SS.

これでまたひとつ、星が動く。
狗奴の少年の居場所を姫に知らせた帰り道、軍師は苦い笑みを浮かべてひとりごちた。人目につかぬよう暗い森を通る。そろそろ邸にはサザキが到着しているはずだ、急いで戻る必要があるだろう。
「おや？　あれは――」
視線の遠く先に、ひとりの土蜘蛛の影が映った。土蜘蛛は考え事でもしているのか微動だにしない。布で覆われた顔の表情はうかがえないが、彼は己の手を――否、その中にある何かをじっと見つめているようにみえた。
「迷っているのですか？」
軍師はまだ名乗る名を持たない彼に、そっと声をかけた。
（…………迷う？　………違う、オレは）
「どちらにせよ、それほど時間はありませんよ。今夜はこの森も騒がしくなるでしょう」
土蜘蛛の返答を適当に推察しながら、軍師は呪縛のように続けた。
「君にはその声を無視できない。私には見えるのです」
（………………）
軍師には聞き取れなかったが土蜘蛛は何かを答えた。そして青い花弁を大事そうに懐にしまい込み、代わりに小さな包みを取りだすと、無言で軍師に差し出した。包みは葉でくるまれており、独特の匂いがある。
「これは、傷薬ですね」
（火の匂いが……近い……）
頷く土蜘蛛に軍師は皮肉な笑みを返した。
彼はどこまで理解しているのか。おそらく全てだろうと軍師は思った。ただし心の奥深くに刷り込まれ、本能的に反応する『それ』は、人に伝えられる形を取っていない。そんな不自由さを彼からは感じた。
土蜘蛛は迷っていたわけでも、決意の後押しを必要としていたわけでもない。ここで自分を待っていたのだ。軍師は心のどこかで彼を侮っていた己を恥じた。
「せっかくのご好意です、ありがたく受け取っておきましょう」
（………ああ）
軍師が薬を受け取ると、土蜘蛛は律儀に頷いて立ち去った。灯が消えるように森が再び静まりかえっていく。
「――そう、誰もが無視できない。魂の叫びはいつでも、欠けたものを補おうと必死で……痛ましいものですね」
ねぇ、我が君――。軍師はひとりの少女を心に思い描きながら、つまらなさそうにつぶやいた。


＊＊
土雷の邸は常世風に石でできた建物だ。木造である中つ国のそれに比べて格段に火に強い。
「さて、これでこちらの準備は整いました。あとは――」
軍師は正門の真下に大がかりな呪文を敷き、そこに朱雀の石版を設置した。気配を感じて夕焼けの空を見あげると、日向の影が逆光で暗く映っていた。
「おい、柊。そんなとこでなにやってんだ……って！　そこにあるの、うちの神さんじゃねーか！」
「約束の刻限は一時ほど前ですよ。かなりの遅刻だ。おかげで土雷様がご立腹です」
羽音を響かせて舞い降りたサザキに、柊は「余計な手間が増えた」と言い出さんばかりの勢いでうんざりと言った。大将に続きカリガネら仲間十数名も次々と着地して、そんな軍師を注視する。どの顔もふてぶてしく気合いの入った面構えだ。
「確かあんたの話じゃ、神さんは厳重に保管されてるんじゃなかったか？　いいのかよ、勝手に持ち出してきて。それともやっと返す気になったのか？」
「お気の毒ですが」
ナチュラルに遅刻の件をスルーしたサザキを、柊はわざとらしく慰めて続けた。
「それにこの石を使う許可は取ってありますよ。これも反徒からこの邸を守るため、必要なことですので」
「許可？　しかも神さん使う！？　そんな話オレは聞いてないぜ？」
サザキが大げさに驚いてみせた。脳天気にも見える大将の横で、カリガネが呪文の中心に据えられた石版を見つめている。隙あらば、と抜け目なく光る目に軍師が応えた。
「ふふ、お忘れですか？　いまの君たちに、この石を所有する権利などありませんよ」
