空は一面に黒い雲がたちこめ、朝から激しい雨が降っていた。
「今日は一日雨か。陸路の人たち、大変だろうな」
姫は堅庭の東屋に腰を降ろして、ぼんやりとつぶやいた。岩長姫が率いる別働隊が気がかりだった。
「素晴らしい……。一兵にまで向けられる姫のお心遣い感服いたしました」
憂い顔の少女をみつめ、傍らの軍師がばかに上機嫌で口を開いた。
「予定もあるし、きっと行軍は止めてないよね……。みんな、濡れて風邪をひいたりしないといいけど」
「ああ――ですが他の男のことで、あなたが憂いた顔をなさっているかと思うと、私の心は凍えてしまいそうです。温めていただけますか？」
深刻な姫に軍師は切々と、しかしどこか楽しげに軽口を返した。
「柊。ふざけるのはやめて」
「おっと、これは……困ったな」
姫に睨み返されて、軍師は明らかに嬉しげに微笑んだ。
「私は決してふざけているわけではないのですが。それに陸路を行く兵は、あなたへの忠誠と失われた国の奪還を心より誓う者ばかり。これしきの雨でどうこうなるほどヤワではないことは、誰よりも姫ご自身がご存じのはず。そうは思われませんか？」
言っていることはまともだけど、やっぱりその態度はふざけているようにしか見えないよ。
姫は軍師の言葉と表情が微妙にかみ合っていないことを指摘しようか迷って、しかしすぐに諦めた。「何を考えているかよくわからない」というのが柊の印象の大部分ではあったが、「人が心の底で何を考えているかなど、誰にもわからない」と考えてみれば、かえって彼は親切で正直者なのかもしれないと思える。否、そう思うことで、千尋は柊という存在に納得をしていた。
「でも柊は、もうすこし自分を取り繕ってもいいんじゃないかと思うんだ」
そうすれば余計な誤解や諍い――特に葛城将軍の消耗と毒舌が――減らせるんじゃないかな、などと考えてみたものの、それを口にする勇気はさすがの姫にもなかった。
「――は」
姫の唐突なひとりごとに、軍師はわずかに目を見開いて、しかしすぐに意味深な笑みで応えた。
「ふふ。やはり姫はお優しい。ですがご心配には及びません。私はいつでも我が主の良きように」
「それ、どういう意味？ たぶん何か違ってるような気がするんだけど」
姫は己の心を探るように軍師に尋ねた。
「何がでしょう？」
軍師はそしらぬ顔で尋ね返した。
絶対的に違う二人の立ち位置を、男は知り、少女は知らない。軍師と姫の在り方はいつもすれ違い続ける。しかしそれは曖昧にぼかしておかなければならないと男は考えていた。知ればこの善良で勇敢で優しい少女の心は、無情なさだめと割り切れぬ悲しみに引き裂かれてしまうだろうと。
「でもまあ、確かにここで心配していてもはじまらないよね」
姫は軍師の拒絶を感じ取って、もどかしそうにつぶやいた。雨はまったく弱まる気配がない。心の中でため息をついて、姫は立ち上がった。
「おや、姫。どちらへ？」
「休憩は終わり。いまの私にやれることをするよ。今日はこの雨で、荒魂を鎮めには行けないから――」
せめて中で忙しく働いている仲間たちの手伝いでも、と意気込んだ姫が答える前に、軍師はもっともらしく頷いた。
「ええ、まこと姫のおっしゃる通りですね。このような日はゆっくりお身体を休めていただくのも、神子にとって重要なことです」
「え？ ちょっと待って柊、私は…」
「あなたは、いえ――荒ぶる神を鎮めることができるのは、あなただけです。しかしその輝くばかりのお力も、残念ながら無尽蔵というわけではない。神子とはいえ、姫には人の身ゆえの制約もございましょうから」
軍師は姫の主張を遮って、薄く笑みを浮かべてみせた。
「私は、自分が特別だとは思っていないよ。荒魂を鎮める力は、珍しいものなのかもしれないけど。――制約って？」
「私がご説明するまでもなく、姫も当然ご存じかと思いますが。人が活動を続けるためには、必ずそれに応じた休息と補給が必要です」
軍師に言われて姫は黙り込んだ。降りしきる雨が東屋の屋根を鳴らしている。
「――柊って、過保護だって言われない？」
やがて姫がポツリと口を開いた。その頬に淡い笑みが浮かぶのを認めて、軍師は安堵した。
「どうか神子、本日はごゆるりとおくつろぎを。そしてあなたのしもべに、なんなりと御命令ください」
「柊。それは質問に答えてないよ」
じれったそうに姫が口を尖らせる。主から回答をせがまれて、軍師は再び明らかに嬉しげに微笑んだ。
「そのようなことは考えたこともございませんね。あなたは我が主。お守りするのは私にとって当然のこと、なのですから」
