SS.

少女は夢を見ていた。
火の気のないアパートの台所に夕日が差し込んでいる。

「ねえ、那岐？」
「……なに？」

片づいた食卓で少年が宿題を広げている。その向かい側で一枚のプリントに目を落とし、少女が遠慮がちに尋ねた。

「あのね、授業参観のことなんだけど。もう風早に話してしまった？」
「……まだだけど」

少年はけだるそうに言うと、すぐに宿題から顔を上げ、皮肉な笑みを浮かべた。

「もしかして、黙ってろとでも言うつもり？」
「黙っていろだなんて、そんなつもりはないけど……。でも参観日は普通の日だし、風早にも学校があるよね？」
「あるだろうね」
「うん……」

13歳、中学一年生の少女が思案顔で俯いた。プリントには来週行われる授業参観日のお知らせが書いてある。

「いいんじゃない。千尋が黙っていたければ、それで。もともと僕から言い出すつもりもなかったし。別に来て欲しくもないしね」
「ありがとう、那岐」

共に暮らし始めて一年。少年の口の悪さが、彼の優しさの裏返しであることに少女は気付いていた。

「――礼なんかいいよ。それよりその紙、さっさとしまえば。もうそろそろ、帰ってくる頃じゃない？」
「あ、そうか。そうだよね」

少女が素直にプリントをカバンにしまいこむと、まるで計ったように玄関の扉が開いた。

「ただいまー」

スーパーの袋をぶら下げた青年が、穏やかな声を響かせる。

「風早！　おかえりなさい！」
「ほんと、タイミングよすぎ……」

少年があきれたように言った。青年はふたりの姿を認めて、にっこりと笑った。

「ああ、二人ともここにいたんですか。遅くなってすみません、すぐご飯にしますから」
「ううん、大丈夫。夕飯の支度、私もお手伝いするね」
「ありがとう、千尋。助かります」
「ねえ、那岐も手伝ってくれるでしょう？」

早々に退散しようと思っていた少年が、少女に先手を取られて苦笑する。

「手伝いなら千尋に任せるよ。……と言いたいところだけど、僕もお腹がすいた。今晩のメニューは何？」
「スーパーで白菜としいたけが安かったので、今夜は鍋にしました。最後にたまごを入れて雑炊にしましょう」
「いいね。了解」
「じゃあ、はい、これ。那岐のエプロン！」

少女が嬉しそうに声を弾ませる。

「ずいぶん気合いが入ってるね。鍋の支度に、そんなに頑張りどころがあるとも思えないけど――」

三人揃いのエプロンを受け取って、少年は困ったように笑った。


＊＊

高千穂の砦の奥まった部屋に、少女が寝かされていた。

「だいたい千尋はいつも、頑張りすぎなんだ――」

那岐は振り絞るように呟いた。額の上の濡れた布を替えていると、入口の扉があき、耳慣れた声が響いた。

「すみません、那岐。千尋を任せっぱなしにしてしまって」
「……あんたか」
「よかった。どうやら、落ち着いたようですね」

千尋の寝顔に安堵して、風早が穏やかに言う。那岐は刺々しく笑って、どこか挑戦的に尋ねた。

「いったいアレはなんだったんだ。あんたほんとはわかってるんじゃないのか？」

いまから数時間前。彼らは近くの村へ向かう途中で、荒魂に遭遇し戦闘となった。そこで千尋は当然のように荒魂を鎮めにかかったが、その途中で突然苦しみだし、ついには倒れてしまったのだ。急場の治療を施しても、彼女は目をさまさない。しかたなく風早と那岐は砦に戻り、岩長姫の治療のために残っていた遠夜の助けを乞うことにした。
ピリピリと神経をとがらせる那岐に、風早はあいまいに笑った。

「残念ながら、俺にもはっきりとはわかりません。ただ――」
「ただ、何だよ」
「俺にはあの時、彼女の気が、荒魂に飲み込まれてしまいそうに見えました。那岐、あなたは感じませんでしたか？」

那岐はむっつりと黙り込んで、やがて苦しげにつぶやいた。

「――無理があるんだよ、もともと。いくら力を失っていても、あれは……」
「いいえ、千尋の体調が万全であれば、あの程度の荒んだ神気に負けてしまうはずはないんです。俺が彼女に、無理をさせすぎてしまいました」

