人は誰も哀れな星。
その名を拾い集めてみても、何の益もないと、星見の一は考える。
月のない夜。神子の寝所を訪れた星見の青年が、夜着を身につけた少女の傍らに跪き、うやうやしげに口を開いた。
「あなたが私をお選びくださる"このとき"を、――待ち望んでおりました」
望みの成就は一族の宿願。星見は愉悦に満ちた笑みを浮かべ、神子の手に唇を寄せた。少女の顔にかすかな困惑が滲む。高揚した声とは裏腹に、彼の瞳は暗い海の色をしている。
「選ぶ？ ……私が？」
少女は青年に手を預けたまま、とまどいを隠さずに尋ね返した。
「そうです、神子。あなたにお選びいただけましたことは、臣下として身に余る光栄。そしてなにものにも代え難い喜びにございます」
青年は淀みなく言って顔を上げると、何事か反論したそうにしている神子の顔を見つめ、更に一方的に続けた。
「私は改めて神子のご厚情に感謝を申し上げ、永劫変わらぬ忠誠を伏してお誓いいたしましょう」
「…ありがとう。私もあなたには感謝しているわ。それと――これからもよろしくお願いね」
神子は青年の髪をそっと撫でて、考え込むように言った。少女の心には『青年を選んだ』という意識はなかったが、それを否定すれば彼を傷つけてしまう漠然とした予感が彼女にはあった。
「もちろんです我が君、すべては御意のままに」
星見の青年は端正な顔を伏せて慎ましやかに言った。その表情の消えた顔を見つめ、神子は言いようのない不安を抱えたまま、その夜を過ごした。
『――ならばあなたが私を選んでくれたの？』
神子が星見に尋ねたかった言の葉は、彼女の淡い恋心とともに永く秘められた。
星は何れも孤独な光。
その距離を思い悩んでみても、何も変わらないと、星見の一は考える。
「柊、何を見ているの？」
「おや、姫」
伝承にない夜。軍師は寝床から夜着一枚で抜け出してきた姫に驚いて、申し訳なさそうに続けた。季節は秋、晴れ渡った空には星が瞬いている。
「あなたを起こすつもりはなかったのだが。お寒くはありませんか？ さあ、どうか私の腕の中でお温まりください」
「ふふ。そんなに寒くはないけど、お願いしようかな。――また星を見ていたの？」
姫は誘われるまま軍師の腕の中へ収まって、どことなくはしゃいだ様子で尋ねた。
「ええ。だがこんな夜更けに、姫にまで無駄な時を使わせるわけにはまいりませんね。すぐに戻りましょう」
「え？ ちょ、ちょっと柊？」
「失礼」
軍師はそう言ってあっと言う間に姫を横抱きにしてしまうと、あっさり星空を背にして歩き出した。その有無を言わせぬ素早さに苦笑しながら、やがて落ち着きを取り戻した姫が悪戯っぽく言った。
「ねえ。私は、星を眺めるのが無駄だとは思わないよ？」
「ふふ、姫の言の葉は私の耳に心地よく響くが、少なくともあなたの休息を妨げる価値はないでしょうね」
星が語るのは星が持つ記憶、星が知りうる過去と未来だけ。ゆえにこの時空において星の声は、未踏の道を行く主の力にはならない。男の声が沈んでいることに気付いて、姫が身をよじって抗議しようとした。
「価値がないだなんて、そんなこと」
「姫、どうか」
軍師は咎めるように姫を制して、そのまま面倒くさそうに彼女の唇を唇で塞いでしまった。突然の口づけに狼狽えた少女が不自由な体勢で抵抗を試みる間に、軍師は姫を寝所へ運び終えていた。
「私、考え事の邪魔をしてしまった？」
寝床に戻された姫はいじけたようすで毛布をかぶって、傍らの軍師にちらちらと視線をよこした。彼女の乱れた髪をなでつけるように整えてやりながら、軍師が苦笑をもらす。
「我が君――いいえ、違いますよ。その逆です。姫はあそこで無駄に時を費やしていた私を、わざわざ迎えに来てくださいました。お信じいただけないかもしれないが――感謝しています」
「信じているよ」
