SS.

おびただしい数の「人間だったもの」が目に焼き付いて離れない。
姫は己を責めた。もう二度と帰ってこない命の、そのかけがえなさを思い、ただ途方に暮れていた。

「――柊？」

身体の震えを止めようと堪え、恐れを声に出さぬよう努め、けれど虚勢は判断を鈍らせると言って唇を笑みで歪めた。我がために消えていく命を一つ残らず忘れないために、その瞳を揺らがさずにいる神子が、哀れで、いっそ彼女が絶望に落ちてしまえることを男は願った。
けれど軍師は、姫がこの窮地を耐え抜くことを知っていた。

「柊――、どこにいるの？」

追っ手をまくために暗い森の中に逃げ込んだ千尋は、さっきまで傍らにいたはずの男の影を探していた。突然、藪の中から黒い獣が飛び出した。口の周りを血で朱に染めた山犬が、低いうなり声をあげている。藪の奥に倒れた人間の足が見えた。地面が大量の血で濡れている。微動だにしない「それ」は、おそらくもう生きてはいまい。満身創痍の千尋は悲しみに胸がつぶれそうになりながら、それでも注意深く山犬との距離を保ち、弓に矢をつがえた。

「――……っ！？」
冷たく暗い声が、闇の底から響いた。千尋はそれが荒魂のものであると直感して、目の前の山犬に、呆然と視線を向けた。神は怒りと恨みで我を忘れている。神子は弓をおろして息を整え、やがて瞳を閉じた。己の身の安全や、残り少ない体力のことなど考えもせず、悲しみに憤る魂にいつもそうしてきたように、彼女は闇に白い手を差しのべた。

「お待ちください、神子」
「柊……」
柊が千尋の腕を掴んでいた。彼は困ったような笑みを浮かべて、少女の頬についた泥をそっと拭った。

「どうして、止めるの――」
千尋は柊が自分を制止した理由に察しがついていたが、構わず続けた。
「まだ大丈夫よ、倒れたりしない」
「いいえ、姫。キリがありませんよ。この山は人が死にすぎた。怨嗟の声に獣（けだもの）の――小さき神々の心もささくれだっているのでしょう」
柊が他人事のように言うと、どさりと音が響いた。山犬が地面に倒れ伏していた。
「彼には眠っていただきました。姫、どうかお急ぎを。残念ながら我々には、時間がありません」
「――わかった」
千尋は悔しげに唇を噛んで、藪の奥で倒れる兵へ一歩前に踏み出した。
「そちらの彼は息絶えています。おそらく姫がここへいらした随分前に」
柊はやんわりと姫を制した。
「わかった」
千尋は平然を装い、軍師の先を歩き出した。
「どうぞお心を安らかに。彼は我らが敵――常世の者でございます」
悲しみに挫けそうな姫の心に、柊が慰めを込めて言った。
「……っ。私は……っ！」
姫が猛然と振り返り、憎しみのこもった瞳で軍師を見つめ、声を震わせた。しかしその後言葉続かず、悔しげに押し黙った千尋を眺め、柊はまったくいつも通りに柔らかな声を響かせた。

「あなたがご無事でよかった。さあ我が君、前へ進みましょう。きっと皆があなたを探しておりましょうから」
柊は千尋が敵方の犠牲にも、その胸を痛めていると信じて疑っていなかった。
けれど軍師は、怒りが姫の身体を支えることを知っていた。

「わかった。急ごう、柊」
「御意――」
姫はいっとき悲しみを忘れ、棒になった足に力を込めて歩き出した。

＊＊
下草の覆う険しい山の斜面を、千尋と柊は注意深く下っていた。林の中は薄暗く湿って不気味だったが、人の姿どころか、獣たちの気配さえ感じられない。

「ねえ、柊。さっきから、鳥の声も聞こえない。――あなたの結界なの？」
千尋は疲労を隠し、落ち着いて尋ねた。
「姫」
柊は急に千尋の腕を引き寄せて、そのまま強引に、太い木の幹にすっかり姫の身体を押しつけてしまった。うぶな少女が驚いて声をあげる。
「なっ、なにす――」
「お静かに」
柊は息で咎めるように言って、少女を我が身で庇うように、己の身体も幹に寄せた。すぐに近くで男たちが言い争う声が聞こえてきた。

