軍師は執務室で山積みの竹簡と格闘していた。
といっても彼にとってはそれが日常で、別段思い入れも苦にする様子もなく端から順にホイホイと仕事を片づけていたのだが、ふと、ある竹簡を取り上げた彼が眉間に深い皺を刻んだのを、姫は見逃さなかった。
「どうしたの？ 柊――」
ふいに香草の香りが立ちのぼって、軍師は返事をする間もなく唇を奪われた。己の隙に気付かなかった驚きを表には出さず、彼は口づけを引き取って、しばらく姫の戯れにつきあった。柔らかな手が優しく頬を撫でる心地よさに、柊はしばし仕事を忘れて身を浸した。
「姫からお求めいただけるとは光栄ですね。しかしこのような褒美をいただける仕事を、私はしたでしょうか」
「ご褒美のつもりはなかったのだけど……。理由がなくてはいけない？」
千尋は困り顔で首を傾げた。一枚の竹簡を前に凝固していた柊の姿があまりにも異様で、ちょっと悪戯心が疼いたとは言えなかった。
「嬉しいことに変わりはありません。我が君は困った方だ、私が喜ぶことをすっかり心得ていらっしゃる」
「ええと……ならよかった」
軍師の軽口は適当に流して、姫は曖昧に微笑んだ。問題の竹簡は常世の文字で書かれていて内容がわからない。少女は心の中でそれを口惜しく思いながら、竹簡と男の間に身体をすべりこませた。
「我が君――？」
軍師は姫を受け入れて、少女を膝の上に抱き、ほとんど反射的に髪を撫でた。しかしその声にはわずかな困惑が混じる。千尋は柊の胸に頭をもたげ、思案顔で言った。
「難しい顔をして、手が止まってしまっていたから。柊のそういう姿は、とても珍しいと思って……。なにか難しい仕事なの？ 私に何かできることはある？」
「ああ、情けないことです。姫にご心配をおかけしてしまうなど」
軍師は心からそう言ったが、口振りはいつものようにいたって軽い。姫はそんな彼の気遣いに誤魔化されまいと、恋人の腕に抱かれるにしては妙に身体に力が入っていた。そしてそれは当然のように、少女を抱く男に伝わった。
「ふふ、だがやはり姫はお優しい。ご心配には及びませんよ。我が君の手をわずらわせるほどの件でもございませんので」
「心配っていうか、柊はきっと大丈夫だろうなって思っているよ」
信じているから、という気持ちが伝わるように、千尋は柊を見つめて言った。
「心強いお言葉ですね。ええ、そうなるよう努めます」
「でも、でもね？ もし行き詰まったときは――ちょっと気分転換すると、いい考えも浮かぶかなって思ったの。……ただの勘だったんだけど。お節介だったかな。お仕事の邪魔だったよね？」
いつの間にか姫はひとり赤くなったり青くなったり百面相を始めていた。考え事の邪魔かと尋ねられれば確かにそうだったのだが、さすがの軍師もこの正直な姫を邪険にする気にはなれなかった。男は腕の中の少女を抱きしめて、穏やかに口を開いた。
「我が君に隠し事はできませんね。おっしゃるとおり、少々気分を変えるのも良いかもしれない。よろしければお付き合いいただけますでしょうか？」
「う、うん。もちろん！」
千尋は柊に抱きついて、嬉しげにはしゃいだ声を響かせた。
「ねえ、だったら気晴らしには外へ行こうよ。夏の花が咲きはじめて、とってもきれいなの」
「姫がご機嫌でいらっしゃると、私もつい嬉しくなってしまう。御心のままにいたしましょう」
軍師は姫の手を取って口づけると、まだ何事か言いたそうな目でじっと彼女の様子を見守った。
「あ――。ちっ……違うよ？ べ、べつに最初から柊と散歩に行きたいなんて思っていたわけでは……。気分転換にちょうど良いと思ったからだよ？」
「ええ。さすがは姫。素敵な思いつきですね」
貼り付けたような笑みを浮かべ、勿体ぶって柊は答えた。
「やっぱり。その言い方、信じてないでしょう！ でも本当なんだから！」
