SS.

どんよりと曇った冬空に綿雪が舞っている。
軍師と姫が外へ出た時は小降りだったが、雪は急にひどくなっていた。

「………。な、なんだか――寒いね？」
「ああ、これは――。気がつかず申し訳ありません」
照れくさそうに身を寄せてきた姫に、軍師は愛想よく応じて、彼女の手を取った。姫の手は、すっかりかじかんで赤くなっている。
軍師はふと考え込んで、すぐに彼女から手を離した。

「少々お待ちください、我が君」
不安げな姫へ生真面目に言うと、軍師は手袋を外して微笑んだ。

「このほうが暖かいですから。――ああ、やはりずいぶん冷えていらっしゃいますね」
軍師は姫の両手を包みこんで、今度は申し訳なさそうに笑った。
「け……けど。それでは柊が冷たいでしょう？」
「ふふ。ご心配には及びません」
照れてうろたえる姫に、軍師は笑顔を崩さずに言った。
しっかり握られた大きな手から、ぬくもりが伝わってくる。姫は頬が上気してくるのを感じながら、あたふたと続けた。
「そ、そうだ！　ならここからは、走って帰ろう？　そうすればきっと身体も暖かくなるし！」
「走ってですか？」
「うん、どちらが早いか競争！」
苦笑している軍師に、姫は早口で答えた。
姫は握り込まれた手に、ちらちらと落ち着きなく目をやっている。解放して欲しいという素振りだろうが、はっきり言い出さないところに付け入る隙がある。軍師は姫の無言の主張は無視し、笑みを消して言った。

「恐れながら、姫。私には我が主と勝ち負けを争う理由がありません。ご無理を申しあげるのは心苦しいが、お考え直しいただけないでしょうか」
「え？　そ、その。別に私は、勝ち負けにこだわっているわけではなくて…！　ただ私のせいで、柊の手が冷えてしまったら悪いと思ったから――」
軍師の仰々しい返答に驚いて、姫は慌てて言い繕った。

柊はさきほどからバカにしおらしく話を聞いているが、手を離してくれる気配はない。普段から異常に察しのよい男のそんな『まるでわかっていない』態度に、千尋はなんとなく腹を立てて続けた。
「――ねえ。柊？」
｛はい。なんでしょうか」
軍師は姫の両手を取ったまま、にこやかに主の顔をのぞき込んだ。その瞳に悪戯な光を見て取って、姫はすぐさま盛大に頬を膨らませた。

「やっぱり！　ひょっとして、最初からずっと面白がっていたのね！？」
「最初とはどのあたりでございましょう、我が君」
「そうやってとぼけないで！」
のらりくらりと誤魔化す軍師に、姫は猛然と食ってかかった。雪はまるで止む気配がない。柊はあっさり千尋の手を離すと、少女が一瞬おどろいている隙にそばへ寄り、不躾に手を伸ばしてきた。

「……えっ？　え？」
「さきほどから姫がつれないことばかりおっしゃるので――私の心は凍えてしまいそうです。温めていただけますか？」
冗談めかして言いながら、軍師はさりげなく姫の肩に髪に触れ、その上に積もる雪を払い落とした。
「ま、待って。柊だって、雪だらけで――」
「――ああ。どうぞお気遣いなく、姫」
軍師の意図に気付いた姫が、濡れた睫毛をしばたたかせ、青年の髪に手を伸ばした。しかし彼はそれをやんわりと拒んで、どこか考え込むように続けた。

「あなたの可愛らしい御手が、また冷えてしまいます。――それよりも、そろそろ戻りましょう。名残は尽きませんが、この雪は止みそうにない。ぼんやりしているとすぐに、ここに雪だるまが二つできてしまいそうですから」
軍師はすっかり姫を解放して、悪戯っぽく微笑んでみせた。

雪で視界の悪くなった周囲を見回して、軍師は帰る方向のあたりをつけていた。地面は既に白く覆われはじめている。
姫は浮かない顔で鉛色の空を見あげた。また柊にいいようにあしらわれてしまった。納得いかない気分を晴らすべく、少女がこっそり青年の背後に近づいて手を伸ばした。近すぎれば、勘の良い彼に気付かれる。結局姫は軍師の頭には届かない位置まで寄って、とりあえず彼の肩についた雪を、すばやく、かつ問答無用で払い落としてやった。驚いた顔で振りかえった柊に、千尋はどことなく得意げに微笑んで言った。

