柊の視線は、戦いによって傷つき疲弊した荒魂に優しく語りかける少女へ注がれていた。
「ああ…。神子の力、姫の優しさを感じます…」
呼びかけに応えたものが和魂に姿を変えていく。目に見えぬはずの魂が淡い光を帯び、すぐに大気に溶けて散っていく。神子に対する感謝と憐れみが聞こえない声で辺りに響いた。
「千尋、お疲れさまです。大丈夫ですか？」
神子は人と神の境界を曖昧にする。己が救った魂にたやすく引き込まれそうになる不安定な神子を、こちら側へ繋ぎとめるように、従者が心配そうに声をかけた。
「あ、――う、うん。ごめん、ちょっとぼーっとして……もう大丈夫だよ」
「千尋は大丈夫でも僕は疲れた。今日はもういいだろ、これ以上山道を歩きたくない」
那岐が己の不満を装いながら、仲間に千尋の限界を突きつける。少年の配慮を汲み取って、一行は夕暮れが始まる前に揃って山を下りることにした。
「それにしても、あいつ昔からああなのか？ さっきなんかちょっと目がやばかった気がするんだけど」
「柊ですか？」
誰に尋ねる風でもなく口を開いた那岐に、風早が振り返って首を傾げた。
「柊って悪いひとじゃないけど、ときどき言ってることがよくわからないよね？」
「――ときどきですか。千尋はすごいですね」
可愛らしく首を傾げている姫に、風早が心から感心したように驚いた。
「何を言っているかまったくわからないのもいるし、そこは問題じゃないだろ。べつに無理して理解する必要もないんじゃない？」
「そうか、そうだよね……。遠夜の言っていることも、そういえばよくわからないことが多いし――。もっと豊葦原のこと、勉強しないといけないな」
繋がらない会話に少女の疲労を感じながら、那岐がこっそりため息をついた。
「まったく、千尋はよくそんなに頑張れるな。こんなボランティア、適当に息抜きしないとやっていられないだろ」
「ボランティアって――。そういう那岐は、絶対息抜きしすぎだよ！」
「はは、二人とも元気ですね。間を取って気楽に頑張るというのはどうですか？ 立ち止まってばかりいたら船にたどり着かないけれど、だからといって長い道のりを全力疾走して帰るというわけにもいきませんよね」
千尋が半ば本気で那岐を怒り出しそうな気配を感じて、風早がよくわからない例え話を持ち出してきた。
「あ、そうか。たくさん走ったあとって、不思議とご飯が食べられなくなるんだよね」
「たぶん消化器の働きにまで力が回らなくなるんでしょうね。何事もほどほどがいいと思いますよ。今日の夕食、楽しみですね」
「どうしてそこで夕食の心配につながるんだよ。だいたい誰も間を取ってくれなんて頼んでない」
天然同士の耐えられない会話に那岐はうんざりと突っ込んだが、彼はそれがまったくもって無意味であることを知っていた。
「ぼ……らんて、あ？」
「ああ。向こうの言葉だろ。あいつらたまに使うよなー」
しきりに首を傾げる布都彦に同意をしながら、どうでも良さそうにサザキが言った。
「鬼道使いは良いことをいいますね」
「やる気はないが、姫への気遣いは感じるな」
何やら嬉しげな軍師を横目に、忍人がひとりごとをつぶやいた。少年のひねくれた配慮とそれにまったく気付いていないように見える姫の関係が、将軍には微笑ましく映っていた。
「神子」
軍師は歩を早め、唐突に姫に声をかけた。
「うわ、柊。なに？」
「先ほどのお話ですが、神子は無理に何かを理解される必要はないのです。ただ――感じてください」
歴史の定められたこの世界を理解しても、それを変えることはできない。その必要もない。怪訝に振り返った千尋に、柊は満面の笑みを浮かべていた。いつの間にか周囲の空気が凍り付いている。
「……ええと、うん？」
「千尋、わかってないのに軽々しく返事をするな。――あんたさ、前から思ってたけど、人に何か説明するなら、少しは理解させようとしてみたら？」
「おや？ 理解する必要などないとは君が言い出したことですよ。さあ、我が君。そんなことより今日はあちこちでお力をふるわれて、さぞかしお疲れでしょう。どうぞこの手をお取りください。私が責任を持って船までご案内――」