「いったい何なんだあの子ども！！　あの妙な術に敵うわけがねえ。化け物か！？」
「オレが知るか！！　……っ、痛っ！　痛えじゃねえか！？　手当するなら、もっとそっとやりやがれ！」
イライラした声が響いた。
柊と千尋が斜面を降りきったところにある道に、負傷した兵が十数名たむろしていた。彼らは怪我人に取り急ぎの治療を施しながら、しばらく休息をとることにしたようだ。
千尋は柊がいっこうに自分を離す様子がないことから、彼がこの場をこのままやり過ごすつもりであることを悟って、おとなしくしていた。一人の男が、傷の手当てをしてやりながら、面倒くさそうに言った。

「まあ、命が助かっただけでもありがたく思えよ。あのとき前線にいた奴らなんか、あの岩で――」
「よせよ。思い出したくもねえ」
折れた腕に添え木をあてながら、ひとりの男が吐き捨てるように言った。
「……だが、あれはいったい何だったんだ。山のてっぺんから、大岩がいきなり……あんなにいっぺんに降ってくるなど、ありえんだろう」
憔悴しきった男がぽつりと言って続けた。
「なあ、あれもひょっとして、天罰じゃねえのか？　国に居座ってる、あの黒い太陽と同じ――」
「何を馬鹿な。それこそありえんことだ！　この、腰抜けが……っ！」
別の男がそう言って、天罰を疑う男に掴みかかった。それを見て周囲の男たちが慌てて仲裁に入ったが、場はしばらく騒然となった。

「天罰……」
千尋は複雑な表情で俯いた。
「あれは常世の兵、ですね。術師と戦った様子ですが」
「う、うん。那岐か遠夜かな――」
心配げに瞳を揺らした少女に、柊は生真面目に言った。
「どちらにせよ、あの数を退けたとすれば、一人ではなさそうだ。ご心配は無用でしょう」
「うん……」
千尋の返事にため息が混ざった。神経をとがらせながら、ずっと走り通しで、正直体力の限界を感じていた。このまま目を閉じたら、木にもたれかかったまま眠ってしまいそうだ。そんなことを考えていると、男の笑みが漏れ聞こえた。

「だ、だいじょうぶよ。まだ、動ける」
千尋は先回りして言った。
「ええ、承知しております。神子、あなたは決してお倒れにならない。この場を発てば、仲間達ともすぐに合流できましょう」
柊は髪に息がかかる距離で言霊を響かせ、恭しく続けた。
「ですがいまは、どうぞ力をおためください。我が術が敵の目を欺いている間は――」
柊の瞳が千尋を優しく見つめていた。姫は既に目を閉じ、木の幹に背中を預けて深い息をしていた。その身体に気が満ちていくのがわかる。神子は五行の力によって、次第に回復していった。

「嵐が――すぐにやってくる。だが、どうかそれまでは」
千尋の頬に血の気が戻ってきたのを見届け、軍師は金色の髪に切なげに口づけた。

＊＊
黒い太陽がもたらした大嵐から、天鳥船は辛くも離脱に成功していた。
回収できる限りの負傷兵を詰め込んだ船内には、傷ついた兵士のうめき声が一晩中響いた。運良く無傷で辿り着いた者たちも、嵐の恐怖から簡単に解き放たれるはずもなく、もとより船へ残っていた者も突然の対応に追われて右往左往していた。常世・中つ国の別なく、乗員はみなくたびれ果てていた。

「天罰――か」

柊がひとけのない堅庭で、ひっそりと夜明けを迎えていた。午前の早い時間に、軍議が開かれることが決まっている。彼はまず残存兵力の算出を中心とした此度の戦の被害状況を簡単にまとめてしまうと、今後姫が打って出るべき策をいくつか用意し、それぞれを夜のうちに書にしたためた。作業の途中で忍人や道臣らが訪ねてきて、常世の兵の扱いの摺り合わせや、自軍の兵の再編成、今後の物資の補給経路や備蓄の確認などの細々としたことも、彼らと一緒に済ませていた。

（もし真実、私に天罰をふるう力があれば――こうして地べたをはいずりまわる必要もないのですが）

己にもっと力があれば、心優しい姫に悲しい顔をさせることなどないだろうに。そんなことをぼんやり考えながら、柊は憂鬱な瞳を隠さず、薄白む空を仰いだ。
小さな足音が自分に近づいてくるのを感じた。その持ち主から逃げるか逃げないかさんざん迷ってから、彼はようやく逃げぬ覚悟を決めた。軍師はこの偶然が、ほんの些末事に過ぎないことを知っていた。