「かがんで？」
「姫――」
いたずらな子犬に、柊は悲しげに顔をしかめた。千尋は冷えてじんじんとする手をぎゅっと握りしめて、気恥ずかしそうに口を開いた。

「手が冷たくなってしまったら、また柊に温めてもらう。……だ、だから、早くかがんで！？」
最後は怒ったように言う千尋に、柊はしばし絶句して、けれどすぐに笑顔を作ってみせた。

「困った方だ。――ですが、ほら。もう御手が真っ赤です」
「平気よ」
軽く頭をさげた格好で向かい合って、軍師がからかいの言葉をかけてきた。姫は軍師の髪からすっかり雪を払いおとしてしまうと、会心の笑みで続けた。

「だって、不公平は良くないでしょう」
「――なるほど。まったく困った方だ」
義理は返すと言わんばかりの、色気も何もない姫の回答に、軍師はこっそり肩を落とした。少女の冷えた頬を手で温めるように触れ、彼は思わず小さくため息をついていた。

「そんな風にため息をつきながら言われると、本当にそうなのかと思ってしまうわ。――柊の手は、冷たくない？」
「ええ。ご心配には――……」
男の両手で挟まれたまま、姫は心外そうに頬をふくらましている。柊はそんな姫の様子を苦笑まじりに見つめていたが、しかしすぐに何か考え込むように言葉を切った。

「……柊？　どうしたの？」
「あ、ああ――……。いえ、」
まるで無警戒な瞳が己を見つめている。柊は脳裏に浮かんだよこしまな考えを打ち消すと、やるせなく息をついて続けた。

「困った方だ。――本当に」
「もう！　そんなに何度も、呆れたように言わなくてもいいでしょう？」
姫は軍師の両手首を掴んで、自分の頬から彼の手を離した。柊はまるで千尋の手で手錠をかけられたように腕をおろした格好で、曖昧に微笑んで返した。少女の視線はあくまで無邪気で、だがだからこそ、青年は何か煽られているような気分にさせられていた。

「……それに、柊だって困った人のくせに」
姫が拗ねたようにつぶやいた。少女は青年が怪訝な顔をしているのを見て取ると、彼の顎の下へ、激突まがいの口づけをよこした。千尋の突飛な行動と、彼女の不慣れがありありと伝わる衝撃、いや感触に、柊は思わず真顔で青い目を見つめ返した。

「だ、だって、届かないから……。かがんで？」
男の物言いたげな視線を感じて、姫は照れくさそうに瞳を揺らした。その千尋のどことなく誘うような声を聞くと同時に、柊は弾かれたように行動を起こした。彼は少女の言う通りに身をかがめると、そのまま強引に千尋の腕を引き寄せ、体勢が崩れた彼女の身体を横抱きにかかえあげた。

「え？　ええ！？　ちょ……っ、柊……！？」
「戻りましょう。お風邪を召されては大変ですので」
腕の中で膝から下をバタバタさせて抵抗する姫を一瞥し、軍師は続けた。

「――ところで我が君。できれば私の首に腕をまわしていただけると、安定するのですが」
「うっ……腕！？」
姫は言ってぶんぶんと首を振った。頬を赤く染め、無言ながら必死で無理を訴えている。動揺する主に軍師はそっけなく「しかたありませんね」とつぶやいて、そのまますまし顔で歩き出した。
青年は少女同様、思いがけず動揺している己にも気付いていたが、それは認めたくなかった。

「まま…っ待って！　私！　歩けるから！　降ろして！？」
「いけませんね。そのように暴れられては――」
「また柊が困ってしまうのでしょう！？」
柊の冷たい声に反応して、千尋がやけくそ気味に突っ込んだ。

「困るのは姫ですよ。……おそらく」
軍師は姫に薄く微笑んでみせると、すぐ真顔になって続けた。
「私は姫がおっしゃるとおりの男なので。本当は、あなたをもっと困らせたい。私のために、もっと……」
「な、何を言ってるか、さっぱりわからないのだけど――」
「おや、おわかりになりませんか？」
顔を赤らめて講義する千尋に、柊は低い声を響かせた。自制が効かないなどという、責任逃れをするつもりはなかったが、しかしいまここで「そうなって」しまうのは、さすがにどうかと思われた。
ここは外で、しかも盛大に雪が舞っている。姫は寒さに震えており、いたらぬ臣下へ憤る姿はいつもと変わらず愛らしい。そしていつもと同じなら、彼女は自分の一挙一動が、男の欲を煽っているなどとは考えてもいないだろう。