「え？ え、いいよ手は別に……！？」
那岐に反論しつつ、どさくさ紛れに軍師は姫の手を取って、にこやかに微笑んだ。そのさわやかな笑みがかえって胡散臭い。
「柊殿っ！？ そのような破廉恥な真似はお止めください！ 姫はいまお疲れなのです！」
たたた、と背後から駆け寄る音が響き、布都彦が姫と柊の間に割って入った。千尋にしてみれば生真面目に「破廉恥」を叱る布都彦もなんとなく気恥ずかしい。
「君に言われずともわかっています。ですからこうして姫をお慰めし、そのお心をいくらかでも和らげていただこうと思っておりましたのに。あぁ……もしや我が君もこの私をお疑いですか？」
「え。え？ え？？ あの――」
「おいおい、柊！」
布都彦の後で千尋がまごついていると、風を切る羽音が空に響き、賑やかな声の主が唐突に割り込んできた。サザキは悪戯っぽく軍師を見下ろして、からかうように続けた。
「あんたこそさっき自分で言ったろ？ 理解される必要がないくせに、そうやって姫さんを困らせてやるなよ」
「そうですね。サザキの言うとおり、みんな疲れているのだし、悪ふざけはこのあたりで。さ、千尋――」
風早が柊から千尋の手を引き取って、かなり適当にまとめてしまった。有無を言わせない笑顔がまぶしい。
「もういいのか。ならば行くぞ」
最後尾で周囲の状況をうかがっていた忍人が呆れ声を響かせた。風早と柊が敵の目を欺く術を使っているとはいえ、油断は禁物だ。
「……ん？ ところで、遠夜はどうしたんだ」
再び歩き出した一行に、遠夜の姿が見えないことに気付いたサザキが、ぼんやりと声をあげる。
「おや、そういえば彼――」
「さあな。そのうち戻ってくるだろ」
すまし顔の柊が何事か言い終わらないうちに、那岐が不機嫌に声をかぶせた。心配そうに千尋が考え込んでいる。
「姫、私が探して参りましょうか」
こんな時に率先して名乗りを上げるのが布都彦だ。今にも駆けだして行きそうな彼に忍人が苦々しく声をかけた。
「布都彦。放っておけ」
「葛城将軍。ですがそれでは……！」
「土蜘蛛が道に迷うことはない。姫、先を急ごう」
判断するのは君だが、と言わんばかりの忍人に、「でも、やっぱり心配です」と千尋が口を開くより先に、軍師の得意げな声が響く。
「我が君、ご心配されずとも、遠夜はすぐに戻って参りましょう」
「柊、遠夜がどこへ行ったか聞いているのかい？」
「まさか」
うまい具合に合いの手を入れてきた風早にわざとらしくかぶりを振って、軍師は続けた。
「ですが想像はつきますよ。神子の慈悲にすがろうと、我々の後を追ってきた荒魂がいたことには君も気付いていたでしょう？ 彼はそれを一人で――」
「一人で倒しにいったの！？」
「姫――どうぞお心を安らかに。彼の歌に荒魂を呼び寄せる力があることは、姫もご存じでしょう。おそらく彼はそれを使って、荒魂を我々から引き離しに向かったのでしょうね。言葉はまるで足りませんでしたが、忍人も薄々そのことに気付いていたのでは？」
軍師の問いかけに将軍は沈黙で答えた。そのやり取りに気付いた姫が憤りの声を響かせる。
「そんなの一人で行ったことには変わりないよ。柊も忍人さんも、気付いていたならどうして教えてくれないんですか？」
「たぶんそれは、遠夜ひとりだからできるんですよ、千尋」
姫から責められて、いままさにわざとらしく嘆こうとしている柊を尻目に、風早が優しく切り出した。
「さっき忍人が土蜘蛛は道に迷わないと言ったでしょう？ ――なんとなく、俺は彼が俺たちとは違う道を知っているような気がするんです。誰かが一緒にいるとかえって足手まといになってしまうような険しい道を、遠夜一人なら使うことができるとしたら……戦わずして敵を誘導するのも、そう難しいことじゃない」
「聞いてるだけで面倒くさい。それなら任せておこうかって気にもなりそうだね」
と珍しく那岐が風早をフォローした。
