「やれやれ。まったく困った方だ」
月が細い夜。柊はほとんど暗闇のなか、海岸へ続く道の片隅で二名分の背中を見送り、あきれ顔でひとりごちた。
神子の清浄な気を嗅ぎつけて、すぐにも獣たちが殺到するだろう。その守り手を狗那の少年ひとりに任せるのは、どうにも頼りない。さて、どうするか――。そこまで思案して、柊はひとつの影がこちらへ近づいてくることに気付いた。手近な藪に身を潜め、様子をうかがう。
（あれは、忍人――？）
双剣を腰に下げた青年が、駆け足で通り過ぎていった。その彼を頼みにし後へ続こうと、小さな闇が抜け目なく集まりはじめている。柊は不快な笑みを浮かべ、しかしそれには気取られぬように、武器を握りしめた。
影が次第に形を為していくさまを、柊は密かに見守った。中途半端なところで下手に手出しをしては、再びこの闇夜にまぎれて逃げられかねない。影はじきに三匹の山犬の形になり、その彼らが瞳を怪しく光らせ、遠吠えを響かせた瞬間、青年は藪から飛び出した。
一番大きな山犬の腹へ蹴りを浴びせた。それが宙を舞う間に、背後から飛びかかってきた二匹目に、右手の峨嵋刺を突き立てる。彼らの運動性能は人間を遙かに凌ぐ。視認している暇はない、気配を頼りに勘まかせだ。だが確かな手応えと共に、二匹目が断末魔の叫びを響かせた。
（残るは……）
柊は三匹目の姿をとうに見失っていた。刺すような殺気を感じつつ、周囲の様子に気を張り巡らせる。大きな気の塊を頭上にとらえた。確かに上空には、巨木が通りに枝を張り出していたが――樹上に？……犬が？
はじめに蹴り飛ばした一匹目が、ようやく立ち上がって低いうなり声を上げている。柊は意味深に口の端を上げ、機会をうかがった。樹上の殺気が突然膨れあがり、襲ってくるのとほぼ同時に、前後から山犬が地面を蹴る音が響いた。
柊は長身をかがめ、前方から飛びかかってきた山犬の攻撃をかいくぐると、せわしなく振り返った。そこには樹上の主が地面へ舞い降りて、二匹を待ちかまえていた。
（……お前がいると、神子が苦しむ。だから――）
少年がまるで何かを断罪するように、鎌を振り下ろした。周囲の大気が切り裂かれ、その衝撃で山犬たちは、叫び声をあげる間もなく闇にかき消えた。あとには淡い燐光が盛大に舞って、闇夜に少年の無表情が露わになった。
（淀みは、消えた……）
遠夜はぼんやりと空へ視線をさまよわせ、聞こえない声でつぶやいた。
「ああ。君でしたか、遠夜。――……っ」
「助かりました」と言いかけた柊が、失った右目を押さえ、苦しげなうめき声をもらしていた。大鎌の刃が燐光と共振するように、悲しげに鳴りつづけている。遠夜の不思議そうな視線を感じて、柊は古傷の痛みに耐えながら、皮肉に笑って見せた。
（……そうか。おまえも――）
遠夜はまるで何かを確かめるように喉に触れ、瞳を揺らした。己の業と柊のそれが同種のものであることを、少年は本能的に察していた。遠夜が鎌を無へ帰すと、辺りはすぐにもとの闇夜に戻った。
「おや。もうお帰りですか？」
（――ああ）
少年が立ち去る気配を察して、柊が口を開くと、遠夜は振り返って頷いた。
（オレは……戻る。闇が森へ……集まる）
この出雲へ来てから、天鳥船は木が生い茂る山中へ停泊している。遠夜は神子がはるか先の海岸で荒魂と遭遇し、閃光と共に戦う気配を感じながら、淡々と言った。
「なるほど。では、私はもう少し、ここで休んで――」
さきほどの遠夜の攻撃でちりぢりになった影が、再び寄り集まろうという意志を見せていた。重い空気が辺りにうごめいている。
「…と、言いたいところでしたが。我が君の帰路は、確保しておかねばなりませんね。――向こうは頼みます」
柊がふてぶてしく笑った。軍師は既に戦闘態勢を整えていた。少年はかすかに微笑んで、もう一度しっかりと頷いた。
衣擦れの音も残さずに、遠夜は消えた。
「この闇夜だ、キリがありませんが。……おそらく、呼び合っているのでしょうね――」
その証しとでも言うように、右目がまだ僅かに疼いている。柊は憂鬱につぶやいて、再び武器を握りしめた。
終