちた。彼女の意志とは無関係にそれはとどまることなく、いくつもの雫が、夕日に照らされた地面を濡らしていく。涙を拭いながら、彼女は呆然とつぶやいた。
「ど、どうして……？」
「我が君、あなたは……私の――」
男の平静は崩れかけていた。その心を表すように、夜の瞳が期待と不安に揺れる。
「――そこまでにしてもらいましょう。千尋、遅れてすみません。大丈夫でしたか」
「風早……」
泣き顔の少女を見て、青年の声音が変わる。白刃を容赦なく突きつけて、彼は怒りも露わに言った。
「彼女に何をしたんですか。あなたは――」
少女は青年の陰に隠れて、怯えた目をしている。じきに鬼道使いもやってくるだろう。己に自由になる余地がもう残っていないことを悟り、彼は彼と主にとってもっとも大切な結論を保留したまま、このいっときを全てアカシャへ委ねた。
＊＊
（……やはり、あなたを離さなければよかった）
声に出せば言霊となる。男は術の酷使で重くなった身体を引きずるようにして、黄泉平坂の洞窟を歩いていた。
（まったく、我が君に良いところを見せたいなどと、格好をつけるものではありませんね――）
洞窟を抜けると空には星が瞬いて、彼に残酷な事実をつきつけていた。もうその手に愛しい主のぬくもりは残っていない。
「我が君、あなたの未来はいつも光とともにある。――そして願わくばその傍らに、私の残骸があることをお許しください」
男はいまどこに在るとも知れない主の幸福を祈って、夜闇の中でひとり、言霊を紡いだ。
終