SS.

砂塵舞う戦場。
刃がぶつかり合う音が響くなか、姫は軍師の切迫した声を聞いた。
「我が君っ！　危ないっ！」
生い茂る藪の隙間に、キラリと光るものが見えた。
本能的に危険を察知して身を翻す。しかし次の瞬間、敵の矢は姫の胸を貫いていた。

千尋が目を覚ますと、ぼやけた視界に低い天井が映った。身体が鉛のように重い。身をよじると、胸に激痛が走った。
「……っ」
「ああ。お目覚めですか、我が君」
柊の声が響いた。声のほうに顔だけを向けると、彼はいつもと変わりない様子で穏やかに笑っていた。
「ここ…は…？」
「我が君のお部屋です。我々は砦に戻って参りました。ご安心ください」
千尋が頷いたのを確認し、柊は続けた。
「ご不便かと思いますが、あまりお身体を動かされませんよう。姫を貫いた矢は、幸い内蔵に届いておりませんでした。命に別状はございません。手当ては済んでおりますが、痛みはいかがですか」
彼は千尋が口を開く前に、更に続けた。
「無論、矢傷が痛まぬはずもございませんが。だが、お辛いようならおっしゃってください、遠夜に言って、痛みを押さえる薬を強くするよう頼みます」
「……ううん、平気」

身体が重いのはその薬のせいだろうか。千尋はぼんやりと考えて、瞳を閉じた。こうして静かにしている分には、特に痛みはない。遠夜の「薬」とは麻酔のようなものかもしれない。このまま瞼を閉じていたい、という肉体の意志に逆らって、千尋は無理矢理目を開けて尋ねた。
「柊、皆は？　戦は――…」
「此度の戦は、姫の勝利にて幕を閉じました。どうぞご安心を」
この状況で自軍の損耗状況を詳しく説明しても、なんの得もない。柊はわざと曖昧に報告した。
「でも…。……っ！」
「困りました。姫、せめて意識がはっきりなさるまでは、心安らかにしていただけませんか。無理に動かれると、傷が開いてしまいます」
いつも通りの皮肉な笑みで、柊は姫の顔をのぞき込んだ。彼の柔らかい髪が頬にかかる。千尋はしびれる右手を布団から出して、柊の耳から頭をそっと撫であげた。
「柊……？」
「いかがなさいましたか？」
彼の態度が普段通りなのは、きっと自分に余計な気遣いをさせないためだ。直感でそう思った千尋は、掠れる声で、けれどしっかりと気持ちが伝わるように言った。
「お願いだから、自分を責めないで。私の怪我も……戦の結果も、あなたのせいではないのだから」
「――参りました。さすがは我が主、お見通しですか」
アカシャによって定まらぬ未来を持つこの時空において、彼の識者としての力は大きく削がれている。主の危機を予見できなかった男は自嘲気味に笑って、うめき声を絞り出すように悔しげに続けた。
「私はあなたにお約束いたしましたのに……。お守りできず、申し訳もございません」
「ううん……あなたは、守ってくれたよ。柊の声が聞こえて……避けようとしたからこそ、矢は急所を外れたのだと思うの」
千尋は心から言った。
「いいえ、姫。私を庇ってくださるのは嬉しいが、それはおそらくあなたの運の強さによるものでございましょう。――さあ、もうお休みください。私はすべてあなたの望むようにいたしますから、ですからどうか今は……今だけは、私の言うことをお聞きください」
柊の嘆願に千尋はそれ以上言葉を繋ぐことはできなかった。戦のただなか敵の矢に倒れ、迷惑をかけてしまったことが悔しく、今すぐに動かせぬ身体がもどかしかった。
『……何故あなたは、このようなときも全てを私のせいになさらないのか』
涙をこらえ、切なげに顔を歪める姫を見て、軍師は心の中でそうつぶやいた。

頭を撫でてくれた優しい手を布団の中へ戻すために、柊は千尋の手を取った。薬が良く効いたか、それとも体力の限界がきたのか、少女の意識はすでにもうろうとしていた。
「柊……あのね……」
「姫？」

千尋が柊の手に自らの手をまとわせて、弱々しく小指を絡ませてきた。驚いた男が息を飲む。彼女の言葉は最後はうわごとになった。
「どこかの国の約束、なのでしょう？　……私、すぐによく……なるか…ら」
「――ええ、我が君。次に目覚めたときには、身体はずっと楽になっておりましょう」
柊は言霊を響かせた。千尋はふっと安心したように微笑むと、すぐに寝息をたてはじめた。指切りした姫の小指に愛おしそうに口づけて、彼は姫の部屋を後にした。