「おはようございます、我が君」
よくお休みになれましたか、と姫の怒りを買うために続けるべきか迷って、柊は千尋を振り返った。
「ああ――姫、お可哀相に。昨夜は慌ただしかったので、ゆっくりお休みになれなかったのではありませんか。よろしければ、いま一度お部屋へお戻りを。必要なら何か暖かいものも運ばせましょう」

姫の瞳からガラス玉のように空疎な光が返ってきたことに耐えきれず、軍師は仰々しく言葉を編んだ。髪は彼女自ら断ち切ったざんばらのまま、しかしあの時の凛々しさはどこにもない。どこかやつれて儚げな姫が、静かに首を振った。
「眠れないと思っていたのに、お腹が空いて目が覚めたの」
「は――」
「こんな時にも、眠れるし、お腹も空くんだなと思って」
柊が言葉を失っていることに気付いて、千尋は思いつくまま続けた。
「柊は、ずっと起きていたの？」
「ご心配には及びません。いま休ませていただいております。――やはり、部屋に何かお持ちしましょう、お身体を冷やされる前に、どうぞお戻りを」
男の真摯な声が響いた。千尋は一瞬何かを考えたような表情を見せて、いきなり彼の頬に両手を伸ばした。
「――……我が君？」
千尋の手は温かかった。むしろ熱すぎるぐらいだった。
「大丈夫。冷えてはいないでしょう？　たぶん――ずっと腹を立てているからだと思うのだけど」
「お怒りに……？」
優しく頬を包む手に抵抗することを忘れ、柊は棒立ちで尋ねた。
「うん。私……どうしても許せないから。だれの手によるものであっても、あんな風に……人の命が、粗末に扱われるのには――もう我慢できない」
「姫……」
千尋の瞳は怒りに燃えていた。覚悟を秘めた静かな激昂は、彼女の感情を一見消し去ってしまったかのように見せていた。彼女の怒りの原因には明らかに自分の今回の作戦も含まれている。柊はそれもやむを得ぬことと納得していた。けれど軍師は、いまこの場で己が姫にかける言葉を何も持たないことには、胸を痛めた。

「あなたに責められることは辛い。けれどお怒りは当然のことです。その穢れなきお心が、ただ光だけを求められるのも」
柊の言葉は心からのものだった。
「強くなりたいの。みなを守るために」
千尋は柊の目を見つめて、噛みしめるように言った。軍師はこの心優しい姫が、誰一人余すことなく人を救いたがっていることに気付いていた。そしてそれが叶わぬ願いであることも。
姫は軍師の頬からその手を離して、悲しげに言った。

「私や仲間のためにしてくれたことを、責めたり怒ったりしないよ。あなたの手は私の手。あなたのしたことは――本当は私が行うべきことだった。怒っているのは、あの時、弱くて何もできなかった自分にだから」
「それは違う、姫」
柊は思わず千尋の肩を掴んで、どうしようもなさそうにかぶりを振った。

「……あなたと私の考えが違うのは、しかたないことだと思う。でも、あなたが私を庇ってくれるように、私もみんなを守りたいの」
あなたのことも。そう付け加えることを、千尋はなんとなく躊躇した。言えば目の前の男の心を、更に無下に扱うことになるのではないかと、無意識の内に恐れたからだ。
「我が君――。あなたは、どうして。いや……そんなあなただからこそ、か」
柊は自嘲気味な本音をもらすと同時に、千尋の身体の不調に冷静に思いを巡らせていた。先ほど肩に触れたときの熱が、まだ手袋ごしに残っていた。当然、尋常ではない。本人にまるで自覚がなさそうなのがやっかいだが、雑談など早々に切り上げて、さっさと部屋に戻って寝ていただかなければ。
軍師が即断する間に、姫は生真面目に口を開いた。
「昨日はあんなことがあったから、まだお礼を言ってなかったよね。あなたの策で、私たちは助かった。あり――」

柊の指が千尋の唇に触れていた。これ以上言ってくれるな、と男の目が訴えている。少女は言葉を切って、何か言いたそうに歪んだ柊の瞳を見つめた。

「礼には及ばない。私の手はあなたの手、なのでしょう？　ご自分の手にいちいち礼を申される主のお姿は、お仕えする者として見るに忍びないものです」
「うん――わかった。わがままばかり言って、ごめんなさい」
ふてぶてしく笑った柊に、千尋はどこか甘えるように言った。