ムキになって立ち上がった千尋に、柊は「まさか私が我が君を疑うなどとお思いですか？寂しいことです」などと悲しげに言いながら、わざとらしく笑みを返した。からかいがいのある善人を、つい煽って苛めてしまうのは彼の悪い癖だ。そしてそのせいで彼はこれまで幾度となく姫に不興を買って来たのだが、当人にはその悪癖を改めるつもりはこれっぽっちもなさそうだった。
「ああ…、我が君にお誘いいただけるとは光栄ですねぇ。今日は暑くなりそうですから、あまり日が高くならないうちに出かけませんか。せっかく姫とご一緒するというのに庭歩きとは、色気も風情も少々不足している気がしますが、残念ながらいまから遠出する許可は下りないでしょうからね」
「もう。わけのわからないことを言わないで、柊。だいたい暑いからってずっと邸の中に閉じこもっていたら、そのうち溶けてしまうのだから。……行きたくないなら、別にいいよ」
本心ではなんとなく不満そうな軍師に、姫は必死の反撃、もとい説得を試みた。
「おや、私が姫をお一人にさせておけるとお思いですか？」
赤い頬を膨らませる姫に、軍師はうやうやしく手を差し出して、にっこりと笑いかけた。
「私では相談相手には不足かもしれないけれど、よかったら話を聞かせて？ もしかしたら、柊の役に立てるかもしれないし」
「姫……」
千尋は柊にすんなり手を預け、生真面目に言った。その切り返しの見事さに軍師は苦笑していた。愛しい姫の眼差しはいつにもましてまっすぐに自分を見つめている。それは心地よく、しかし同時に刃の切っ先を突きつけられているような気分でもあった。「困ったな――」軍師は心を揺らしたが、やはり意は変わらない。己が姫に甘えていることを自覚して、軍師は陽気に答えた。
「まさか。そのような無粋な真似はしませんよ、姫。せっかく我が君が、私におねだりをしてくださったことですのに。――確かこのようなお誘いは、向こうの言葉で『でぇと』と言うのでしょう？」
「でっ、デート！？ ちっ、違うよ！」
姫は素っ頓狂な声をあげて、慌てて軍師の間違いを訂正した。
「おや、違いましたか。てっきり逢い引きのことをそう言うのだとばかり……聞き間違えたかな」
「あ、ええと……そ、それは間違いじゃないけど――。だけどこれはデートじゃなくて、気分転換の散歩でしょう！？」
「散歩ですか？」
柊は動揺する姫の手をぎゅっと握りしめて、可愛らしく尋ね返した。完全に軍師にペースを奪われて、姫がやけっぱちに叫ぶ。
「それに私、別にねだったりなんてしていない！！」
「おやおや、つれない方だ。それでも私は姫のご慈悲を嬉しく思いますよ。さすがは我が主、迷えるしもべにもこまやかなお気遣いくださるのですね。ありがたいことです」
柊が愚痴混じりに返すと、姫は絶句して沈黙が流れた。しばらく我慢比べのような時間が流れたが、やがて居たたまれなくなった姫が、おずおずと譲歩してきた。
「そ、それはもしかしたら、少しは……？ 心の底で、心配にかこつけて、そういう提案をしてしまったのかもしれないけど……」
もしかしたら。少しは。心の底で。言葉の端々から姫の「そんなの認めないっ」という気持ちが伝わってくる。ひどい言われようだ、と軍師はこっそり苦笑いを浮かべた。
「……でもやっぱり、柊もそう思う？ そういうことなのかな？」
「姫は可愛らしい方ですね」
柊は次第に弱気になる千尋の手に口づけて、やや呆れ気味に笑った。
「私には姫がおっしゃる『そういうこと』が、どういったことなのかよくわかりませんが――そのように容易く誘導されては困ってしまうな。張り合いがない」
「……っ。なにそれ、全部わかってるじゃない、ひいらぎっ！」
千尋は柊の手を振りほどいて、その勢いに任せて彼に突進をかました。軍師はそれを余裕たっぷりに受け止めて、「もうやだっ柊はどうしていっつもいじわるなのっ！」などといってじゃれついてくる猫の、その可愛らしさに破顔していた。
「はは、だがまあ、確かにこんな『でぇと』も悪くない。ねぇ、我が君？」
