ひとりの軍師が、愛しい姫をかばって死んだ。
残された者の悲しみは深く、暗い穴へ飛び降りた少女の行方は知れず。
神子は死んだ。
ごく一部の真相を知る者をのぞいて――。否、彼らにとってもやはり姫は死んだのだ。そして今生の別れを他生の縁（えにし）へ繋げる術を知った、ひとりの少女にとっても。
「……風早さん、ですよね？」
宮からすこし離れた、雑多に人が行き交う広場で、若い吟遊詩人が旅支度の青年を呼び止めた。
「君はたしか天鳥船にいた――。ああ…ずいぶん久しぶりな気がするな。元気だったかい？」
「はい。あの時は、本当にお世話になりました。おかげさまでいまは細々と、人に歌を聴いてもらえるようになりました」
「そうか。夢が叶ってよかった」
千尋が聞いたらどんなに喜んだろうに。そんなことを思いながら、風早は穏やかに目を細めた。
「風早さんは、もしかして旅に出られるのですか？」
「ええ、中つ国もすっかり平和になりましたから」
風早はすこし寂しげに目を伏せて続けた。
「戦が終わってしばらくは、色々とごたごたしていたけれど、もう大丈夫。ようやく新しい体制で政がまわりはじめました。……と言うと何か偉そうですね。はは、でもそれで俺もお役御免というわけです」
「この平和があるのは、みなさんと姫さまのおかげです。私は忘れません。あの方の優しさや強さを、一人でも多くの人に伝えていきます。これからもずっと、それが私の夢です」
「――うん。ありがとう」
千尋のことを、そんな風に言ってくれて。亡き姫の名を決意を込めて口にした吟遊詩人に、風早は優しく微笑みかえした。
「じゃあ、俺はこれで。君もどうか息災で」
「風早さんも、道中お気をつけて」
ひとり姫の顔を思い浮かべながら、二人の青年が別れた。
冬枯れて人の気配のない道を、風早はしばらくのんびりと歩いていたが、その気配もじきにどこかへ消えてしまった。
＊＊
時空の狭間をくぐり抜け、過去へ舞い戻った姫は、黒い龍を倒した後、中つ国で新たな王としての基盤を整えつつあった。
「それにしても……どこへ行くのかぐらい、聞いておけばよかった」
千尋は盛大なふくれっ面で、自室の中を落ち着きなくぐるぐると歩き回っていた。数日前ただ「調査」と称して橿原宮を出た柊の帰還予定は昨夜のはずだったが、彼は今日の午後になっても戻ってこない。もしや何かあったのでは、すぐにも探しに出かけたいところだったが、彼はまるでこうなることを見越していたかのように、誰にも己の行く先を知らせていなかった。
机の上には姫の決裁を待つ竹簡が山を為していたが、まったくやる気が出なかった。千尋は暗い心配を振り払うようにかぶりを振って、恨めしそうにひとりごとをつぶやいた。
「だいたいこんなに仕事をためてしまったのは、柊のせいでもあるのだから。聞きたいことが、山ほどあるのに」
「――ふふ。確かに山ですね。今にも机から崩れそうだ」
ふいに苦笑混じりの青年の声が響いた。千尋が振り返ると、入口で柊が胸に手をあてて一礼していた。
「……柊！？ いつからそこにいたの！？」
「口うるさい軍師の目をかすめ、こっそり姫の温情にすがろうとする輩が、これはまたずいぶんといたものですね。まったく、困ったものだ」
「そういう言い方は――。頼りない私を皆が甘く見るのは、当然のことのように思うし。それよりも、心配したよ？ でも元気そうでよかった」
千尋は竹簡から話題を逸らすと、笑顔で柊に駆け寄った。軍師は両手を広げて姫を抱きとめて、申し訳なさそうに言った。
「思いがけず帰りが遅れ、姫にはご心配をおかけしました。申し訳もございません」
「うん。でも、お願いだから行く先ぐらいは誰かに告げて出かけて？ 私に知らせる必要のない仕事もあるだろうけど、そのときは、その――風早とか忍人さんとかにでも。そうすれば、もし柊に何かあったとき、私たちもすぐ助けにいけるし」
「それは、御命令ですか？」
少女の頬を愛おしそうに撫でながら、青年がすまし顔で尋ねた。
「命令ではなく、お願いだよ？ だから、柊が嫌と言うならもちろん強制はできないけれど――」
「お願いですか、つれない方だ。承知しました。これからは、できるだけご期待に沿えるよう努めましょう」