「そんなに……嫌だった？　それで怒っているの？」
千尋は柊の腕の中で、どうしようもなさそうにうなだれた。風の音にかき消されそうに「キスしてしまったこと」と沈んだ声が続いた。

「それは口づけのこととうかがっていますが」
柊は場つなぎにそう口を開いた。姫は目に涙を浮かべ、今にも泣きそうに眉根を寄せている。劣情と呼ぶのが最もふさわしい感情がわき上がるのを、青年は感じた。姫の様子に胸が痛むのと同じ割合で、そして同じ場所で、彼女を振り回して「泣かせてしまいたい」と思う気持ちを、止めたくないと思っている。
己の黒い欲を持て余しながら、けれど柊は抜け目なく理性を選択した。

「だがそれにしては、先ほどは骨に響きました。――困ったな。姫には何度もお教えしたつもりでいましたが」
「……え？」
ささやく柊の声に、からかいの響きが混じっていた。千尋が顔をあげると、柊は優しげな顔を寄せて微笑んだ。

「だっ、だからあれは！　とっ……届かなかったからって、言ったでしょう！？」
「ふふ、そうでした」
勢い余った理由を千尋は思わず叫んでいた。憤慨する元気が出てきた姫に心の中で安堵して、柊は真顔でぬけぬけと続けた。

「では、我が君。いまはいかがでしょうか。私は先ほどよりもよほどあなたの近くに控えておりますが――」
「……っ」
いつもの柊だ。と感じた瞬間、千尋は眉毛をつり上げて彼を睨みつけていた。「だから柊は、どうしてそうやってからかうの！？」　青年のわざとらしい催促に耐えられず、少女は再び激しく足をばたつかせ、これまで何度言ったか知れない台詞を響かせた。

「もう降りる！　すぐに降ろして！！」
「――御意」
柊はまったく悪びれずに笑って、姫を地面に降ろした。

「ふふ。どうやら私は、あなたの不興を買ってしまったようだ。お許しいただけますか？」
「知らないっ！？」
まだ物欲しそうに見つめてくる軍師に、姫は顔を真っ赤にして怒鳴った。

「……ああ、やはり我が主はつれない方だ。寂しいですね」
本当はどうでもよさそうな柊の声が響いた。もちろんそれが彼の手だが、千尋は策を含めた柊の人を小馬鹿にしたような態度に腹を立て、挑発に乗った。怒りを含んだ気合い十分の表情で、姫が無遠慮に距離を詰めてくる。再度の「激突」は遠慮したい柊は、やんわりと主を制した。

「姫。どうぞ御手をお貸しください」
柊は千尋の顔をのぞき込んで哀願していた。少女がしぶしぶと出してきた手を、青年は我が手で包んだ。小さな手は暖かかった。
「――……おや」
「大騒ぎしたから、身体が温まったのかも」
軍師の手のほうが冷たいことに気付いた姫が、同じことを確認しただろう彼が、あっさり自分から手を離したのを見て、なんとなく面白くなさそうに言った。

「ふふ、それは僥倖でございました。それでは姫、本気で風邪など召される前にお戻りを」
「わかった」
生真面目に言う軍師に姫は素直にうなずいた。彼の表情が安堵に変わったのを見届けて、少女は彼の手を取って続けた。
「降りがひどくなってきたから、やっぱり走って帰ろう？」
「――競争なさいますか？」
甘えているのだろうか。それとも私を案じたか。千尋から手を繋がれた意図をはかりかねて、柊は尋ねた。姫はそれには答えず、軍師の手をぐいと引いて、そのまま雪の中を駆けだした。青年はその勢いに一度前へつんのめり、しかしすぐに当然のように彼女のあとについて走りだすはめになった。