暗がりに虚しく響くだろう言葉を、けれど姫は確固とした思いで紡いだ。髪に触れてくるものの寝床の中までは入ってこようとしない男の様子から、今夜の逢瀬の終わりを感じ取って、少女はもどかしそうに彼の手を取って尋ねた。
「柊が星を眺めるのが無駄だと言うのは、もしかして、星の声が聞こえなくなってしまったから？」
「そうですね……どうでしょうか」
実際には少し違っていたのだが、柊は否定も肯定もしなかった。
「柊にもわからないの？」
「無駄は事実です。しかし私はそう知っていながら、ふと気付けば夜空を見あげている。おかしな話ですね」
「そんなにおかしいかな」
意外そうな姫の頬を撫て、軍師は自嘲の笑みを浮かべて黙り込んだ。彼を励ますかのような、姫の親身の声が響いた。
「だって心は理屈では止められないものよ。人が何かを大切に思う気持ちは――」
「ふふ、お優しい姫のご期待に添えぬのは心苦しいが、私が星を眺めるのは、おそらく単なる習慣でしょう。あちらの世界では『三つ子の魂百まで』と言うそうですが、それと同じことです。――さぁ、姫。どうかそろそろお休みください。あなたにこれ以上無理を強いては、私は誰かさんから寝所への出入り禁止を言い渡されてしまいそうですから」
おどけた調子で軍師は言うと、まだ起きていたそうな少女を強引に寝かしつけた。
「ねえ、柊？」
「お話は、また明日にでもうかがいますよ」
天蓋から垂れた薄布を整えながら、軍師はやんわりとした口調で姫を拒絶した。
「私の話はいいの、柊の話を聞きたいよ。私は――」
わざとらしくつれない態度をしてみせる軍師に、姫はぐずぐずと食い下がって続けた。
「ほ、本当はまだ、柊と一緒にいたい。ただ、一緒にいたかっただけなのだけど……。約束してくれたら、ちゃんともう眠るから」
「おやおや、困った方だ」
「だめかな？」
毛布から半分顔を出して、姫はしょんぼりと呟いた。
「そんな顔のあなたをおいて、部屋を出ていく私に見えますか？ 私と姫を隔てるさだめはもうどこにもない。……本当は、私も離れがたく思っておりました。今更こんなことを申し上げても、今度こそ姫は私をお信じくださらないかと思いますが」
「――信じるよ」
もったいぶった柊の物言いに吹き出して、姫は偉そうにそう言って見せた。
「ありがたき幸せ。では、姫が寝付かれるまで添い寝をしてさしあげましょう」
「本当？」
嬉しげな姫の声にほっとしながら、軍師は薄布をくぐって寝床に転がり込んだ。すかさず毛布を分けてきた姫の好意に甘えて中に入ると、身体が触れ合って、少女のくすぐったそうな声が響いた。
「ふふ、暖かいね。柊も今夜はここで眠ってしまったらいいわ」
「ええ、そうですね。さあ、姫。今度こそもうお休みくださいますね？」
頬を撫でてくる男の手を気持ちよさそうに受け入れながら、姫はなんとなく心配そうに尋ね返した
「あ……でももしかして、『約束』はなし？」
「御意のままに。姫が欲張りなのはよく存じておりますから」
「――もう。でも、ありがとう」
姫は目尻を下げてにっこり微笑むと、そのまま名残惜しそうに瞼を閉じた。
「我が君、良い夢を」
「うん、おやすみなさい。……あのね、」
明日はきっと柊の話を聞かせて。睡魔に負けて姫が続けられなかった言葉を、軍師はなんとなく聞いた気がした。
すっかり寝息を立てている少女の傍らで、青年はその思いを溢れさせるように呟いた。
「我が君。あなたが私をお選びくださる"このとき"を、――私は待ち望んでおりました」
星見は静かに瞳を閉じた。脳裏に焼き付いた天球の星屑ひとつひとつの声が、彼に『誰よりも』と言わせることを躊躇わせた。
光はいつも希望の導（しるべ）。
その手を繋ぎとめて、ただ側に在りたいと、星見の一は願った。
たぶん、このとき誰よりも強く。
終