「そもそもオレたちじゃ、姫さんみたいに遠夜が何を言ってるか、はっきりわからないしな――」
「あ、そうか。――ごめん、そうだよね」
サザキのなんのことはない言い訳を聞いて、千尋が申し訳なさそうに俯いた。他人を責める前に、もっと自分が遠夜のことを気にしておくべきだったのに、と。
「わっ、おいおい姫さん！ 別に誰もあんたを責めてるわけじゃない、そんな落ち込むなよ！？」
「どう考えてもあんたのせいだろ。余計なことしか言えないなら黙ってろよ」
那岐が呆れたようにかぶりを振って、大慌てのサザキにずけずけと言った。
「いえ。実際、遠夜のことは誰のせいというわけでもないと思いますよ。強いて言うなら、黙って行ってしまった本人も含めたみんなの責任です。だから千尋も、そんなに気にしないで」
従者が優しく姫の肩をたたく。那岐とサザキの賑やかなやり取りには目もくれず、布都彦が考え込んでいた。
「風早殿、その"違う道"とは、いったいどのようなものなのでしょうか。例えば獣道のように、何か明確な特徴が？」
「うーん……どうと聞かれても、そもそも俺の想像ですからね」
「連中が使う道はある」
申し訳なさそうに照れ笑いを浮かべる風早に、忍人はきっぱりと言うと、物思いに沈むような表情で続けた。
「ただ、俺たち目には、おそらく道無き道にしか映らないだろうがな」
「忍人――」
「ああ。お喜びください、我が君」
何やら深刻な同門はまる無視で、柊がのんきな声を響かせた。すぐに近くで藪が鳴る。布都彦と忍人が即座に反応し、静かに武器を握り直していた。
（……？ …………神子？）
「遠夜！」
大柄な体躯をどこに隠していたのか、藪から顔を出したのは遠夜だった。神子が駆け寄ると、彼はにっこりと笑みを浮かべ、少女の両手に果物を握らせた。
「え、これ……？」
（途中に……たくさんなっていた……）
遠夜の無事を確認し、仲間がほっと胸をなで下ろす。
「お、美味そうだな。姫さん、オレにも一個くれよ。遠夜、みんなにやっていいか？」
サザキが二人に寄っていって、陽気な声を響かせた。千尋に続いて遠夜がこっくりとうなずく。
「そうこなくっちゃな！ ほら布都彦、そっちの分投げてやるから、ちゃんと受け取れよ！」
「は、はい……！ 承知いたしました！」
「サザキ、食べ物を投げるのはよくないですよ」
面白がって布都彦にぽいぽい果物を投げているサザキに、風早がなんとなく子どもを叱るような口調で笑いかけた。
「ていうか、遊ぶなよ――」
「おーい、那岐。お前の分もここにちゃんとあるから心配するな！」
サザキの標的が、突然布都彦から那岐に変わった。
「いらないよ。だいたいここでそんなに食えないだろ。食後のデザートにしたほうがいいんじゃない？ ……て、わっ、ばか！ 勝手に投げるなって！！」
那岐の不機嫌を曲解して、サザキが大盤振る舞いで果物を投げつけてきた。本人はこれで彼の機嫌を取っているつもりらしい。
「……何をやっているんだ」
「はは、サザキが一番無邪気ですね」
「葛城将軍、風早殿、こちらをどうぞ！」
対照的な表情の二人に、布都彦が張り切って果物を配る。
「ありがとう、布都彦。柊はどうだい？」
「柊殿もいかがですか」
「ああ、私は結構です」
布都彦が差し出した果物をにこやかに拒否して、軍師は姫の背中に目を細めた。
「遠夜は、どこに行っていたの？」
（…………澱を……置いてきた……。森へ――……）
「……おり？ オリって――。追ってきた荒魂を、引き離すために行ってくれたのではないの？」
何かに心を痛めている様子の遠夜に、千尋は風早の推測をそのまま疑問にして尋ねた。
（淀みは……消せない…………オレでは、………）
遠夜は静かに頷いたが、千尋の顔はまだ疑問で曇ったままだ。
「荒魂は――遠夜では消せない、ということ？」
千尋の問いに遠夜は己の首にそっと手をやって、困ったようにかぶりを振った。
（……輝きは、戻せない。でも、神子の光は……もっと強い……）
遠夜の微笑みがどこか悲しげに見えて、千尋は彼の言うことがよくわからない歯がゆさに、軽く唇を噛みしめた。
