SS.

出雲の祭りを数日後に控えたある夏の日、千尋たちは村から少し離れ、荒魂の浄化行脚に励んでいた。戦いの合間、日差しの激しい時間帯を休憩にあて、柊は見回りを兼ねて森の中を歩いた。

「……ぎ？」

かすかな声が上空から響いた。軍師は適当に辺りを見回したが、どこにも声の主の姿はない。蝉が騒がしく鳴いている。空耳だろうかと思い直した時、再びどこかやけっぱちな声が響いた。

「…ぎ、柊！　こっちだよ！」
「――我が君？」

声だけをたよりに軍師が答えると、居場所を知らせるように、右手側の大樹から葉がパラパラと降ってきた。見るとその木の幹に取り付いて、千尋が心細げに手を振っている。さすがの柊も状況が読めずに、彼はぼんやりと少女を見あげたまま、とりあえず口を開いた。

「ああ、我が君。こちらへおいででしたか」
「う、うん」
「姫が――木登りが得意でいらしたとは思いませんでした。ですがこの辺りの木では、さほどよい眺めは得られぬように思いますが」
「う……。別に、そういうつもりでもなかったのだけれど」

少女は拗ねたように小声で答えた。確かに柊の言う通り、周囲はジャングルのように高い木が生い広がって、すこしばかり木に登ったぐらいでは、ろくに空も見えない。というより、単に景色を楽しむつもりなら、天鳥船から眺めたほうがよほど楽に結果が出るというものだ。

「それより柊、悪いけどお願いがあるの」
「――はい。何なりと、我が君」

お願い、と聞いて軍師の顔が輝いた。後に引けなくなった姫は恥ずかしそうに顔を赤らめて、ばかに声を張り上げて続けた。

「あの、ね。ここにサザキを呼んで来てくれない？　その、私、ちょっと、木の上から降りられなくなってしまったものだから――」

柊は彼女の言葉に意外そうに目を見開いて、だがすぐに顔を曇らせた。

「誠に申しあげにくいのですが、我が君。いますぐサザキをこちらへ呼びよせるのは難しいかと」
「え！？　そうなの？」
「ええ、彼はついさきほど仲間を引き連れ、水浴びに行くと言って出かけましたので」
「――行水か、今日も暑いものね。もしかして、日向の人は、誰も残っていないの？」
「はい、残念ながら」

落胆する姫に、軍師は困ったように笑いかけた。
彼がみたところ、千尋は別段高所を恐れている様子はない。しかし少女は何故か、地上から約3メートル程に張り出した枝に立ち、まるで蝉のように幹にへばりついて、さきほどから微動だにしていない。そのことが彼はひっかかっていた。内心首を傾げる軍師にしびれを切らし、姫が言った。

「そうだ。ねえ柊、それなら何か刃物はない？」
「刃物、ですか？」

柊は考え込んで、しかしすぐに「なるほど」と合点がいったように頷いた。

「もしや、姫はその木に縛られておいでですか？」
「う、うん――」

千尋は一瞬驚いた表情で柊を見つめ、ほっとした声を響かせた。

「実は、そうなの。枝が髪に……たぶん髪飾りも一緒にだと思うのだけれど、絡まってどうしようもなくなってしまって。髪を切って降りようにも、刃物も何も持っていなくて」
「それはさぞお辛かったでしょう。すぐに気がつかず、申し訳ありませんでした」

正解を得た軍師は何やら満足そうに言って、姫のいる木に手をかけた。その姿を見て千尋は片手を幹から離し、頼りなく空に泳がせた。

「あ、ねえ。刃物なら、投げてくれれば受け取るけれど……」
「いえ、少々そこでお待ちを、姫。そのまま幹におつかまりくださいますよう」
「う、うん……わかった」

軍師は姫に愛想よく笑いかけ、すぐに木に登り始めた。木は大樹ながら足場に適したこぶがいくつもついてる。なるほどこれならば、この姫が果敢に木登りに挑戦できたこともうなずける、と彼は内心ひとりごちた。そして道理であちこち探し歩いても彼女が見つからないはずだ、とも。