風早は面目なさそうに言った。
人間が神を救うことはできない。神の荒んだ心を静めることができるのは同じく神か、神の子ども――いわゆる神子だけだ。少なくとも、そう中つ国では信じられている。
千尋はこの地へ飛ばされて来てから数日の間、神子を名乗る王族の姫としてその力を求められ、そして求められるままに応えた。
少女が弱音を吐くことはなかったが、彼女の生真面目さを知る那岐は、沈んだ声で風早に尋ねた。

「……あんた平気なのか。本気でこのまま、千尋が姫として仕立て上げられるのを、見ているつもりなのか？」
「まいったな。仕立て上げるもなにも、彼女はれっきとしたこの国の姫ですよ、那岐」
「僕の言いたいことは、そういうことじゃない。「祭りあげる」とはっきり言い換えたほうがいい？」

苛立たしげに那岐が笑う。風早は困ったように目を伏せて、それでも確たる調子で言った。

「選ぶのは千尋です。そして俺はそれを助ける、それが――」
「あんたの言う、契約ってやつ？」

痛ましげに黙り込んだ風早に、那岐はこれ以上むち打つ気にもなれず、自嘲気味につぶやいた。

「わかってるさ。来てしまったからには、僕たちに選ぶ余地なんかない。あんたはそう言いたいんだろ？」
「那岐……」
「さて、あとは任せる。倒れたときと比べたら、だいぶ顔色も戻ったみたいだしね」

那岐はできるだけ軽く聞こえるように言うと、青年が頷いたのを確認して、そのまま部屋を出ていった。

「千尋……。すみません、無理をさせてしまいましたね」

風早は己の不慮に歯がみして、まだ赤みの残る少女の頬にそっと触れた。


＊＊

授業参観日の当日。
いつもとは違うざわついた雰囲気に、千尋は物珍しさを感じていた。先生も生徒も、心なしか張り切っているように感じる。教室の扉が音をたて、少女がなんとなく「あ、また誰か来たのかな」と思っていると、すぐにけたたましい音が響き渡った。

「いたた……」

扉の鴨居に勢いよく頭をぶつけて、青年は思わず小声をもらした。

「……か、風早？」

振り返って、千尋は呆然と呟いた。今日が授業参観だと知るはずがないその人が、いままさに目の前にいた。少女が言葉を失っていると、隣の男子が立ち上がって彼をはやしたてた。

「ドジだなーー！　ぶつけてやんの！！」

思わぬ珍客に教室は一瞬静まりかえり、しかし少年の一声で、すぐ爆笑の渦に包まれた。千尋が那岐に視線をやると、彼は心底がっかりした様子で頭を抱えている。大注目を浴びて慌てる風早は、彼女と目が合うと、ちょっと困ったように微笑んだ。

「やーい、ばーか！　ばーか！！」
「――風早を、ばかにしないで！！」

千尋は立ち上がって叫んだ。怒りに燃える少女の迫力に、少年同様、周りもあっけにとられていたが、彼女はそんなことは気に留めず、たじろぐ男子にまくしたてた。

「誰にだって間違いはあるし、風早にだって悪気はなかったのだもの。何もわざわざ、立ち上がってまで笑うことはないでしょう！？」
「何もわざわざ名前を宣伝したり、身内だって暴露する必要もないと思うけど……」

那岐の嘆きはもちろん千尋に届くはずもなかった。

「はいはい、みなさん、今は授業中ですよ。お静かに！」

教師はよく通る声で、落ち着いて自分に注目を戻した。その毅然とした態度に促され、千尋と男子生徒がしぶしぶと着席する。このクラスの担任でもある彼女は、父兄たちが青年を「中学生の親にしては若すぎる」と内心訝しがっていることを見越して、彼に言葉をなげかけた。

「それから葦原さんの――親戚のお兄さんでしたね。お怪我はありませんでしたか？」
「はい、大丈夫です。先生、お騒がせして、授業を邪魔してしまって、すみませんでした」

風早の謝罪で父兄たちの空気も和らぎ、以後は滞りなく授業が進められた。

「――風早！」
「ああ、千尋。お疲れさまでした」

ホームルームを終えて廊下に出るなり、千尋は窓際で待つ風早に駆け寄った。

「お疲れさま、じゃないよ。大丈夫？　本当にどこも怪我していない？」
「ええ、大丈夫です。俺は頑丈ですから」
「それなら、いいんだけど。……みんなも、あんなに笑わなくたっていいのにね？」

我がことのようにしょんぼりする千尋に、風早はほがらかに笑った。

「あれは邪魔した俺がいけなかったんですよ、それに気にしていませんから」
「……本当に？」
「ええ、それに千尋がかばってくれて、なんだか嬉しかったです。すみません、気を使わせて」
「ううん、そんなこと――」