「うん、そうしてくれると嬉しいよ。では、この話はこれで終わりね？ ――あ、そうだ、皆にも柊が帰ったことを知らせてこないと！」
わざとらしく落胆してみせる柊を無意識にスルーして、千尋が張り切って部屋を出ていこうとした。
「ああ、姫。どうかお待ちください」
がっかり声で姫を呼び止めて、軍師は続けた。
「言い忘れていましたが、こちらへうかがう途中、偶然風早と顔を合わせました。ですからわざわざ姫にご足労いただく必要はないかと」
「そうなんだ…。ならいいかな。風早のことだからきっともう気をきかせて、皆に知らせてくれているよね」
「ええ、おそらくは。――しかし、妬ましいですね」
柊はため息まじりにつぶやいた。
「何のこと？」
「いったい何が違うのでしょうか。私もごく自然にあなたのご信頼を集められるようになりたいと、常日頃より努めているのですが、」
「そうだ柊。疲れていなければ、これからいくつか急ぎの書類を見てくれる？」
放っておくと長くなりそうな柊の愚痴を華麗にスルーして、姫は軍師に笑いかけた。
「御意に。私には、我が君の願いを拒む理由がありませんから」
柊は気取った調子で言うと、すぐに真顔になって竹簡の山を崩しはじめた。
＊＊
柊の帰還を知った風早は、姫の期待通りそれを仲間に知らせてまわっているところだった。
庭はすっかり秋めいている。急に冷たくなった風が頬をかすめて、彼に唐突な胸騒ぎを残していった。漠然とした、言葉にならない不思議な予感を、風早はなんとか明らかにしようと試みて、しかしすぐにあきらめた。
「風早、ここにいたか」
「ああ、忍人。よかった、探していたんだよ。柊がついさっき宮へ戻ってきたから、知らせておこうと思って」
急ぎ足で中庭を突っ切って来た忍人に、風早は人のよい笑顔を浮かべて答えた。
「そんなことはいい。それより、やはりまだ何も聞いていないか」
「え？ 何かあったんですか？」
「正門を出てすぐ東に、小さな林があっただろう。その中に池ができた」
忍人は眉間のしわを深くして言った。風早は内心「これは何の話か」と首をかしげつつ、適当にあたりをつけて尋ね返した。
「ええと…。池というのは、ひょっとして治水用のため池のことですか？ でもあのあたりは、確か古い祠の跡がみつかったとかで、工事からは外すことしたと聞いた記憶があるんですが――」
「そうらしいな。だからいま担当部署では、宮付きのまじない師たちが押しかけて大騒ぎになっている。いったい誰が、断りなくこんな真似を――と。まるで皆、どこかに必ず「犯人」がいるような口振りでな」
忍人は深いため息をついて、どこか腑に落ちない様子で続けた。
「だが彼らの言うように、本当に人がやったとすれば、妙な話だ」
「……どういうことですか？」
「あの林はこのところ兵の訓練に毎日のように使っているが、昨日は俺も含め誰も池など見ていない。いくらなんでも林のど真ん中に、一夜にして池を作りあげるなど、考えられないだろう？ そもそもそんなことをして、誰に何の得がある」
皮肉な笑みを浮かべる忍人に、風早は難しげにうなり声をあげた。
「確かに、損得はともかく、人の手にしては仕事が早すぎる気がするね。ところでその妙な池の第一発見者は、忍人たちだったんですか？」
「ああ、発見は今朝の訓練時だ。それからつい先ほどまで、俺は会議でその経緯を説明をしていた。関係者とやらが増えるたび、何度も同じ話をさせられてうんざりしたが、――最後まで姫が姿を見せなかったところを見ると、おそらく彼女には何も報告していないのだろう」
忍人が激しい憤りを隠さずに言った。
「うーん…。この件が姫に露見しないうちに、是が非でも「犯人」を見つけたいって感じかな？ まあ、気持ちはわからないでもありませんけど」
「のんきに共感している場合ではないぞ、風早。治水部だけならともかく、まじない師たちは『勝手に管轄を犯された』と相当あさっての方向に血が上っていたようだしな。捕り物をして捕まるのが本当に犯人ならば良いが、もし違ったら――。後始末のことを考えただけでも頭痛がする」
苦笑している風早を、忍人はうんざり顔で咎めた。