「――大丈夫、柊。ごめんね…？」

男の気配を足下に感じると、千尋は着物の裾を気にしながら、刃物を受け取ろうと手を伸ばした。すぐにおっとりと諫める声が響く。

「ご心配は無用です。それよりも姫、幹には両手でおつかまりを。いま姫と同じ枝へ移ります」
「え、でも……？」
「少々揺れますが、どうぞ、ご辛抱ください」
「う、わあっ！？」

柊の体重が加わって、千尋の足場になっていた枝は大きく揺れた。まだ青い葉が地面にパラパラと落ちていく。あわあわと動揺する姫に、軍師は覆い被さるように足場を確保すると、わざとらしく耳元でささやきかけた。

「おや、驚かせてしまいましたか？　――どうぞお許しください、我が君」
「ひ、ひ、柊……！　もしかして、わざと……っ！？」

軍師の悪戯心を敏感に感じ取って、姫は大声を張り上げた。ごく至近距離で、柊がさも楽しげに笑う。

「ふふ、どうでしょう。ああ、姫、どうかそう暴れずにじっとしていただけますか。こんなところから落ちては、困ったことになりますから」
「……〜〜っ！　もういいからっ！　わかったから、はやく、はやく髪を取ってっ！！」
「御意にございます」

恭しく答えて、柊は枝に絡みつく髪を丹念にほどき始めた。その複雑さに一役買っている青い花飾りに触れ、しばらく黙々ともつれをといていると、千尋が遠慮がちに口を開いた。

「……取れそうかな？　もし無理なら……髪飾りが壊れてしまいそうなら、髪を切ってもらって――」
「困りましたね。髪よりも、髪飾りのほうが大切ですか？」

軍師はそう尋ねてから、うっかり本音をもらしてしまった己に苦笑した。千尋はおとなしく木にへばりついたまま、当然のように言った。

「髪なんて、すぐ伸びるものだもの。できれば枝や葉も、あまりむしらないで欲しいのだけど」
「姫はお優しいですね」
「そ、そんなこと――」

耳まで赤く染めて、千尋は顔を埋めるように太い幹を抱きしめた。からかいの声が背中に響く。

「妬ましいですね。あなたにそのように必死にしがみつかれる、この木が――」
「……もう！　柊、何を言ってるの！？」
「本当のことです。私は我が君の背中をこうして寂しく眺めているだけだというのに。……ひょっとすると、あなたにそのようにしてもらいたばかりに、この枝は姫の髪を絡め取ったのかもしれませんね」
「もう、そんなわけ――。……。どうかな、大丈夫そう？」

呆れることにも疲れた姫が、再び髪飾りに関心を戻す。髪を痛めぬようにもつれをほぐす男の手が、不意に止まった。

「……柊？」

軍師はやるせなさそうな瞳で、髪の一房にそっと口づけた。彼はこの長い髪があと数日の後に、むごく失われてしまうことを知っていた。心細げな姫の声が響く。

「どうしたの？　柊……？」
「いいえ、何も。――ご心配には及びません、すべて、我が主のよきようにいたします。私は、……」
「私は……？」
「――ああ、いいえ。本当に何も。お美しい髪ですね、この薄暗い森の中でも、あなたの髪はまるで日の光のように輝いている。さすがは――」
「まっ、待って柊！　恥ずかしいからそんな風に誉めるのは、もう終わり！」

寒々しい誉め言葉を、この逃げ場のない状況で延々聞かされてはたまらない。とばかりに姫は無理矢理首をひねって、軍師を強く制止した。彼はいつもの彼らしく胡散臭い笑みを浮かべ答えた。

「……終わりですか？」
「そうだよ、もうおしまい！」
「――残念です。しかし我が君がそうおっしゃるなら、しかたありませんね」
「そうしてくれると、本当に嬉しいよ……」

はあ、と心から安堵のため息をつく姫に苦笑しながら、軍師は再び枝と髪と髪飾りを分離する作業へ戻った。


＊＊

「どうもありがとう。助かったよ、柊」
「いいえ、我が君のお役に立てることが、私の喜びにございますゆえ」

ようやく木から降りることができた千尋は、一足先に降りて待っていた柊に心から礼を述べた。彼から青い花の髪飾りを手渡され、不器用に付けなおしを試みる。いつもの場所より盛大にズレている飾りを見かねて、軍師が申し出た。