「……まあな。だがオレたちも、いまさら約束を破ろうなんざ思っちゃいないぜ。やる気なら、とっくの昔にそうしてるさ」
「賢明ですね。約束を違えれば契約そのものが破棄される。もし君たちが強引に事を運べば、日向の民は永遠に神を失っていたことでしょう」
柊は何やら含みを持たせて口の端をつり上げた。
「神さんがなくなる！？　確かにそりゃあ困るな――」
「では……なぜ呼んだ……？」
サザキと柊の間に、カリガネが割って入った。彼は顎を空に向け「……もう日暮れだ」と付け足した。普段なら『おつとめ』からは解放される刻限だ。
「反徒が今夜にもこの邸に攻めてくるってか？　ハッハー！　馬鹿言うな。そんな無茶をする奴は、もうこの辺りに残ってないだろ」
「……レヴァンタに従わぬ者は……みな、捕らえた」
サザキの自虐にカリガネが冷静に突っ込んだ。後にいる日向の男達も明らかに苦渋の表情を浮かべている。その様子を眺め、軍師は澄まし顔で言った。
「おや？　君たちなら、既に噂ぐらいは耳にしていると思っていましたが。中つ国に二ノ姫が戻り、この地の反徒たちを先導しているという噂をね」
「さあな。だがまあ合点はいったぜ。要はレヴァンタの野郎、その二ノ姫とかいう奴の噂にびびっちまってるわけだ。それで邸の守りを固めようと、オレたちを急に呼びつけた。まったく迷惑な話だぜ」
レヴァンタを揶揄する陽気な声に、男たちの笑いがどっと続いた。
「――さて、頃合いですね。雑談はここまでにしましょう」
太陽が地平線に沈みはじめていた。柊は表情を消し、神が宿る石版を拾い上げると、サザキの顔を一瞥した。朱雀の神気は土雷邸の陰に偏った気で更に荒んでいる。これから為す術は神の意志を曲げて行うしかないだろう。当然難度は上がり、失敗の可能性も増える。軍師はその憂いを最小限にするために、彼の神の力が最も弱まる刻限まで待ち、神にゆかりのある民――つまりサザキたちを呼びつけていた。もちろんどちらも最大限に利用するつもりで。
あたりの空気が一瞬ひんやりしたことに気付いて、日向の男達がなんとなく不安げに顔を見合わせている。
「柊、あんたいったい……。神さんに、何をする気だ」
サザキが仲間を守るように前に進み出て、羽を広げ、低く尋ねた。
「そう警戒する必要はありませんよ。神の力を使ってここに炎の壁を作ります。邸の守りは君たちだけでは心許ありませんから、代わりに少々お力添えいただきたいと思いまして。――さあサザキ、この石版に手をかざしていただけますか？」
「オレたちだけじゃ足りないだと？　ぬかしやがったな」
柊の周囲が強い気で満ちている。術の行使をひかえた者独特の張り詰めた様子と有無を言わせぬ物言いに、サザキはしぶしぶ従った。彼が手を伸ばすと、朱雀の石はすぐに淡く光りはじめた。
「大いなる神に聞こしめせと、かしこみかしこみ申す――」
「くっ……！」
サザキが苦しげに声をあげた。柊の詠唱があたりに響きわたり、石が放つ光は急激に大きく強くなっていく。
「サザキっ！？」
いちはやく異変を感じ取ったカリガネが駆けつけた時には、柊とサザキはぶあつい光に包まれ見えなくなっていた。
「大将！　大将っ！？」
「返事をしてくれ、大将！　――だめだ。なんだこの風……近寄れねえ…っ！」
突然あたりに吹き始めた風が、必死に光へ近寄ろうとする仲間たちを無情に押し戻す。それでも男達は諦めず、声の限りにサザキを呼んで力づけた。いっぽう術中のサザキは、少しでも気を抜けば己を見失いそうな感覚と戦いながら、軍師を睨みつけていた。しかし当の柊はひとり涼しげな顔をして、いつ終わるか知れない呪文を延々と唱えている。
「くっそ、柊。おまえ……はめ、やがったな！？」
「大いなる神よ、美しき翼よ、彼の地に御息を恵みたまえ。御身の写し身をここに、堅牢にして堅固なる壁を――疾く為したまえ」
