SS.

黒い龍が倒されたことにより、常世を覆う陰の気は急速に霧散していった。
枯れた大地に緑が芽吹き、木には花が咲き乱れ、鳥がこの世の春を歌う。砂漠のように荒廃しきっていた国が、またたく間に生命の躍動を取り戻していく。姫と軍師はその様子を、つい先ほどできたばかりの花畑に寝ころんで見守った。

しかしその奇跡のような美しさに、まるで現実感がない。千尋はぼんやりとそんなことを感じながら、もしかしたらここは本当にお伽の国、夢なのかもしれないと思った。

「――御命令を、我が君」

姫の関心を取り戻そうと、軍師は誘うように言った。彼の目は期待に満ち、けれどどこか少女を試すように抜け目なく光っている。胡散臭い口振りは相変わらずだが、少女は男が大真面目であることに気が付いた。それにしても、忠誠の証しだてに欲しいものが「御命令」とは、なんだか可笑しくて笑ってしまう。千尋は花畑に寝ころんだまま、柊の髪に触れ、以前から心に願っていた望みを口にした。

「あのね、柊。命令ではないけれど、私はあなたにずっと言いたかったことがあるの」
「ずっと……ですか？」
「ええ。アカシャの枷を外れたと思えるいまなら、やっと言って良い気がする。あなたは私に自分を信じて欲しいと言ったけれど、あなたは私を信じてくれる？」

控えめに頬を綻ばせる千尋に、柊は苦笑した。

「あなたは困った方だ。私の心は――私のすべてはあなたのもの、そう申しあげておりますのに」
「心を預けることと、共に生きることは違うような気がするの。…どう違うのかと聞かれたら困るけれど」
「どう違うのですか？」

柊はわずかに眉根を寄せて、悪戯に髪をもてあそぶ姫の手をそっと掴んだ。その手を優しく握り返して、少女はまるで許しを請うように言った。

「あなたは世界がアカシャに縛られていると知っても、それを知らず生きていく人たちを、愛しく思うことを止めなかった。だからこそあなたは、私に力を貸してくれたのでしょう？　そして私はいつでも、柊、あなたの優しさに甘えるばかりだった」
「それは違いますよ、我が君。私は――、私も同じです。アカシャにその心まで縛られた、哀れなひとりの人間に過ぎません。姫の買いかぶりですよ」
「アカシャで縛られた世界では、心もその人のものではないと、あなたは言うの？」
「――そうではない、と？」

柊の目が鈍く光った。千尋はまっすぐに彼を見つめ、静かに尋ね返した。

「そうではない。あなたはずっとひとりで、心の中でそう言い続けていたのではないの？」
「本当に、姫は困った方だ」

柊は自嘲気味に笑って、するりと姫の手から逃れた。所在なさそうに空を泳ぐ小さな手を、再び握りしめたい気持ちを残しながら、軍師は言った。

「我が君、私もお聞きしてよろしいでしょうか」
「ええ、なあに？」

姫がしゃんと身を起こすと、甘い花の香りが広がった。辺りにはまったく人の気配がない。異変を察知した常世の者たちがそろそろ姿を現してもいいころだが、などと考えながら柊は千尋に尋ねた。

「姫がおっしゃるとおり、たとえ神がさだめたことだとしても、人が抱く想いは当人だけのもの。それは誰にも侵すことはできない。私がそう信じているとして――、しかしあなたはそれを『良し』とされるのでしょうか、と」
「それは……どういう意味？」
「あなたのおそばで使命をまっとうした私と、いまここに在る私は別物。聡明な我が君が、そうお考えになるのは当然かと思うのです」
柊は真摯な声を響かせた。覚悟を秘めたまなざしに、千尋は困ったように微笑んだ。

「あなたの言いたいことはわかるよ。それに、私が何も出来ずに死なせてしまった柊とあなたが違う人だということも、理解していると思う。――けれどそのことは、私があなたに思いを寄せることを阻む理由にはならない」

千尋はきっぱりと言って、柊に再び向き直った。

「あなたが伝承の姫をどれだけ知っていても、その中にきっと私はいない。でもあなたはそのことを知っても、私に力を貸してくれた。勝てる保証もないのに、一緒に黒い龍を倒してくれた。それは何故？」
「我が君……」

何かを噛みしめるように、軍師が主の名を呼ぶ。

「きっと、それは私のためではない。龍を倒すことは、姉さまや羽張彦さんや、他にもたくさんの人の願いと誇りにかけて、必ず成し遂げなければならないと、あなたはたぶん私と出会うずっと前から決めていたのでしょう。たとえ最後にはその身が砕かれてしまうと知っていても、あなたはその願いのために、全てを失うことを最初から覚悟していた」
「……そのように我が君に思っていただけるだけの何かが、あなたの私にはあったのでしょうね。妬ましいことです、本当に」
「あなたは私の柊だよ。あなたが私を望んでくれるなら」