「姫。よろしければ、私がおつけいたしましょうか？」
「え、ううん。いいよ、大丈夫自分で――」

言いながら悪戦苦闘する姫を、軍師は寂しげな笑みを浮かべて見守った。もしこの場に居るのが己ではなく他の者なら、彼女は申し出を受け入れたかもしれない。そんな思いがぼんやりと彼の心に浮かぶ。そのうち千尋は乱れているだろう髪そのものを諦めて、いかにも取り急ぎといった風情に髪飾りを頭に乗せ、柊に尋ねかけた。

「ねえ、柊。もうそろそろ、休憩時間は終わり？」
「そうですね、今少し残っておりますが、お戻りいただければ皆が安心いたしましょう」
「わかった。じゃあ、戻るよ。集合場所はあっちだよね？」
「ええ。恐れ入ります」

柊がしおらしく頭を下げると、千尋は一瞬ぎこちない表情をみせたが、そのまま何も言わず歩き出した。

「ところで我が君、お聞きしてもよろしいでしょうか」
「え？　なあに？」

蝉の大音量にかき消され、柊の声が聞き取りにくい。千尋は振り返って、軽く首をかしげた。彼は可憐な少女を警戒させない距離まで近づいて、問いを発した。

「景色をお望みでなければ、何故あのような場所へ？」
「え、あ……うん。ごめんなさい」

柊が真顔になっていることに気付いて、千尋は小さくなった。

「あのね、あれを見て。あそこの大きな木に、栗のようなイガイガがなっているのが見えるでしょう？」
「――イガイガ？」

姫の指差す先には、彼女のいうようにイガイガ状の、まだ小さく青い実をつける巨木があった。

「あれをもっと近くで見てみたかったの。でも実は高いところについているし、その木には登れそうになかったから……」
「なるほど、あちらの木の実を近くで確認されるために、登りやすそうな先ほどの木を選ばれた、というわけですね？」
「うん、ごめんなさい。高いところのほうが、よく見えると思ったの。まさか降りられなくなってしまうなんて、思わなかったし……ごめんなさい」

思いのほかうなだれている姫に、「これは少し強く言いすぎたか」と思案しながら、柊は優しげな声で話題を変えた。

「姫はご存じありませんでしたか。あれは栗ではなく、ブナの木でございますね」
「ブナ……。そうよね、栗とは葉の形も違うし」
「ええ、我が君のおっしゃるとおりです。しかしあの実も栗と同じように食用になります」
「――食べられるの？」

「食用」に敏感に反応して、姫はキラリと目を輝かせた。柊が目を細めて笑う。

「ええ、秋になれば、ですが」
「あ、やっぱり……その辺は栗と一緒なのね」

残念そうに笑う姫に、柊はどうということもなく尋ねた。

「ひょっとして姫は、空腹でいらっしゃいますか？」
「――え！？」

千尋は一瞬ぎくりという表情を見せて、すぐに恥ずかしそうに俯いた。

「そ、そういうわけでもないけど。さっきお昼を食べたばかりだし……？」
「おや、違いましたか。申し訳ありません、ご気分を害されましたか？」

しらじらしく言う軍師に、姫は眉根を寄せて抗議した。

「――。柊は私のことを、いつもお腹を空かせていると思ってるんでしょう。でも、どうしてわかったの……？」
「ふふ」

柊は意味深に微笑んで、小さな包みをひとつ取りだして続けた。

「我が君、よろしければ、これを」
「これは……何？」
「さきほどカリガネに渡されました。中身は干菓子だそうですよ」
「――ひがし？　あ、これ、昨日のおやつに出たものね」

紙包みの中には、砂糖と何かしらを固めたような菓子が入っていた。千尋は慌てて包みを差し戻した。

「でもこれ、あなたの分でしょう？　きっとカリガネは取っておいてくれたのよ。昨日のおやつの時間に、柊がいなかったからって……」
「おや？　この菓子は、我が君の口には合われませんでしたか？」
「そんなことないよ、おいしかったけど――」

怪訝な顔をする姫に、柊は嬉しそうに笑った。

「でしたら、どうぞご遠慮なくお召し上がりください。そのほうが、きっとこの菓子も喜びましょう」
「――――」

なんとなく二の句が繋げなくなって、姫は砂糖菓子をひとつ口に入れた。ほのかな甘味とふんわりと優しい香りが口一杯に広がる。

「……うん、おいしい！　ありがとう、柊！」

千尋はことさら元気に言った。そして軍師の返事は待たず、彼女はもうひとつ菓子をつまんで、それを彼の口元へ差し出した。驚いて一瞬息を飲んだ柊に、千尋は早口でまくしたてた。