「だあああーーーーー！無視すんな！！　いいか、忘れるなよ！？　あとで絶対うまい酒と食い物……うおおおっ！？」
サザキは大声で怒鳴ることで己を保ち、気力を保っていた。そうしていなければ引きずり込まれてしまう。怖気がよだつような暗く冷たい闇の中へ。いま対峙しているのが村の守り神と考えると何かが妙な気もしたが、それ以上深く考える余裕はいまのサザキにはなかった。
「朱雀からの強い加護を受ける日向の民でさえこのざまですか。私の場合は――考えたくもありませんね」
柊は巨大な力の奔流に抗うサザキをちらと眺め、すぐに顔をしかめてかぶりをふった。仲間が案じる悲痛な声も、今の彼にはおそらく届いていないだろう。
「ああ゛あ゛…っっ！！　くそ……腹が減った……！　カリガネ、メシの準備しとけーー！！」
再びサザキが突拍子もない声をあげた。意識をとぎれとぎれに寸断された状態でなお、彼は仲間に余計な心配をかけまいとふんばっていた。
「健気ですね。人払いをしておいて正解でした」
柊は邸の者たちに、炎の壁が完成するまでは決して外に出ないようにと言い含めておいた。この術の危険性をいやらしく説明した甲斐もあり、土雷はいつも以上に大人しく、邸の奥に引っ込んでくれていることだろう。鍵のこじ開けと風よけの役割はサザキに押しつけたが、この大がかりな術を執り行う柊にも、決して余裕があるわけではなかった。軍師は乱れた呼吸を素早く調えて、再び神経をすり減らす長い詠唱に没入していった。
「もしかして、無事なのか？」
「いや、どうなんだ？　しかしなんだか緊張感ねえなあ」
「メシの準備しとけー！　だもんな。本当に大丈夫なんですか、大将ー！」
サザキの叫びは光の外までしっかり響いていた。何度も風に立ち向かいながら、男たちはいつしかみな半笑いになっていた。
「…………サザキ」
親友の明らかな強がりを感じ取って、カリガネは眉間にしわを寄せ、暴風の中立ちつくしていた。


太陽がすっかり地平線に沈んだ頃、ようやく柊の術は成った。土雷邸の門前に唐突にそびえ立った炎の壁に、誰もが思わず息を飲んだ。
「くっ……っそ、てめえだけ、涼しい顔……しやがって……」
「君がいて助かりました。あなたたちがこの石を守り神と崇めていたというのも、伊達ではありませんでしたね」
炎の壁の前に立ち、軍師は傲然と言った。熱風が容赦なく背中を叩きつけ、髪を踊らせている。柊は不意に激しい憎悪にも似た思念をぶつけられ、思わず苦しげに眉をひそめた。因果応報は世の常だが、疲弊した身体にはことさら堪えた。
「大将！　無事っすか！？」
「しっかりしてくださいよ、大将」
すぐ側でへたりこむサザキに、仲間がわらわらと駆け寄ってくる。その美しい光景を横目に、軍師は踵を返した。
「……待て。サザキに何をした」
カリガネが怒りを抑えているのがわかった。柊はやれやれと肩をすくめ、なるべく穏便に聞こえるように説明をはじめた。
「ふふ、すっかり私が悪者ですね。サザキには、ちょっと力をお借りしただけですよ。残念なことですが、日向の民ではない私が神を眠りから呼び覚ますことはできそうにありませんでしたから。ほんのすこし強引な方法をとらせていただきました」
「てめえ――なにがほんの少しだ！　さっきからわけのわからないことを言いやがって！？」
血の気の多い男が軍師に食ってかかった。それが引き金になって、仲間たちの顔が一斉に険しくなる。みな握りこぶしを固くして、一触即発の空気が流れた。
「よせ！　おまえらこんなことぐらいで騒ぐんじゃねえ！」
カリガネの肩を借りて立ち上がったサザキが仲間たちを一喝した。「いや、だって大将…」などと言ってまだ不満げな者は、彼が汗まみれの顔に笑顔を浮かべるのを見て、神妙に黙り込んだ。