（……神子。闇が追ってくる……戻ろう）
遠夜は夕焼けがはじまった空を見あげ、優しく神子に言った。
「うん、――ありがとう、遠夜」
（……ああ）
「みんなー！ 天鳥船に帰ろう！」
明日またこの山に戻ってくることを心に決めて、千尋は明るく仲間に呼びかけた。
「我が君」
「柊――どうしたの？」
再び歩みを取り戻した姫に、すすすと軍師が近づいてきた。なんとなく警戒心を緩ませず、少女が青年を見つめ返す。当然、牽制の意味も含まれている。
「ふふ、これは――どうやら私は我が君の御不興を買ってしまったようだ。これから少々外させていただきたいと思いまして。ただその前にお許しと、ひとつ確認させていただきたいことがあったものですから」
「外すって、これから？ 一人で？ いったいどこに行く――」
疑問符を重ねるたびに困っていく軍師の表情を見て、姫は考え込むように言葉を失った。聞いても彼は答えないという直観が働いていた。
「姫は聡いお方だ。ただ一つ信じていただけるなら、私は我が君の御為にとだけ。お許しいただけますでしょうか」
「信じるよ。でも……気をつけてね。柊が確認したいことというのは？」
「明日のご予定です」
帰宅は明日の早朝になると思いますので、などと調子よく付け加えながら、軍師は姫の信頼をこっそり噛みしめていた。日中神子と行動を共にするならば、例の山で秘密裏に進めている作戦のために動ける時間は夜しかない。
「予定？」
「ええ、もしや姫は、本日向かったあの山に再びお入りになりたいのでは――と、そのように思ったものですから」
「う、うん……できればそうしたいと思っているけど」
どうしてわかったんだろう。疑問を隠しきれず姫が軍師を見あげると、彼はなんとなく嬉しそうに答えた。
「お優しい姫のことです。本日救いそこねた荒魂に、そのお心を向けていらっしゃるのでしょう。……ですが我が君、例え明日同じ山に入っても、あなたがお探しの神魂は見つからないかもしれない。それでも、とおっしゃられますか？」
千尋には柊の意図がよくわかっていなかった。そもそも"自分が救う魂を特定して探し当てる"ということが可能なのか？ というレベルだ。
「もし遠夜が退けた荒魂を探そうと思ったら、見つけだせるの？」
「難しいでしょうね。ですからこうして確認させていただいております。場合によっては忙しくなりそうですから」
無邪気な疑問に軍師は慇懃な笑みで答えた。姫がそれを望むなら叶える。けれどそのためには時間はいくらあっても足りないだろう。もしそうなれば、彼は夜間仕事のついでに、その馬鹿馬鹿しい捜索も付け加えるつもりでいた。
「私は――誰かを無理に見つけだそうとは思っていないよ。明日も同じ山に入るのは、いつもと同じように、救わなければいけない荒魂をひとりでも多く助けるためだから」
「それを聞いて安心しました。――では我が君、私はこれで。明日の朝、可憐な姫と合流できることを楽しみに、仕事に励んで参ります」
姫の反発をひしひしと感じながら、彼女の察しの良さに感謝をしつつ、軍師はにこやかな笑みを崩さずに一礼して見せた。
「待って、柊。これ、持っていって」
彼が手に何も持たないことに気付いた姫が、唐突に彼を呼び止めて言った。半ば強引に持っていた果物を押しつけて、姫は表情を和らげて続けた。
「夜ご飯。船では食べられないでしょう？」
「いえ、姫。私は……」
正直なところ邪魔でしかないので、布都彦の申し出も断ったのだが。と軍師は一瞬空に視線を泳がせたが、しかし次の瞬間には、いつものどこか胡散臭い笑みを浮かべて応えていた。
「そうですね。せっかくの姫のご好意です。ありがたくいただいておきましょう」
「私のじゃなくて、遠夜のだよ。あとでもいいから、ちゃんとお礼を言って。――本当に、気をつけてね」
「ふふ、つれない方だ。――承知しました」
気をつけてね。二度言われたこの言葉が、姫が自分に一番言いたかったことだと、軍師は知っていた。柊は千尋の声を背中に聞きながら、一行から離れた。
終