「これは柊の分だよ」
「……我が君？」
「好き嫌いはだめ。一つぐらい食べてみて。これは、柊の分」

千尋が妙に気合いの入った顔で自分を見つめていることに気付いて、柊は内心困り果てた。場つなぎの言葉をなんとか探して姫に尋ねる。

「私の分は、よろしければすべて姫に差し上げ――」
「おやつは一人で食べてもおいしくないんだよ？　はい、どうぞ」
「――我が君は、意外に頑固でいらっしゃいますね」

根負けした軍師は両手を差し出して、姫の手から菓子を譲り受けた。食い入るような視線を感じながら、菓子を口に放り込む。甘い。

「……どう？　おいしい？」
「ええ、我が君。後でカリガネにも礼を言わねばなりませんね」
「うん。そうしてあげて、きっとカリガネも喜ぶよ」

心から満足した笑顔で、千尋は頷いた。照れくさい気分を誤魔化すように、柊は姫のまっすぐな視線から目を反らす。今にも頭からズレ落ちそうになっている髪飾りが目に留まり、彼は思いきってそれに手を伸ばした。千尋は特に彼を警戒することなく、どこか彼女の従者と同じ、のほほんとした調子で笑った。

「あ、やっぱり、花飾りが曲がっている？」
「ええ、このままでは落ちてしまいそうです。姫、どうぞそのまま動れませんよう――」

そう言って髪飾りを直す一瞬が、軍師にはとても長い時間のように感じられた。彼は名残惜しそうに金の髪を指に絡ませ、その美しさを惜しんだ。何も知らぬ姫は眩しい笑みを向けて、軍師に礼を述べた。

「ごめんね。ありがとう」
「私に礼は不要です、我が君」
「……うん。もう落ちそうじゃない？」
「その点ならご心配なく。例え姫がどれほど激しく飛び跳ねようと、今日、その花があなたの髪から落ちることはありません」
「そ、そうなの？」

自信たっぷりの軍師に、姫は怪訝そうに首を傾げた。

「お疑いですか？　ですがどうぞご安心を。たったいま、ちょっとした呪いを施しましたので」
「えっ！？　まじない！？」
「ええ。――？　いかがされましたか、我が君？」

自分の行動にまるで疑いを抱いていない柊に、千尋はなんだかなーという気分になった。姫の微妙な空気を察して、軍師が顔をしかめる。

「……困りましたね。どうやら私はあなたのご不興を買ってしまったようだ」
「ご不興！？　ちょ、ちょっとそれはおおげさだよ。ただ呪いだなんて、少しだけ驚いてしまって――」
「姫、呪いといっても悪いものばかりではありませんよ。もともとその花飾りには、強い願がかかっていますから、私はそれをほんの少し表に出してやったに過ぎません。無論あなたやあなたの周囲の者に害を及ぼすこともない」
「願がかかっている……？　この髪飾りに？」

意外そうに姫が呟く。

「ええ、ご存じありませんでしたか？」
「大切にしている物には、その人の思いが宿る。そういう意味？」
「そうですね、そのように言い換えても良いかもしれません」

そう言って曖昧に笑う柊の顔がどことなく寂しげに映って、千尋は唐突に菓子をもう一つ差し出した。

「――はい、これも柊の分だよ」
「このようなことで、褒美をいただくのは心苦しいのですが」
「もう、そんなんじゃないよ！　……でも、いらない？」

千尋の表情が曇りかける。柊は一瞬何事か企んだように目を光らせると、そのまま姫の手ずから菓子を口に入れた。唇がわずかに指に触れ、少女が慌てて手を引っ込める。軍師がどこか人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべているのを認めて、姫は真っ赤になってうろたえた。

「なっ……、なっ、柊……！？」
「おや、どうされましたか？」
「どっ、どうしたっていうか……」

少女は心臓をばくばくさせながら、なんとか動揺を収めようと努めた。男の忍び笑いが漏れる。千尋は自分がからかわれていることに気付いて、腹立ちと照れを微塵も隠さず、声を張り上げた。