「……サザキ。無理が…ばれている」
「うるせーよ、カリガネ。あー腹減った。なんかメシ作ってくれ」
「今は無理だ。……材料もない」
いつものくだらないやり取りに忍び笑いが漏れる。サザキは赤々と燃える炎の壁を見つめ、軍師に向かって一歩前に踏み出した。
「柊。これが、うちの神さんの力なのか？」
「ええ。正しくは、そのお力のほんの片鱗といったところでしょうね」
柊の声には隠しきれない高揚が滲み出ていた。
「あんたは嬉しそうだな。だが、これは――」
こんなことは、うちの神さんはきっとこれっぽっちも望んじゃいない。サザキはそう言いかけて言葉を飲み込んだ。たとえ自分の想像どおり、柊が神の力を無理矢理引き出していたとしても、その原因を作ったのは他ならぬ自分だ。大切な守り神に己の尻拭いをさせてしまっている悔しさにサザキは歯がみした。
「縛られているのは私たちだけではないという見本ですね。神もまたさまざまな因果によって縛られ、時には引き裂かれることすらある。惨いことですが」
「――オレたちは、今夜ここであんたの言う二ノ姫とやらを待てばいいんだな？」
無神経な声を響かせる柊に、サザキは感情を押し殺して尋ねた。
「お任せします。『邸にはネズミ一匹通すな』が、土雷様の御命令ですから」
「へっ……臆病者が！」
日向の男が忌々しげに吐き捨てた。柊は困ったように肩をすくめてみせると、そのまま邸の裏手へ歩み去った。
「サザキ、どうする……？」
カリガネと仲間の不安げな視線を感じて、サザキは不敵に答えた。
「馬鹿いうな、決まってるだろ。神さんをここにひとりにしておけるか」
「……決まりだ」
カリガネが優しく頷くと、すぐに男達の歓声が続いた。
「ま、噂の二ノ姫とやらの顔も、しっかり拝んでおきたいしな」
己の予感を胸にしまい込んだまま、サザキはことさら陽気に笑った。
「なあ、お頭。二ノ姫とやらを待つのはいいが、もうすこし先にしませんか」
「大将、そうしようぜ。こんなに壁に近いんじゃ、すぐに焼き鳥になっちまう」
羽をばさばさ鳴らして懇願する仲間たちに、サザキは快く頷いた。
「それもそうだな。じゃあ野郎ども、行くぜ！」
サザキのかけ声に呼応して、日向の民は思い思いに前進していく。その後ろ姿を眺めてから、サザキはほんの少し眉根を寄せて、いまにも天を突かんとする炎の壁を振り返った。
「神さん――。もう少し辛抱してくれよ」
あんたのことは、いつか必ずレヴァンタから取り戻す。だから、待っていてくれ。
再び心に誓う男の背中に熱い風が吹きつけた。それを頼もしい追い風のように感じながら、サザキは翼を広げ、仲間の後を追っていった。


「く……っ」
土雷邸の裏門へ続く獣道の片隅で、軍師が苦しげにうずくまっていた。右目を押さえつける手は痛みに震えている。
古傷が疼く原因との接触は、神子を導くために避けられないことだ。柊は歯を食いしばって、背中を丸めて、必死に痛みをやり過ごした。感覚が暴走している。思考は既に停止し、感情は泣き叫ぶままにするほかない。この痛みに比べれば、孤独などいかほどのものか。
やがて軍師はよろよろと立ち上がり、肩で息をしながら、すっかり日が落ちてしまった空を見つめた。まだ薄い宵闇に浮かぶ星の光は淡く、心細げに何かを訴えかけているように見えた。
「ご心配には及びません。今夜あなたのもとへ集う光は、必ずや姫をお守りするでしょう。命を賭して――。あなたはただそれを受け入れさえすれば良い」
まるで不安げな幼子に言いきかせるように、軍師はつぶやいた。人の気配のない裏門をくぐり、ふと「ああ」と何かを思い出したように振り返る。その瞳が不思議な色をたたえていた。

終