「ごめん、ごめん。でも忍人、このことを俺に話してしまってよかったんですか。その様子だと、口止めをされていたんじゃ――」
「犯人探しが無駄だと言う権利はないが、素直に黙っている義理もないからな。――この件は、君から姫に伝えておいてくれ」
忍人はそう言ってあっさり踵を返した。
「それは構わないけど、忍人はどこへ？」
「あの男が帰ってきたと言っただろう」
無表情に振り返った友人の目が冷たい。風早は内心頭を抱えて尋ねた。
「まさか。柊を疑っているのか？」
「どちらにしろ、間が悪すぎる。目ざとい軍師が帰って来たと知れば、こそこそした連中は慌てるだろう。いや、かえって好都合だと喜ぶかもしれないがな」
忍人はうんざりと吐き捨てた。
「ああ、なるほど――。困ったね、つまりもう柊は、彼らに"疑われて"しまっているということか」
「自業自得だ。会議の席では犯人としてさかんに名をあげられていたが、庇う声はまるでなかった。そもそもあの男には、日頃から不審な行動が多すぎる。このところはよく宮を空けていたようだしな」
「でも柊に敵が多い理由は、姫の代わりにあえて憎まれ役を買っている部分も多い。忍人だって、それは気付いているだろう？」
風早は沈んだ声を響かせた。
「風早。相変わらず君は甘いな。誰かの肩代わり分など、あったとしても誤差みたいなものだろう。あの男は根本的に、人の弱みを探り当て、それを利用する術に長けている。嫌われるのは道理だ」
「うーん、相変わらず、手厳しいね」
柊をこき下ろすことで姫をかばう忍人の不器用な気遣いに、風早はなんとなく心温まるものを感じた。
「――ところでそういう忍人は、柊に何か弱みを握られているんですか？」
「なっ……！？ バカをいうな！ 本気で怒るぞ！」
「はは、ごめん。ちょっと言ってみたかっただけです」
反射的に両手を刀にかけた忍人を見て、風早は笑ってごまかした。
「それに、あの池にも気になることがある」
「気になること？」
忍人は憂鬱に頷いた。池を発見して水辺へ近づいた時、腰に差した破魂刀が急に鳴りだした。そのことを思い出していた。
「あの林は、村の者が近道に使うこともあるようだからな。まあ、池の周囲はまじない師たちが封鎖したと言っていたから、そうめったなことはないと思うが――。そういえば、君はそこにあったという祠が、どこへ移されたか聞いているか？」
「ちょうど宮から常世軍の引き上げが終わった時期に、裏山へ移されたという話は聞いた気がするけど、俺も詳しい場所までは。でも、それがどうかしたのかい？」
「いや。……気にするな、特に確たる何かがあってのことじゃない」
だがそう言って、忍人は暗い顔で押し黙った。その様子を見て、風早はしばらく何か言葉を探していたが、やがて彼を取りなすように明るく提案した。
「どうだろう、忍人。そんなに池が気になるなら、まずは二人で姫に説明に行って、その後みなで調べに行くというのは」
「バカを言うな。こんな確証もない話に、軽々しく姫をまきこむつもりか！？」
「そう難しく考えなくてもいいんじゃないかな。確証がないから、確かめに行くわけだし。それに俺もなんだか妙な胸さわぎがするんだ。祠を動かした時期というのは、こちらも何かとゴタゴタしていただろうから。別にまじない師たちの仕事を、疑っているわけではないんですが」
「しかし――」
風早の説得に、忍人ははっきりと難色を示していた。
「それに俺たち二人だと、結界を破れはしても、帰りに修復は無理だろう？」
「俺は結界に侵入するとも、共に行くとも言っていないが」
有無を言わせない笑顔で話を完全に仕切っている風早に、忍人は皮肉な笑みを浮かべ、いちおう反論をしてみせた。しかし経験上、こうなった風早に自分が勝つのは難しい。忍人はあきれ顔で続けた。
「だが、確かに連中が俺たちを、すんなり結界の中に入れるとも思えないしな。俺はあの池をあのままにしても、危険がないことが確認できればいい。穏便に済む方法があるなら、それに越したことはない」
「うん。じゃあ、決まりだね。まずは姫のところへ事情を説明に行きましょう。あとは那岐か柊を探して――何にせよ、出発は日が落ちてからですね」
風早と忍人は揃って姫の自室へ向かって歩き出した。