「――柊っ！　どうしてあなたは、そうやってふざけたことばかりするの！？」
「我が君は本当に可愛らしい方ですね。ですから私も、ついからかいたくなってしまう」
「もう！　小学生みたいなこと言わないで！」
「しょうが…くせ…い……？　それはどういう意味なのですか、我が君」
「知らないよ！？　カリガネのお菓子も、残りはみんな私が食べてしまうんだから！」

千尋は森中に響き渡りそうな大声で宣言すると、残った菓子を次々に口に放り込んで、瞬く間にすべてを腹に収めてしまった。唖然とする軍師を残し、姫は盛大なふくれっ面で、ずんずんと先を歩き始める。その後を少し離れて、長身の男が楽しげに笑って付き従う。しばらくして主が立ち止まり、道に惑う素振りを見せると、彼はどこか勿体ぶった様子で優しげな声を響かせた。

「おや、姫。やはり私の力が必要ですか？」

悔しげに姫が振り返る。姫は答えない。軍師は苦笑して、仏頂面の主の元へ駆け寄った。先ほどと同じ程度に距離を詰めると、姫は無言でじりじりと後退していく。柊は諦めに似た心境で「しかたありませんね」と自分を納得させた。胡散臭い愛嬌を振りまいて、軍師は姫に道を指し示す。

「では、皆のもとへご案内いたしましょう。こちらです、我が君」
「――柊の、あなたの用事は済んだの？」

姫は真顔に戻っていた。まっすぐな瞳で、思いがけない問いをぶつけられ、軍師が面食らって言葉を失う。申し訳なさそうな少女の声が続く。

「もしかして、私のせいで考え事の邪魔をしてしまったのではないかと思ったから。せっかくの休憩時間なのに、悪いことをしたんじゃないかって――」

柊は僅かに眉間にしわを寄せて、姫の軍師としての正解を述べる。

「そんなに私をお気遣いいただけるとは、嬉しいですね。ですがそのご心配には及びません。先ほどは見回りを兼ねて、少しばかり散策をしておりました」
「散策？」

千尋は意外そうに目を見開いた。柊の口から「散策」などという風流な動機が出てくるとは思いもしなかった、という顔だ。柊は自嘲するように笑った。

「これは……あなたが私をどんな風にお考えかわかるような気がいたしますね。確かに夏の森は騒々しく、散策には不向きです。ですが日が照りつける外よりはいくらか涼しいでしょう……考え事にも多少マシ、という程度ですが」
「あはは、ひょっとして柊は夏が嫌いなの？」

再び歩き出した姫は、無邪気に笑い声を響かせた。軍師も軽く笑みを浮かべ、少女にそっくり同じ問いを返す。

「そのようなことは考えたこともありませんでした。姫はこの季節がお好きなのですか？」
「どうだろう。そう言われてみれば、私も考えたことはなかったかもしれない。別に嫌いではないと思うけど。冷たいものがおいしい季節だよね、素麺とか、冷やし中華とか」
「ひやし……？」
「あ、そうか、冷やし中華というのはね――」

生真面目に「冷やし中華」の説明をはじめる姫に、軍師は内心で安堵のため息をもらした。やかましい蝉の声に、聞き慣れた声が混じる。

「――ろ。千尋？」

藪を掻き分ける音が響き、次の瞬間、見慣れた大男がひょっこり顔を出した。彼は姫の姿を認めると、嬉しそうな笑みを浮かべ、まっすぐに駆け寄ってきた。

「千尋。ああ、よかった。ここにいたんですね」
「風早！　どうしたの？　もしかして、探しに来てくれた？」
「ええ、そろそろ集合時間ですし、少し心配で」
「……風早は相変わらず心配性ね。でもありがとう」

千尋は従者の肩についた小枝を払いながら、呆れたように笑った。柊に気付いた風早が朗らかに言う。

「はは、すみません。でも柊が一緒についていてくれたなら、余計な心配でしたね」
「相変わらず鷹揚ですね、君は。そこが良いところなのでしょうね」

柊は呆れ顔で答えた。不在の姫を「つい心配で」と飾らず探し回る率直さ、そしてそれが自然に主に認められる立場は、羨ましくないと言えば嘘になる。
姫の乱れた髪に目を留めて、風早は首を傾げた。