そう言って照れくさそうに瞳を揺らした姫を、軍師はようやく抱きしめた。腕の中で少女が安心したように吐息をもらす。柊はその髪を撫でながら、誇らしげに声を響かせた。

「我が君。人は誰しも与えられた場所で、限られた時間を生きることしかできません。それは、当然のことです」
「……ええ、本当にそうね。だからこそこの一瞬一瞬を、大事にしたいと思えるのかもしれない」

千尋は柊の胸に背中をすっかり預けて、決意を込めて言った。

「たとえ限られた時間でも、どこにいても、私は私であることをやめたくない。もし神に許さないと言われても、あきらめられないことがあるなら――」
「すべて、我が君の望みどおりに。あなたが誰かに奪われることは決してないでしょう。常に自らの力で立ち、光り輝いておられる。さすがは我が主です」

悲痛を感じさせる男の声に驚いて、千尋は柊の髪をもう一度そっと撫でた。

「大丈夫だよ、柊。私は簡単に消えたりしない」
「ええ、消させません。私がそのようなことはさせませんから」
「…うん。私もあなたを消させない。……柊、私を信じて」
「御意――」

喜びをかみしめて、柊は千尋を抱く腕に力を込めた。



「――そろそろ行こうか、柊」
さわやかな風に鼻をくすぐられ、千尋が幸せそうに顔を上げて続けた。

「日が暮れる前に仲間と合流しなきゃいけないものね。風早はどうしたかな……？」
「我が君は、本当につれないですね。こんな時にも他の男の名を口にされるとは」
「……もう、何を言ってるの。そんなことでふてくされるなんて、なんだか子どもみたいだよ」

わざとらしくがっかり顔を作る軍師を、姫は顔を赤らめて叱った。

「おや、ご不興を買ってしまいましたか。これは…困ったな」
「全然困っているようには見えないけれど」
「姫？　できましたら、もう少し私に優しくしていただけませんか。もし我が君が私をおからかいになりたい、そうおっしゃるなら、あなたのしもべは抵抗する術もないのですが――」
「もう！　わかったから、もう拗ねるのはやめて！？」

柊の腕に捕らえられたまま、千尋は真っ赤になって叫んだ。誰もいない花畑に、少女の声が響き渡る。男はちょっと考える素振りを見せたかと思うと、やがて真顔になって耳元でささやいた。

「――我が君。では、口づけを望んでもよろしいでしょうか？」
「え…！？」

唐突すぎる申し出に千尋の頭は軽くパニックに陥った。

「では、って……どうしてそういうことになるの！？」
「本当ならば、このままこうしてあなたを離したくないぐらいなのですが…そうも言っていられないようですので。駄目、でしょうか」
「だ、だ、駄目というか……別に、その、でもいまは、そんなのんきなことを言ってる場合じゃ……？」

真剣な瞳が急に近づいてきて、千尋は可哀想なくらいうろたえている。そんな少女をもてあそぶような、艶っぽい声が響いた。

「震えておいでですか？」
「そ、そんなこと！　……！？」

ムキになって声を張り上げる千尋に柊は顔を綻ばせ、少女の頬に優しく口づけを落とした。どこか拍子抜けした顔をしている姫に、軍師は意外そうに口を開く。

「おや、唇でもよろしかったでしょうか。これは――失敗したかな」
「……っ、却下！！」

千尋は大声を張り上げて、柊の手から逃れた。怒りと恥ずかしさに震える主を楽しげに眺め、軍師は言った。

「では、参りましょうか。我が君」
「どこへ行くの？　……やっぱり、風早たちを探しに？」
「ご心配には及びませんよ。姫自らわざわざお探しにならずとも、彼ならきっと自力で我々を見つけだして駆けつけることでしょう。できれば鬼道使いも連れてきてくれると、私の手間が省けるのですが……」
「那岐のこと？　――どうだろう、こっちに来てくれるかな。できれば無理は言いたくないのだけど」

困ったように目を伏せた千尋に、柊はさも当然のように言った。

「姫、彼ならもうこちらへ来ていますよ」
「えっ？　本当！？」
「ええ、彼は我々が黒龍と戦っている間、他の敵を引き受けていたようですね」
「他の敵…？　そうか…荒魂が少ないと思ったのは、まだ時が満ちていないせいばかりではなかったのね……」

千尋はそう言いかけて、自分の言葉にはっとなった。

「だったら、なおさら早く合流しなくちゃ！　いくら黒龍がいなくなったといっても、那岐ひとりじゃ――」
「その点もご心配は無用です、我が君。彼はおそらく遠夜と一緒におりましょうから」
「遠夜が？　それならもし怪我をしていても、安心だけど……。でも、あれ……？」

千尋は記憶をたぐり寄せ、違和感に顔を曇らせた。今日が柊との出会いの日、4月17日なら、遠夜はまだ自分の敵のはずではないか、と。

「我が君の疑問はごもっともです。しかし姫、ここは既にあなたの知る今日ではない。この時空はアカシャに縛られぬ未来へ向かって、動き始めているのです」
「そうか……。それで色々と違っているのね」