「それもなんだかはぐらかされている気がするんだけど。――まあいいか」
妙に自信たっぷりの軍師に苦笑しながら、姫は両腕をいっぱいに広げて伸びをした。横目で軍師を眺めると、彼はしおらしくお呼びがかかるのを待っている。
「そうだ。これから書庫に行こうかな。読めない竹簡の中に、興味を引かれるものがあったの。柊は時間がある？」
思いついたように姫が尋ねた。
「姫からお誘いいただけるとは、嬉しいですね。もちろん時の許す限りおつきあいいたしますよ」
「うん、お願い。それじゃあ行こう」
「ああ、姫――お待ちください」
今にも出て行こうとする姫を、軍師はおっとり呼び止めた。彼は傍らにあった薄布を広げて姫の肩にかけてやり、更に心配でたまらないといった風情で続けた。
「雨に濡れてお風邪を召されてはいけませんから。どうぞ頭からかぶってお使いください」
「そんなにヤワじゃないよ、私も」
姫は一寸考え込んで、やがてにっこりと微笑んでみせた。逆襲の予感に、軍師が思わず苦笑する。
「これは参りましたね」
「柊は、過保護だって言われるでしょう」
追い打ちをかけるように、得意げな声が響く。既に姫は薄布をなびかせ、ひとりでさっさと東屋の外へ躍り出ていた。雨が髪をまたたく間に濡らし、血色の良い頬に雫を滴らせている。軍師は内心頭を抱えながら、あっさり負けを認めた。
「そうですね、ときどきは。――しかし我が主にも困ったものだ。これでは書庫へ行く前に、お部屋へお戻りいただかなくてはなりませんね」
「あ、それもいいかも。もうそろそろおやつの時間だし、柊も一緒にどう？ さっきは『凍えてしまいそうだ』と言っていたけれど、熱いお茶を飲めばきっとすぐに温まるよ」
姫は軍師に寄ると、無邪気に笑って提案した。
「ええ、私は我が君の良きように」
柊は言いながら姫の薄布に手をかけて、今度は頭からかぶせるように布をかけ直した。姫のまっすぐな視線を感じて、生真面目に続けた。
「だができればお茶を頂戴する前に、姫には濡れた服をお取り替え願いたいものですが」
「そ、そんなに濡れていないよ。別に身体が冷えたりもしていないし、服を着替えるほどでは……」
軍師の声音になんとなくヤケクソ的な色を感じ取って、姫は恥ずかしそうに言い繕った。
「ああ、それとも――やはり姫には私の腕の中で温まっていただくべきでしょうか」
「着替える」
にこやかに両手を広げた軍師に、姫は光の早さで即答した。警戒心丸出しの少女を眺めながら、軍師は心の中でこっそり「寂しいですねぇ」と呟いた。
軍師に促されるまま、姫は雨のなかを再び歩き出した。なにげなく振り返ると、柊もずいぶん濡れてしまっている。千尋は急に居たたまれない気持ちになって、思わず彼の腕を取っていた。
「我が君……？」
「急ごう」
姫は軍師の返事を待たず、彼の手を引いて走った。顔に当たる雨を冷たく感じながら、二人は船への入口に駆け込んだ。
「ご、ごめんね。私が考えなしなせいで、柊まで濡れてしま――……な、ななっ何っ！」
「ふふ、すみません。雨に濡れる姫のお姿があまりに可憐でしたので、つい」
などと言いながら、柊は千尋の頬に手を伸ばしていた。男の大きな手でぺたぺたと触れられて、少女が思わず後ずさる。驚きはすぐに怒りに変わった。
「だっ、だから！ どうして柊はすぐそういうこと言うの！？」
「我が君が愛らしいのは本当のことです。ご存じありませんでしたか？」
心外そうに柊は主張し、どこかからかうように尋ねた。怒りも忘れて絶句する主を満足げに眺め、男は続けた。
「さて。それではさっそく姫をお部屋までご案内いたしましょう。ああ――濡れた布はこちらへ。お預かりいたします」
「ご案内？ たしかに広い船だけど、さすがに迷子になったりはしないよ」
疲れ切った様子で、姫は力なくかぶりを振った。
「ご不要でしょうか」
「……もう。部屋に着いたら、柊には乾いた布を貸してあげるよ」
わざとらしく肩を落とす軍師に、姫は困ったように笑みを返した。
「姫――」
「そ、それから中でお茶を飲んで、そのあとは書庫で、わからない竹簡を読むのにつきあってくれる？」
姫は早口で言うと照れくさそうに俯いた。軍師の顔が途端にぱあっと輝く。
「もちろんです、我が君。――ああ、私があなたを独占するお許しをいただけるとは、なんと光栄なことでしょう……！」
「柊。はやく行くよ」
延々と続きそうな柊の感激を聞き流し、千尋は赤くなった頬を両手で押さえて歩き始めた。
「ああ、お待ちください」
知らずにわき上がる喜びを押さえる術もなく、軍師は眩しげに目を細め、いそいそと主の後を追いかけていった。
終