「我が君、お待ちください。――我が君！」
まさかこのまま、手を繋いだまま帰るつもりか。後ろ手で男を引いて走る姫に、軍師は制止の声をかけた。

「じゃあ競争する？　勝ち負けがついてしまうけど！」
姫の明るい声が響いた。少女の逆襲に青年は口の端を上げ、足を早めた。柊はあっという間に千尋に並び、彼に負けじとスピードを上げようとする少女の腕を引き、そのまま抱き留めた。

「どうぞお待ちを。――まいったな。あなたを抱きしめずに済むと思っていたのに」
柊は千尋を強く抱き寄せて、自嘲気味に笑った。
「……どうして？」
少女が白い息を弾ませて、甘えるように尋ねた。

「やはり我が君は困った方だ。こうやって、離したくなくなりますから」
柊は腕に力を込めて言った。姫は低い声を聞きながら、軍師の胸に顔を埋め、その熱を心地よく感じていた。

「走ったからちょっと疲れてしまったかも。……だから、もう少しだけ」
「我が君――」
軍師が言葉どおり自分を離す気配がないことに、姫は心のどこかで安堵した。弾む息を整えて、少女が踵を浮かせて背伸びすると、男は微笑んで待っていた。姫は目を閉じて、軍師の頬に口づけた。

「――私も、触れてよろしいでしょうか」
返事は待たず、柊は何度も千尋に口づけを落とした。頬に、額に、唇に、柔らかい熱が伝わってくる。姫はいつしか軍師の背中にしがみついて、降りしきる雪の中、彼の唇を受け入れた。

＊＊
翌日になっても、雪はまだ降り続いていた。

「…………ごめんなさい」
顔半分を毛布で隠し、姫が赤い顔で寝床に横になっていた。その枕元で軍師が、かいがいしく水で濡らした額の布を替えてやっている。
「私の心配をしていただけるのは嬉しいが、それよりもご自分のことですよ。苦しくはございませんか」
「こんなの平気よ。でも、私が風邪なんかひいてしまったから。柊、みなに嫌味を言われたのではない？」
姫が泣き声でつぶやいた。雪の中から帰ったその翌日、少女は見事に風邪をひき、朝から寝込むはめに陥っていた。

「いいえ、姫。嫌味などは誰からも。ああ、だが世話役の女からは、さきほど睨まれてしまいましたが」
姫を心配して見舞いに来た柊はどことなく陽気で、「このような寒い日に、外へお連れして歩きまわるなど。姫がお風邪を召されてもあたりまえです！！」　――と、楽しげに女官の口まねまでしてみせた。

「それが嫌味でしょう？　私は別に、あなたに連れ出されたわけではないのに…！」
千尋は半べそで憤って、寝床から身を起こした。確かに多少熱はあるが、身体がだるいぐらいで、動けないわけではない。

「おやおや、いけませんね。どうぞ姫はそのまま、ゆっくりなさっていてください。私がいて落ち着かれぬようでしたら、すぐに出ていきます。よろしいですか？」
柊は内心かぶりを振って言った。
「――やっ、待って？」
「では、お休みいただけますね」
切実にひきとめる声に、柊は言い含めるように返した。千尋がしょんぼりと頷いたのを認めて、青年は少女の瞳をのぞき込むようにして、柔らかく髪を撫でた。

女官の嫌味はもっともだ。姫が風邪をひいた責任は、雪の中に彼女を長居させた自分にある。軍師は誰に言われるまでもなく自覚していた。けれどそれを口にすれば、当人が必死に否定することはわかりきっている。

「私、きちんと休むから。……柊はもう少し、ここにいられる？」
「ええ。私はいつでも、我が主のよきように。もしお望みくださるなら、ここで添い寝もいたしますよ。我が君が、悪夢に襲われぬようにね」
柊はまったく普段通りに微笑んで、毛布から半分出ている姫の顔に、静かに頬を寄せて言った。彼のサービス精神に千尋は思わず声をだして笑った。

「ふふ、ありがとう。でもそれでは、柊に風邪をうつしてしまいそうだから」
「いけませんか？」
「うん。残念だけれど、遠慮しておくね。――……ごめんなさい」
行儀悪く頬杖をついて、まだ何か言い足りなさそうに見つめてくる軍師に、姫はもう一度謝罪して続けた。

「柊のせいじゃないから。誰かに何か言われても、気にしないで」
「心得ておりますよ。そうでなければ、姫に安心してお休みいただけませんから」
柊が言うと、千尋は困ったように眉根を寄せた。「そういう意味じゃないの」もどかしそうなつぶやきが続いた。