「もう……！ だからデートじゃないって言ってるのに！」
柊の腕にすっかり絡め取られて、千尋は眉をつり上げた。断固として怒っているように見せなければ、柊がめずらしく無邪気に笑う時間があっという間に失われてしまうような気がした。
「ふふ、そうでしたね。では姫、そろそろ散歩へいらっしゃいますか？ おっしゃるとおり夏の庭は花が咲き乱れ、あなたが目に留めてくださるのを、みな待ちわびておりましょうから」
「え――、う、うん」
急に真顔になった軍師に、姫はとまどいながら頷いた。拘束は緩められ、きちんと手袋をはめた手がいつの間にか頬に触れている。見上げると彼はずいぶんと優しげな顔をしていた。もう気分転換は十分かもしれない、と思った姫が口を開きかけたとき、柊のどことなく照れくさそうな声が響いた。
「どうか姫、この私にも甘えてはいただけませんか？ 我が君は、私の心の暗雲をすっかり取り払ってくださった。そのお返しを少しでも、どうか……このしもべに」
「――もしかして、困ったことはなくなったの？」
男の意を察して驚く姫に、彼はにこやかに微笑み返した。
「そうですね。我が君のおかげで、ひとつ案が浮かびました」
「本当に？ それならよかったわ。……だったらもう少し、私につきあってもらってもいい？」
姫は軍師の手を取って、遠慮がちにお願いした。本当はすぐにも仕事に戻りたいかもしれない、という考えが頭をよぎったが、ここは素直に彼の申し出に甘えよう、甘えたいと思ったのだ。
「ええ、もちろん。我が君のお気の済むまで。お散歩でございましたね？」
「その……べつにデートでもいいよ？」
畏まってたずねる男に少女は悪戯っぽく返した。軍師の目が困ったように笑う。
「そう言っていただければありがたいですね。我が君の貴重なお時間を割くのは恐縮ですが、よろしければさきほど思いついた私の考えに、ご意見をいただきたいと思っておりました」
「私に――教えてくれるの？」
姫は瞳を輝かせ、思わず軍師に取り付いた。その嬉しげな顔を確認して、柊はどこか安心したように彼女の髪を撫でた。
「私のご相談などに、我が君がそんなに嬉しそうなお顔をされるとは――思っておりませんでした」
「だって……柊は自分のやっていること、めったに教えてくれないから」
「それは――決して姫を軽んじているわけでは。ただ些末事にわざわざ我が君が自ら御手を煩わせるまでもないと――」
「私に負担をかけないようにしてくれてることはわかってるよ。でも、嬉しいの」
なんとなく目に涙をにじませて、千尋は笑った。
「柊のことだから、心配もしていないけど……でも、ときどきもどかしくなるんだ。もっと私があなたにできることはないのかなって」
「我が君がそれほどまでに私を思っていてくださる。それだけで十分です」
「……本当に？」
心からしおらしい台詞を口にした男に、少女は寂しげに問いかけた。いつの間にか表情が取り繕えなくなっている己に気付いて、軍師はかぶりを振った。
「姫。あまり私を苛めないでください。本当にしかたのない方だ、あなたは」
「えっ、え？ ひ、柊っ、ちょっと待っ――！？」
軍師は眉間にしわを寄せて、片手で姫を子ども抱きにしてしまった。この状態なら少女に顔を見られることはない。心の中で安堵して、男はそのまま執務室をあとにした。外は晴れ渡り、夏の太陽がさんさんと降り注いでいる。さわやかな風が花の香りを運んできた。
「ねえ、柊！ 降ろして！こんなの恥ずかしいよ――！？ 降りる！降りる！！降りる――！！！」
千尋は身体をくの字に曲げ、男の背中をぽかぽかと叩いて抵抗を続けた。当然二人とも花など眺めている余裕はない。
「ああ……いけませんね。そう大声で叫ばれては、すぐにみなが集まってきてしまうでしょう。きっとまた私が悪者です」
早々にデート終了の予感を噛みしめながら、柊は涼しげにうそぶいた。
終