どこか幼げに首を振る少女の横を、那岐が涼しい顔で通り過ぎた。千尋が慌てて声をかける。

「あ、那岐。待ってよ。那岐も一緒に帰ろう？」
「……いいけど。ならさっさと行こう。僕はこんなところで立ち話をするつもりはないから」

うんざり顔でそう言うと、金髪の少年は再びさっさと歩き出した。
父兄と生徒がごった返す廊下で、自分たちがどれだけ奇異に見られているか、正確に把握しているのは那岐だけだった。少年は激しい疲れを感じながら、このときばかりは同居人ふたりのマイペースさを、つくづく羨ましいと思った。


三人は仲良くスーパーの袋をぶら下げて、夕暮れの路地を歩いていた。

「でも、びっくりしたよ。どうして風早は、今日が授業参観だと知っていたの？」

少女があまりにも悪気なく言うので、青年はうっかり毒気を抜かれてしまった。夕日に照らされて黄金に輝く髪をみつめ、風早は穏やかに言った。

「ああ、そのことですか。大家さんに聞いたんですよ」
「――あそこに子どもなんていた？」

疑わしそうなツッコミに、風早はさらりと笑って結論づけた。

「大家さんはけっこう噂好きなところがありますからね。世間話をしていたらそんな話題になったんです」
「へえ……。ま、いいさ。それでも」

那岐は意味ありげに笑って、しかしすぐにどうでもよさそうに納得した。

「それより二人とも、どうして俺に、授業参観のことを話してくれなかったんですか？」

青年はできるだけ柔らかく切り出した。本当は理由には心当たりがあったが、今後のためにも、黙っていることはためにならないと判断した。尋ねられた途端黙ってしまった二人の子らに、風早は優しく続けた。

「――困ったな。なにも責めているわけじゃないんです。たぶん千尋も那岐も、俺が忙しいと思って気をつかってくれたんでしょう？」
「違うの！」

千尋の声が響いた。少女は自分の大声に一瞬びっくりして、しかしすぐに泣きそうな顔でこう続けた。

「那岐には関係ないの。私が風早には黙っていようってお願いしたんだ」
「なっ、変にかばうなよ千尋。別にお願いなんてされてない。最初から言うつもりなんかなかったんだ」
「でも……！」
「ああ、まあまあ、二人とも。こんなところで言い合いを始めたら、夜になってしまいますよ」

互いをかばい合って喧嘩腰になる千尋と那岐に、風早は思わず頬を緩ませた。少女のすまなそうな声が響く。

「風早、黙っていて、ごめんなさい。……怒ったよね？」
「いいえ、怒ってなんかいませんよ。千尋と那岐が俺に気を使ってくれたんだと思うと、嬉しいです」

うなだれて、のろのろ歩きになっている少女の肩を励ますように叩き、風早は続けた。

「けれど、そういう気の使い方は、これからは止めにしませんか？　俺はあなたたちのことで何も無理はしていないし、もし無理なことがあったら、きちんとあなたたちにそう言いますから。だから、千尋も那岐も、俺に変に遠慮するのはやめにして欲しいんです」
「僕は遠慮なんかした覚えはないけど――わかった、あんたの言いたいことは理解したよ」

自分のことはどうでもいいが、千尋がそんな素振りを見せたら、適当にフォローするのはやぶさかではない。那岐の返事には、彼の複雑な心情が含まれていた。

「ありがとう、那岐。千尋もそうしてくれますか？」
「うん……。でも、風早、本当に無理をしていない？　自分の学校や家のこともあるのに、私たちまで面倒をかけたら――」
「……まいったな。俺は日頃、そんなに無理をしているように見えるんでしょうか」
「まあ、見えないね、まったく。でも、あんたのそういう脳天気なところが、逆に嘘臭く見えるんじゃないの？」

どこかからかうような素振りで、めずらしく那岐が声に出して笑った。風早が答えるより先に、千尋が口を尖らせる。

「もう、那岐ったら。嘘臭いだなんて、そんなこと思ってもいないくせに――。でも、わかったよ。私も変に遠慮するのは止めにする。だから風早も、無理なときにはちゃんと言ってね？」
「……はい。よかった、千尋がそう言ってくれるなら、俺も安心できますから」

風早は心の底から安堵した。

「俺たちはこれからも、ずっと一緒に暮らしていくんです。お互い無理をしないで、楽しくやっていきましょう」

夕焼けの空に願いを込めて、青年は言霊を響かせた。

終