「それより、千尋。その髪はどうかしたんですか？」
「……やっぱり目立つ？　そんなにみっともないかな？」
「ええと……そうですね、そこまで酷くはないですが。でも鏡もないですし自分で直すのは大変ですよね。よかったら手を貸しましょうか？」
「え？　うん――」

姫は一瞬躊躇して、しかしすぐに納得したように言った。

「でもいいよ、このままで。花飾りは柊が落ちないように直してくれたし」
「――柊が？」
「うん、ついさっきね……」

千尋が風早に説明をはじめたその時、今度は背後から賑やかな声が響いた。

「おおーい、姫さん！　なんだ、こんな所にいたのか！」
「――サザキ！　水浴びに行ったんじゃなかったの？」

サザキを筆頭に日向の仲間たちが、日に焼けた笑顔で手を振っていた。千尋はすぐに笑顔になって、彼らに向かって駆けだした。転げるように走ってきた姫に目を細めて、サザキが言う。

「いや、まあ、初めはそのつもりだったんだが――。泉のすぐ手前で、野イチゴがわんさとなっているところを見つけちまってな。こりゃあ姫さんに知らせてやろうと思ったのさ。あんた大好物だろ？」
「え？　私？　――じゃあみんな、水浴びはできなかったの？」

驚く千尋に、仲間の一人が愉快そうに口を挟む。

「ははは、オレたちはまあ、付き合いで。大将が『今すぐじゃなきゃ駄目だ』って頑として聞いちゃくれねえもんだから」
「うわっ、バッ…バカ！？　お前ら何言って！！」
「……………本当のことだ」

羽をバサバサとさせて大慌てのサザキに、カリガネがぼそりとだめ押しする。千尋はくすりと笑みをこぼして、すまなそうに言った。

「そうだったんだ…。サザキ、みんなもごめんね？」
「あーよせよせ！　オレが勝手にそうしたかったんだ、あんたが謝る必要なんてこれっぽっちもねえ。こっちこそ悪いな、余計な気を使わせちまって」

サザキは豪快に笑って、無邪気に続けた。

「はっは。それに元は、じっとしてるのも暑いし暇だから水浴びにでも行くか？　とまあ、半分成り行きで決まったような話だったんだけどな。それよりどうだ、姫さん。これから野イチゴ、食いに行くだろ？」
「え、え……？　どうしよう」

しかしそろそろ休憩時間は終わりのはずだ。千尋は振り返って、ちらりと風早と柊の様子を見た。サザキの大声が響く。

「柊と風早も一緒だったのか！　なんならあんた達も来るか？　よーく熟れた野イチゴが食い放題だぞ」
「……ええと、どうかな？　風早、柊？」
「俺は構いませんよ。サザキ、そこまでは遠いんですか？」

風早がさりげなく距離と場所を確認する。

「いや。そうだな……オレたちならひとっ飛びだが、姫さんの足だと、ここから西に半時ってとこか？」
「ちょうど船のある方向ですね。――姫、もし向かわれるなら皆を集め、帰還がてらになさるのがよろしいかと。おそらくサザキの言う泉は飲用に耐え、本日お連れの兵の数なら、広さも十分でありましょうから」
「――なんだ、柊。まさか場所知ってるのか？」
「ええ、野イチゴはともかく、君のいう水場には心当たりがあります」

こともなげに柊は答えた。

「でも、本当に行ってもいいのかな？　今日はまだ、荒魂をあまり見つけていないし……」
「そうですね……。ただ、そうは言ってもこう暑いと、皆の士気も落ちてしまいますから。たまには思い切って、午後いっぱいお休みというのもいいんじゃないでしょうか。船に残っている人たちに、お土産も持って帰れそうですし。ね、柊」

風早がやんわりと取りなした。柊が澄まし顔で言う。

「確かにこの時期、むやみに狗奴の体力を消耗させるのも、得策ではありませんしね――」
「狗奴？　……柊、もしかして、狗奴の人たちに何かあったの？」
「ああ。いいえ、我が君。ただ、彼らは肉体的に夏はやや負担が多いのです。理由はおわかりだと思いますが」

忍人率いる狗奴は戦闘能力に優れていることはもちろん、何より対人の戦に慣れた貴重な兵だ。今後の神子の戦いを思うと、万全の状態で温存しておきたいところではある。柊は考え込んで、そこで話を切った。
待ちかねたようにサザキが叫ぶ。