姫は助太刀してくれた那岐と遠夜に心の中で感謝して、一瞬は納得した顔を見せたが、しかしすぐに再びはじめの疑問に首を傾げた。

「では、私たちはどこへ行くの、柊？」
「正確には、我が君が出向かれる必要はございません。もう迎えが来ているようですから」
「迎えに……？」

花畑の向こうには、いつの間にか人垣が出来ていた。遠目からでも常世の軍人とわかる者たちが、総勢200名ほど待機している。中央には大将らしき豪奢な衣服に身を包んだ青年が、長い髪をなびかせて立っている。

「あれは、ナーサティヤ…！？」
「ええ、そのようです」
「そのようです、って……！」

千尋は思わず弓を握りしめた。いまもし戦闘になったら、ナーサティヤ含む大勢の兵士を相手にするなど、とても無事ではすまない。しかしにわかに警戒する千尋をよそに、柊はまったく緊張感のない声を響かせた。

「さて、我が君はご存じでしたでしょうか」
「何のこと……？」
「常世の国が、かつては中つ国の剣として、その平定に尽力していたことをです。そしてその平定は、あの忌まわしい禍日神――この国に巣くった黒き龍を、中つ国が鎮圧することを条件に交わされた約定だったのですよ」
「柊……あなたは、何が言いたいの？」

厳しい目を向ける千尋に、柊はいつものように胡散臭い笑みを浮かべて言った。

「我が君、あなたはふたつの国の間に交わされた約定を、たったいま果たされた。ですからどうぞご宣言ください。中つ国の二ノ姫は、常世の国の皇との誓いを守ったと。それはあなたと皇が並び立つ存在であることの証明になりましょう」
「黒龍を倒したことは説明するとしても…。私が皇と並び立つ存在だなんて、そんなことをわざわざ言う必要はあるの？」
「この世界の、しかも一番の王となられるなら。我が君、恐れながらまずは中つ国の王として立たれるのが、近道でございましょう」

話が急に大きくなって驚く千尋に、柊は思い出したように付け加えた。

「――ふふ。ですが、姫自ら宣言をなさる必要もないかもしれませんね」
「ええ、火雷はいち早く異変を察知し、千尋が黒龍を倒したことを、既に承知しているようです」

背後から朗らかな声が響く。千尋が振り返ると、見慣れた笑顔がそこにあった。

「風早！？　――よかった、来てくれたんだね！」
「ええ。すみません、遅くなってしまって――」
「おや、動き出しましたね。……しかし、一人でとは」

兵を控えさせたまま、ナーサティヤがこちらへ歩き出したのを見て、柊は興味深そうに呟いた。千尋は己の『この国で一番の王になってみせる』発言をふまえて、決意を新たに言った。

「あのね、柊。私、正直あの時はそんなに具体的なことまで考えていたわけじゃないんだけど――。でも、がんばるから」
「……？　なんの話ですか？」

どこかのんきに風早が口を挟んだ。柊がすまし顔で答える。

「我が君は、この世界で一番の王になってくださるそうですよ、風早」
「……っ。ちょ、ちょっと、柊、そんな風にさらっと言わないで！」

恥ずかしそうに顔を赤らめる千尋に、風早は優しく微笑んだ。

「世界で一番……。ずいぶん大きく出ましたね、千尋」
「だ、だから、がんばるよ。難しいだろうけど、これからたくさん努力して――。本当に大切なのは、私が王になることではなくて、この世界のみんなが、幸せに暮らせるようにしたいということだから」
「ええ、そうですね。頑張りましょう。俺もできる限り力になりますから」

いつもの笑顔にほっとした様子の千尋を見て、柊がどことなく面白くなさそうに言った。

「恐れながら我が君、絵図は私が進言させていただきましょう。ですがそれを実現されるのは、あなたです。それをお忘れなきよう」
「うん、ありがとう、ふたりとも。これからもよろしくね」

姫はそう言うと、きっと前を見てナーサティヤに向かって歩き出した。主の盾として前に歩み出ようとする風早を、遠慮がちに制する。

「――。お前は……」

千尋の長い髪と青い瞳が、若き将に5年前の苦い記憶を蘇えらせた。少女の凛とした声が響く。

「私は、中つ国の二ノ姫。あなたは――」

――ここは、確かに既定伝承にない時空。
神の子が黒き龍へ与えた滅びは、ほんのつかの間で、白き龍が今後もこの世界へ干渉せぬ保証など、どこにもなかったけれど、それでも柊の心は希望に満ちていた。今の彼には未知への不安や恐怖すら喜びであり、定まらぬ未来に向かって歩き出す主の姿は、ただ誇らしかった。

我が君。あなたの望みは、私が必ず叶えて差し上げる。
ですからどうか私に見せてください、これからも、あなたが輝かれるさまを。

険しき王道へ一歩踏み出した姫の背中を、風にそよぐ金の髪を、柊は憧憬のまなざしで見つめていた。

終