外へ出ると、空には月が出ていた。
「こんな時間に、いったいどこへ行くつもりだ」
「――おや、忍人。こんなところで待ち伏せですか？　なかなか良い趣味をしていますね」
回廊の柱にもたれ、苦虫を噛みつぶした顔をしている将軍に、柊はいつものように軽口を叩いた。無表情ながら納得した様子で忍人がつぶやく。

「その様子では、姫の容態は落ち着いたか」
「ええ。おそらく数日は眠ったままでしょうが、命の心配はもうないでしょう」
「そうか――」
落ち着いた声を響かせる軍師に安心して、将軍は無機質に続けた。
「ならばお前も、いい加減にその血まみれの服をなんとかしろ」

軍師の服は姫の傷から溢れた血で、すっかり朱に染まっていた。柊は年若い友が、暗に自分に「休め」と言っていることに気付いて、不気味なまでにさわやかな笑顔を浮かべた。
「嬉しいですね。まさか不敗の葛城将軍に心配していただけるとは。やはり持つべきものは友ですね」
「馬鹿を言うな。この戦いに勝ったとはいえ、兵の消耗は激しい。ここでお前にまで倒れられては、迷惑だ」
無愛想に言いたいことを言って、忍人は踵を返した。ちょうど向こうから駆けてきた風早が、すれ違いざまに声をかける。
「あ、忍人。柊の様子はどうだった？　姫を看病したい気持ちはわかるけど、少しは彼も休ませないと――」
「柊ならそこにいる。本人に聞け」
うんざり顔で忍人は立ち去った。

「姫は落ち着きましたよ。言わずとも君にはわかっているかもしれないが」
からかうような口振りで柊は笑った。
「うん。よかった。安心しました。――できたらあなたもすこし休んでください。この時間なら風呂も空いているでしょうし、食事は食堂に簡単なものを用意してあります。あとは遠夜が君の傷を診たがっているようだと、那岐が」
「わかりました」
そっけない返事が、柊の複雑な心情を表していた。普段の柊を見ていると考えられないが、風早は彼が実は他人の労いに罪悪感を倍加させるタイプであることに、なんとなく気付いていた。まったく落ち込んでいるようには見えない友に、風早は穏やかに口を開いた。

「姫の怪我には、俺も責任を感じています」
「君の責任ではありませんよ。姫もきっとそうお考えです」
すまし顔で柊は答えた。
「そうですね、千尋ならもしかしたら、今度のことの責任は、すべて自分にあると言うかもしれない。でも――俺は思うんだよ。本人の怪我はともかく、戦の、大勢の人の命の責任を、たった一人が取ったりできるんだろうかって。もしそんなことをしようと思ったら、その人はたぶん、その重圧に潰されてしまうんじゃないかとね」
「やれやれ。よりによって君に、そのような苦言を吐かれるとは思いませんでした」
その言葉そのままそっくりお返ししますよ、とでも言いたげに柊は笑った。
「はは。でもこれは、俺の本心ですよ」
「――確かに君の言う通り、我々には不運に酔っている暇はありませんね」
柊は思い巡らすような表情で続けた。
「どんな時も力を尽くし、我が君をお助けするのが私の役目であり、望みなのですから。ところで風早。負傷した兵たちはいまどうなっていますか？」
柊は千尋が健在なら一番に発していただろう問いを口にした。
「砦への回収は、ほぼ済んでいます。治療も一段落したので、さきほど巫医たちに休憩を出したところです。細々とした後始末は布都彦が、負傷兵の移送の段取りは道臣が、それぞれ買って出てくれました。それから――」
柊と風早はすっかり戦士の顔に戻っていた。暗い回廊を足早に歩きながら、軍師が口を挟む。
「陣の周囲を警戒しているのは、日向の者たちですか？」
「ええ、そちらはサザキに任せました。年には念を入れて、空から交代で見張ってもらっています。残った兵のことは先生にお願いしたので、安心して良いと思いますよ」
「……なるほど。つまり私の為すべきことは、ほとんど残っていない、というわけですね」
「たまにはこういうのもいいだろう？」
「そうですね。頼りになります」
ようやく安堵のため息を漏らし、柊は目を閉じて天を仰いだ。


治療の甲斐あって、十日も過ぎると姫の傷はその辺りを自由に歩き回れるまでに回復していた。砦は戦の後始末で慌ただしく、千尋はその間、仲間とほとんど顔を合わせることなく、自室で療養する日々が続いた。