「よっしゃ！　難しい話は終わったな？　そうと決まれば姫さん、残りの連中を呼びにいくぞ！！」
「え？　あ、うん、そうだね！　――うわっ！！？」

サザキは千尋を軽々と抱え込んで、ふわりと空に舞った。少女の叫び声が森中に響き渡る。

「サササササザキっ！！　い、いきなり飛ばれると、びっくりするよ！？」
「はっは、悪い悪い。だが姫さんも疲れてるだろ？　飛んで行ったほうが早いぜ！　それに涼しいしな――」

そんな事を言いながら、サザキは陽気な笑い声を響かせた。日向の民は千尋を連れて、あっという間に消えた。ぼんやりと空を眺めて、風早が口を開く。

「ええと。じゃあ、俺たちはここで皆を待てばいいのかな」
「…………ああ」

一人だけ居残っていたカリガネがぼそりと答えた。風早と柊を一瞥し、彼は続けた。

「……………いいのか？」
「午後を休みにしてしまって、という意味ですか？」

風早がおっとり返すと、カリガネは頷いた。難しい顔で柊が答える。

「特に問題はないでしょう。姫も気になさっておいででしたが、このあたりに荒魂の気配はほとんどありませんから。多少移動したところで、それは変わらないでしょうね」
「…………なぜだ」
「ははは、もしかしたら、荒魂も夏休みかもしれないね」

微妙な冗談にしらっとした空気が流れた。サザキたちを追って飛び立とうとするカリガネに、柊は無愛想に声をかけた。

「菓子をいただきました。我が君もお気に入りですし、携帯にも耐えそうだ。――日持ちはしますか？」
「…………考えておく」

かすかに笑って、青い鳥が森へ消えた。取り残された軍師と従者は、やかましい蝉の声をしばらく黙って聞いていた。ふと、軍師が独り言をもらす。

「――まったく罪な方ですね」
「本人は考えてもいないと思いますよ」

従者がぽつりと返した。柊が皮肉に笑う。

「風早、君もたいがいですね。自覚も何もないからこそ、ですよ」

もっともらしい友人の言に、風早は沈黙で答えた。

「しかし、腐ってもさすがは神、と言うべきなのでしょうか」
「柊……」
「もっと本能的なものと思っていましたが、意外に慎重で臆病なのかもしれません。しかし嵐の前の静けさにしては、いささか早過ぎる――」

悲しげに顔をしかめる友人に向かって、軍師は高慢な笑みを浮かべ、意味深に言った。この近辺の荒魂の急激な減少は、彼らの予測のはるか上を行っていた。

「そうだね……。千尋の体力を考えると、今日は一日休ませてあげたほうがよかったかもしれない」

風早は真顔で己を責めた。

「そうとも限りませんよ、風早」

柊がすまして言うと、上空からバサバサと羽音が響いてきた。

「かざはや！　ひいらぎー！」

サザキに宝物のように抱えられ、千尋が空から手を振っていた。その顔は喜色満面、はしゃぐ姿は無邪気な子どもそのものだ。笑顔で手を振りかえして、風早がしみじみと呟く。

「楽しそうですね。サザキには感謝しないと」
「おーい！！　風早、柊。オレたちは姫さんを連れて、一足先に行ってるぜ。他の連中には、ここで合流するように伝えておいた！」
「忍人さんがね、『君たちは先に行け』って言ってくれたのー！」

声を弾ませて、千尋はそう付け加えた。柊が苦笑して言う。

「ふふ、忍人にしては上出来ですね」
「わかりました、千尋！　俺たちは忍人たちと合流して、すぐ後を追います。――サザキ、千尋を頼みます」
「ああ、任せておけよ！」

心配げな従者に、サザキは快く請け負った。

「じゃあ、またね。二人とも！」

少女の金色の髪が、風をはらんで日に透けていた。青い花の冠は空に溶けて見えない。
これでもかと両手を振り続ける姫に、軍師は恭しく頭を下げた。日向の者たちの姿は、すぐに空に吸い込まれ見えなくなった。

「我が君の嬉しそうなお姿は、いつにも増して可憐でしたが。――妬ましいことですね」

柊の独り言を、風早は苦笑して受け入れた。
軍師と従者はおそらく数日を待たずして起きるだろう『正念場』に、それぞれの思いを馳せた。

終