早朝、男が目覚めると、姫が寝床から消えていた。
どちらかといえば彼の眠りは浅く、一方彼女のほうが寝坊助気味だったこともあり、このようなことは共に眠るようになって初めてだった。彼はまだ布団が完全に冷えていないことを確認すると、寝起きの鈍い頭で、広い室内を見回した。気配はない。外はまだ薄暗く、小鳥が騒がしく鳴いている。
「――我が君？」
返事もない。
柊は起き出して、昨夜脱ぎっぱなしで長椅子にかけた衣服を急いで身につけた。いまや姫の部屋着となった異国風の上着と、夜着が隣に脱ぎ捨てられているのを見て、彼は急に不安に駆られた。こんな時間から女王装束でいるはずもない。いったい姫はいまどのような格好でいらっしゃることか、いや、そもそもどちらに行かれたのだろうかと。
「あ、起きたのね。柊、おはよう！」
背中に声が響いた。振り返ると姫がベランダの手すりの向こうから、全開の笑顔を向けていた。彼女は青い金魚のようなワンピースをひらひらさせ、窓の外の大きな木の枝に、その幹に寄りそうようにして立っている。
「我が君！？ 木の上で、何をなさっておいでですか」
「あ、あんまり見ないで」
短いスカートが風をはらんでまくれ上がる。それを手で押さえ、姫の身体が不安定に揺れた。柊はかぶりを振って、慌てて外へかけだした。
「あまり私を心配させないでください。寿命がいくらあっても足りません」
「ええと……ごめんなさい。鳥が賑やかに鳴いているものだから。もしかしたら雛が巣から落ちたのかもしれないと思って」
千尋は悪びれず言った。
「なるほど。それで果敢にも手すりからその木に飛び移られた、というわけですね？ 本当に姫は勇気がおありだ。感心いたします」
「そ、そんなにバカにしたように言わなくても良いでしょう！？」
風にもてあそばれる髪をわずらわしそうに耳にかけ、姫はふくれっ面を作った。
「ところで我が君。巣から落ちた哀れな雛を救うことはできたのですか？」
「え、ええと――それは」
姫は恥ずかしそうに口ごもった。
「巣から落ちた雛はいなかったわ。……というか、この木に鳥の巣はなかったの。私の勘違いだったみたい」
裸足の姫は、まだ今朝は一度も外へ降りていない様子だった。もし雛が巣から落ちたとすれば、まずは地面に降りて探すべきではないかと男は考えたが、それと同時に、この慌て者の姫のどこか間の抜けた考えに、彼は頬を緩ませていた。
「ふふ。もしや姫は夢でもご覧になりましたか？」
「――そうなのかな？」
可愛らしく首を傾げる千尋に、柊は手すりの切れ目から両腕を伸ばして言った。
「さあ、我が君。ならば難しい顔をなされるのはそこまでにして、どうぞ私の腕の中へお戻りを。その格好では、朝の空気はお身体に障りましょう」
「い、いいわ！ 一人でそちらに戻れる」
恥ずかしそうに頬を染めて姫は言った。
「寂しいですね……。そんなに私を頼りにするのはお嫌ですか」
「そ、そんなんじゃないよ！ ――。でも、じゃあ、お願いね？」
姫は苦笑して、しかしあっさり意見を翻した。軽く反動をつけて、何の躊躇もなく、木から柊の腕に飛び込む。少女を受け止めた衝撃を殺しきれず、柊は背中を壁に打ち付けた。
「ご……ごめん、大丈夫？」
申し訳なさそうな声が響いた。
「ええ。姫にお怪我はございませんか？」
柊は安堵のため息をつき、千尋を抱きとめたまま、優しげに尋ねた。
「柊こそ。……だから言ったのに、痛いでしょう？」
「姫が痛い思いをされることに比べたら、どうということもございません」
すました声が響く。
「――ごめんなさい。あなたが庇ってくれたから、怪我はないわ。ありがとう」
姫が気恥ずかしそうに男の顔をのぞきこんで言うと、極上の笑顔が返ってきた。
千尋が長椅子の上着に手を伸ばすと、柊がそれをやんわりと阻んだ。
「おや。冷えておいでですか？ 私がすぐに温めてさしあげましょう」
「……もう、すぐそういうことを言うのだから」
姫が悪戯っぽく笑って続けた。
「でも平気よ。もう今朝は『おはよう』を言ってしまったし」
「――姫と私の密やかな夜の時間は終わった。そのようにおっしゃられては、従うほかありませんね。まったく、つれない方だ」
いちいち勿体ぶった言い方に、千尋は思わず声を出して笑った。上着をきちんと身につけてから、しおらしく主の言葉を待っている男に、姫は誘いをかけた。
「巣から落ちた雛がいなくてよかったけれど、それにしても今朝はなぜこんなに鳥が鳴いているのかしら。せっかく早起きしたのだし、ちょっと外に出て様子を見てこない？」
「御意――」
男は恭しく一礼し、姫の手を取った。その手が冷え切っている。柊は一瞬ためらったあと、千尋を抱き寄せた。不意をつかれた少女が咎めるように言う。
「もう。柊？」
「そういえば……。そろそろ庭の無花果が熟れはじめる季節でございましたね。朝から騒がしいのは、きっとそのせいでございましょう。鳥たちがよき餌に歓喜し、仲間を呼び寄せるありふれた景色を眺めに、姫みずから足を運ばれますか？」
「ねえ。それは本当にいま思いついたの？」
男の長々とした台詞から意図を感じ取って、姫は面白くなさそうに彼の胸に頭をもたげた。柊は嬉しそうに笑って、恭しく口を開いた。
「畏れながら、もうひとつ思い出したことがございます。そういえば、私は我が君に、まだ朝のご挨拶をお返ししておりませんでしたね」
「そうだった？」
姫は小さくため息をついた。まだ鳥は外で楽しげに鳴いているけれど、外へ出たい気分は、男の望みどおり、もうすっかり削がれてしまっていた。暖かい手が、甘えるように頬に触れてくる。千尋はすっかり身体を預けて、誘うように尋ねた。
「おはよう、柊。よかったら、もうすこしの間、こうして温めていてくれる？」
「御心のままに」
柊は千尋の指先に柔らかく口づけを落とし、美しく微笑んだ。
「我が主のお許しが出ましたので。おはようございます、我が君」
「……ございます？」
姫が拗ねた声を響かせる。
「ご不満ですか？ ――おはよう、千尋」
「……う、うん。おはよう、柊」
照れる千尋に柊は低く笑って、彼女を抱きしめる腕にそっと力をこめた。
終