「すべて御意のままに。それが私の務めにございますれば。まだ少し早いが食堂へ向かわれますか？」
柊は笑顔を崩さず、いつものようにやや強引に千尋の背中を押して、姫を中へ促した。ふらつく彼女に手を貸そうとしたが、千尋はむっとした顔でそれを拒否した。

「うん。昨日のことでみな気落ちしているだろうから、一緒に――」
「ああ。やはり、そのようにお考えでしたか」
がっかりした柊の声が響いた。熱に浮かされたような顔で、姫はぼんやりと頷いた。
「ですがその前に、私は風早を探してきます。みなの前に立たれるおつもりなら、その御髪を切りそろえられたほうが、きっとよろしいでしょうから」
「え？　待って、柊――」
「無論、姫の美しさは、髪の長さや状態などで損なわれるものでもございませんが」
姫から腕を掴んでひきとめられて、どことなく嬉しそうに柊は言った。

「でも……きちんとした格好で、というのはわかるけど。無理に風早を連れてこなくてもいいよ。髪を揃えるぐらい、自分でできると思うし……」
千尋は押し問答になることを恐れながら告げた。
「おや――つれない方だ。風早が聞いたら泣くでしょうね」
「絶対泣かないよ」
大きな声で独り言をいう柊に、千尋が呆れ声を響かせた。

「では、私に触れさせていただけますか？」
「え？」
千尋の嫌な予感は的中した。
「御命令をいただけば、姫の御髪を綺麗に切りそろえてご覧にいれます」
妙に気合いの入った物言いに、千尋はなんとなく絶対に遠慮したい気分になった。柊はそんなことは気付かないふりをして、得々と続けた。

「美しいあなたの髪が、おいたわしいまま放置されているのは我慢ならない。ずっとそう思っていたのです。ですから風早にお命じにならないのなら、どうぞこの私をお使いください。ああ、ご心配はありません。私は無芸ですが、こうみえても――」
「もういい、わかった。風早のところに一緒に行こう？」
千尋は柊の腕を放して、控えめにお手上げのポーズを作ってみせた。その拍子に身体がふらついて、少女はなんとなく解せない表情で柊を見あげた。

「おや……あなたの右手をお信じいただけないとは、残念です」
柊は思わせぶりに微笑んで、どことなく意地悪く言った。ちゃっかり自分を「右手」と決めてかかっている男に、千尋はなんとなく笑みをこぼした。柊が優しげな瞳で見つめている。怒りに強ばっていた頬に触れ、千尋は「こんなときも、人は――私は笑えるんだな」と他人事のように感じた。足下がふわふわして、泣いてもいないのに、何故か世界が霞んで見えた。

「でも、柊。左手より不器用な右手は、少し問題じゃないかな」
ばかに陽気な千尋の声に、柊は内心こっそり肩を落とした。空元気から出た発言かと思いきや、姫の表情は思ったより真剣だ。
「姫。どうか私にも、もう少し優しくしていただけないでしょうか」
「――うん？　そうかな……」
心ここにあらずといった調子の千尋を見て、柊は痛ましげに微笑みを返した。ずっと気丈に見せているが、取り繕えていない綻びがちらちらと見え隠れしている。いまにも彼女と天を繋ぐ糸がぷっつり切れてしまいそうな気配を感じて、柊はその瞬間を、万全の心持ちで待ちかまえていた。

「姫。どうかもう、ご無理はなさらないでください」
軍師が引き金を引いた。
「何をいっているの？　べつに、へいき――」
柊の固い声に煩わしそうに答えて、千尋はそのまま突然、意識を失った。仰向けに倒れる少女を受け止めて、柊はようやく安堵のため息をついた。

「ああ――。そういえばあなたの左手が誰か、聞きそびれてしまいました。目が覚めたら、教えてくださるでしょうか」
きっとお忘れになっているでしょうね、この高熱では。柊は悲しげに顔をしかめ、千尋の身体を抱え上げた。
食堂への慰問は中止が当然としても、軍議は黒雷の動向の鍵を握っている。姫にはどうしても顔を出していただかねばなるまい。風早か遠夜を探して、解熱の薬を処方させるべきか――。
頭の中でこれからの算段を整えながら、軍師は堅庭を後にした。

終