「――ええ、わかっています。恐れながら、いま私があなたのお考えを受け取り間違えているとは思いません。この自負は、自惚れでしょうか」
「柊……」
千尋は頬が上気してくるのを感じた。熱のせいではないのは明らかだ。

「そして我が君も、私の考えなど既にご承知のはず。違いますか」
「ううん。……違わない、と思う。全部とは言えないけれど」
毛布をはいで、千尋は身を起こした。青年が怪訝な顔で彼女を再び寝床へ戻そうと立ち上がったが、少女は抱きついてそれを拒否した。

「……我が君。あまり私を困らせないでいただけますか」
「柊はもう少し、ここにいる？」
柊は部屋へ来てから、姫に何度も引き留められていることに違和感を覚えた。病の時は不安だとはいうが、千尋は一度答えをもらった質問を、なんの意図もなく矢継ぎ早に繰り返す少女だろうか、と。

「私が、そう望むから……？　柊には、それがわかるから？」
男の胸に顔を埋めて、少女は心細げにつぶやいた。

「それは――。半分はそうかもしれませんが」
柊が考え込む素振りを見せると、千尋は反射的に顔を上げた。軍師は寝巻き姿の姫を抱きかかえるようにして、寝床へ腰を降ろした。姫の身体が冷えぬように、毛布を引き寄せてかけてやっていると、少女は待ち切れぬ様子で口を開いた。

「ね？　もう半分は？」
「――ひどい方だ。私にそうしたいことをしろとおっしゃったのは、あなたですのに。お疑いですか？」
「そんな、疑っているわけじゃ――。ただ……、ときどき確かめたいと思ってしまうの。柊はそういうことはない？」
わざとらしいうんざり顔を作ってみせる柊に、千尋は正直に言った。しかし言ってしまってから、急に何かとても悪いことをした気分にさせられて、柊が口を開きかける間に慌てて続けた。

「あっ、変なことを言ってごめんなさい。そんなわけないよね？　柊もそんな風にされるのは嫌だと思うだろうし、これから気をつけるから――」
「これはまた……。姫はせっかちな方ですね」
私の返事をお待ちいただけないとは。柊は呆れ声で言うと、面白くなさそうに千尋の身体をぎゅっと抱きしめた。身を竦める少女の顎を持ち上げて、強引に口づけを求める。わずかに抵抗する腕を掴んで、千尋をそのまま寝床へ押し倒すと、頬に乱れかかる髪を優しく払いのけた。

「か、風邪がうつっても――知らないから」
自分の上で、我が物顔で微笑んでいる柊を、千尋は怒りを含んだ目で見つめ返した。
「人にうつせば、早く治ると聞きました」
「――誰に聞いたの？　そんなの迷信だよ。だいたい科学的根拠が何も、」
「カガクテキコンキョはさておき、我が君？」
自信たっぷりに説明を続けようとする姫の言葉を切って、柊は真顔で続けた。

「あなたが風邪をうつされるなら、私が良いだろうと思いました。他の者では、つまらないでしょう？」
「つまらないとか、そういう問題なの？」
そもそも空気感染の対象は問答無用なんだよ。…などとはとても言えない雰囲気だ。千尋は柊の言葉を額面通りに受け取って、居心地悪そうに身体をもじもじと動かした。妙に落ち着きのない姫には気付かぬ様子で、柊は千尋を組み敷いたまま、更に生真面目に続けた。

「――。そもそも私はあなたのものですので、それを我が君が折に触れお確かめになりたいとお考えになるのは当然の……。いや、これはあなたがお聞きになりたいことではありませんね？」
「……柊？」
難しい顔で考え込む軍師の顔を、姫は申し訳なさそうにのぞき込んだ。柊はすぐに笑顔を作って、ぽつぽつと低い声を響かせた。

「つまり……。私の望みはいつでも、ただ我が君の側にあり、その喜びとなることです。他ならぬあなたに望まれ、この忠誠を確かめられることは苦ではない。むしろ喜びであると――そう考えます」
柊の告白はわかりやすく不器用で、千尋は嬉しさよりも、彼の心を試すような真似をした罪悪感で、胸がいっぱいになった。泣きそうな顔をしている姫を見つめながら、軍師はもう内心どうすれば彼女が微笑んでくれるのか、途方に暮れていた。彼は優しく彼女の頭を撫でながら、長くおろした金の髪に、愛おしそうに口づけた。