「――天鹿児弓よ、来て！」
右手を天に差しのばし、千尋は自室でこっそり姉の形見である弓を呼んでいた。腕を振り上げた拍子に、思い出したように胸に痛みが走る。青い燐光を放つ不思議な弓は、彼女の意志に反して、そのまま空にかき消えた。
「……っ。まだ……弓を射るのは、無理かも……」
「我が君。いったいなにをなさっておいでですか」

柔らかい声が背中に響いた。振り返ると柊が心底困ったような顔をして、戸口でかぶりを振っていた。
「柊！　久しぶりね、怪我はもういいの？」
千尋は驚いて、明るい声を弾ませた。顔を合わせるのはかれこれ十日ぶりだ。
「それは私が申しあげたいことですよ、姫。お身体の調子は、風早から聞き及んでおります。どうぞご無理はなさらないでください」
「……風早とは話したのね」
どこか不満げな口振りで千尋はつぶやいた。

「ええ、彼とはつい先ほど。それまでは戦後処理を兼ねて、離れた陣や砦の様子を見てまわっておりました。途中ご報告にもあがらず、申し訳ございません。お許しくださいますか？」
「え、う、うん。……私こそ柊が、皆が忙しくしている理由は聞いて知っているのに、拗ねたりしてごめんなさい。怪我を治すためにとはいえ、私だけ何も出来なくて、すこしイライラしていたの」
千尋は申し訳なさそうに言った。
「姫、どうかお気になさらず。そしてお顔をお上げください。最後にお会いしたときは、姫は傷に苦しまれ、ほとんど夢の中にいらっしゃいましたのに。今はすっかりお元気になられて、安心いたしました。――ああ、立ったままはお身体に障ります。どうぞおかけになってください」
軍師は一方的に姫にイスを勧め、自分は跪いて少女を仰ぎ見た。じっと見つめるだけで、いつまでも口を開かない男に、千尋は恥ずかしそうに頬を染めて尋ねた。
「柊……、その……。あなたはこれまでの仕事の報告に来てくれたのではないの？」
「いえ。我が君のお顔を拝見しにうかがいました」
「なっ……！」
姫はますます真っ赤になって、固まってしまった。その様子を楽しげに眺め、柊は歌うように言った。
「ふふ。お元気になられた姫は、相変わらず美しく輝いておいでだ。あなたとお会いできない間、私はあまりの寂しさに、心が打ちひしがれておりました」
「……柊が相変わらずで、私も安心したよ」
千尋が苦笑気味に答えた。
「それは僥倖」
柊は姫の手を取って、その指先に口づけると、生真面目な面を上げて続けた。
「ご報告は書にまとめましたので、ご気分のよろしいときにお目通しください。竹簡はあとで使いの者に運ばせます」
「わ、わかった、必ず読むよ。本当は私が直接出向かなければならないところなのに、あなたに頼んでしまってごめんなさい。お疲れさま柊、ありがとう」
「ありがたき幸せ」
心から嬉しそうに微笑んで、柊は立ち上がった。

「では我が君、私はそろそろ御前を失礼いたします」
「うん、忙しいとは思うけれど、無理はしないでね」
「ええ、姫こそどうぞ、心安らかにお過ごしください」

柊は戸口で振り返ると、わずかに躊躇して続けた。

「……我が君が、私の約束を覚えていてくださったこと、恐悦にございました」
「約束？」
姫が首を傾げた。
「おや、そちらは覚えていらっしゃいませんか。ならば、そのままお捨ておきを。――では」
軍師は控えめに頬を綻ばせ、そのまま立ち去った。
「え？　……え？　ねえ、柊、いったい何？　気になるよ！」
姫は思わず叫んで、すぐさま彼を追いかけた。バタバタと駆け寄ってくる姫に驚きで顔をしかめて、柊が口を開く。

「ああ。どうぞ走るのはお止めください、我が君」
「だって、柊が気になることを言うから」
「――私のせいですか？」
悪戯っぽく柊が笑った。

「教えて、気になるよ」
「……そう、ですね。では、姫の傷が完全に癒えたらお話いたしましょう」
「どうしてそうなるの！？　そんなのズルいよ！」
姫が憤りに声を荒げる。

「そのように姫に罵られるのは、私としても大変心苦しいのですが。ですがご心配せずとも、姫がおとなしくご自愛くださればすぐですよ。――ね？」
幼子をあやすような口振りで、柊は柔らかく微笑んだ。
「……っ！　わかった。こんな傷、すぐに治してみせるのだから！」
「ふふ。期待しています」
「――約束だからね！？」
余裕たっぷりの男に、千尋は宣戦布告するように言った。

『ええ。約束ですよ、我が君』
柊はふくれっ面で踵を返した姫の背中を、彼女が自室に入ってしまうまで、ずっと見つめていた。

終