「どうか姫、そのような顔をなさらないでください。あなたがわがままとお考えになることは、きっと私の幸福でしょうから」
「そういう優しいことばかり言っていると。そのうちきっと、柊は私に愛想を尽かしたくなるのだから」
姫は甘やかされて、自分が増長することを恐れていた。
「――それは困ったな」
軍師は穏やかな声を響かせて、甘え下手な姫を抱き起こすと、もう一度しっかりと抱きしめた。千尋はぎこちなく柊の背に手をまわして、すがりついてきた。薄衣から姫の体温が伝わってくる。これはまだ熱が高そうだ、などと軍師はぼんやり考えた。

「わ、私も困るから――……だから柊は、もっと私にわがままを言って欲しいの。頼りないかもしれないけれど、私」
がんばるから。と続きそうな唇に触れて、柊はきちんと千尋に向き合って頷いた。

「そうですね。では、ほどほどに」
「……ほどほど？」
軍師の適当な口振りに、姫がなんとなく笑みを見せた。

「ええ。私も我が君に愛想をつかされては、寂しいので」
柊は熱を帯びた千尋の首筋に手を差し入れて、乱れた襟元を手慣れた様子で整えた。羞恥と驚きが混ざったような微妙な表情で見つめてくる姫に、軍師は悪戯っぽく微笑んで続けた。

「目に毒ですから。それに姫のお身体にも障りましょう」
「う、うん……」
ありがとうと小さくつぶやいて、千尋は胸元を隠すようにきゅっと掴んだ。
「風邪が治ったら――、いや、これは『ほどほど』でもないかな」
「聞かせてくれないの？」
姫がつまらなそうに尋ねた。

「おや、おとぼけになりますか。ご存じでしょう？　私がいつでも姫を欲していることは」
軍師がどこか挑発的に笑った。恥ずかしげに目をそらした姫に追い打ちをかけるように、柊は千尋の耳元で直球の台詞を吐いた。
「あなたが欲しい。本当は、いまも自重などしたくはないのですが」
「……っ。柊はどうしてそう意地悪なの？」
居たたまれなくなった姫がそう言って唇を尖らせた。軍師は怒り出した少女から身体を離すと、おどけた笑顔で立ち上がった。

「ふふ、失礼しました。だが姫が、私にそうされたがっていらっしゃるように見えたので、思わず」
「な――――！？」
千尋もまた顔を真っ赤にして立ち上がった。しかし熱の影響か、はたまた動揺のためか、足下がおぼつかない。軍師は姫の身体を親切ぶった様子で支えてやると、すぐに優しげな言葉を吐いた。

「次にお顔を拝見するときには、我が君からは、もっと別のものをねだられたいものですが」
千尋が弾かれたように顔をあげた。彼女が握りこぶしを震わせる気配を察して、柊は声を出して笑った。足下に跪き、恭しく一礼をしてみせると、姫のやるせないため息が響いた。柊が拳を解かすように指へ口づける様子を見て、千尋は尋ねた。

「―――戻るのね？」
「ええ。私はどうやら、姫のご養生にはお邪魔なようだ。それとも、やはり添い寝が必要でございましょうか？」
千尋が断ることを承知で、冗談めかして柊が尋ねた。

「すこし寂しいけど、いらないわ」
「姫……」
立ち上がった柊の唇に、千尋はそっと指で触れた。
「ずるい方だ」
寂しいなどと言われては、立ち去りがたくなる。軍師は困ったように眉をしかめ、姫に口づけようと顔を寄せたが、それは少女の手に阻まれた。青年がその手を掴む。

「私がそう……思わないとでも？」
悲しげな顔でうなだれる柊に、千尋はそっと頬を寄せていた。青年の甘えた口づけを何度か受け入れて、気恥ずかしそうに少女は言った。
「やっぱり、もうすこし側にいて……もらおうかな？」
「――はい。御意に」
心から嬉しそうに柊は微笑んだ。

「では、暖かい飲み物をご用意しましょう。果物なども召し上がりますか？」
「う、うん――」
声を弾ませる軍師に促され、姫はこそばゆい気分で再び寝床へ戻された。

終