「ひーらぎ！」
軍師の執務室に、ばかに陽気な声が響いた。
「おや、我が君。いかがされましたか」
「ふっふー。いい天気ねっ！」
調子っぱずれのテンションで、姫が入口から顔を出した。真顔で沈黙した軍師に、少女は子犬のように瞳をキラキラさせて、一目散に彼に駆け寄った。
「ねえ、ひーらぎはおしごと？」
頬をバラ色に染めた姫が、竹簡を片手に呆然とする軍師の、その横腹に抱きついた。あたりに酒の甘い匂いが広がる。それで何が起こっているのか一瞬で悟った軍師は、思わず顔をしかめた。
「姫、もしや酒を――。ああ、そういえば今日は、春に仕込んだ酒を蔵出しすると言っていたような……」
「えへへ。蔵の前を通りかかったら、『今年の出来を見てください』って声をかけられちゃった！」
姫はなぜか得意げだ。軍師は幼児化している姫をさりげなく腹から引き剥がしつつ、先ほど妙に外が騒がしかったとき、様子を見に出向かなかったことを後悔した。
「それにしても、だいぶ皆からすすめられたようですね？」
「ねえ、柊も行こうよ？ まだみんな宴会してるよ！」
「なるほど――。つまり姫がつかまったのは、日向の酒蔵ですか」
「きっとぜったい楽しいから！！」
成立していない会話をものともせず、姫は再び軍師に勢いよく抱きついた。柊はにこにこ顔でまとわりついてくる少女の頭をとりあえず撫でてやりながら、さてどうするかと思案した。
中つ国には年齢によって飲酒を制限する法はない。しかし今の姫の様子を見て、いい顔をする者はあまりいないだろう。そして甚だ理不尽な話だが、あの心配性の従者に見つかろうものなら、自分がうだうだ文句をつけられそうな気がする。基本的に下戸の彼は、酒飲みに冷たい。
「ね？ 行こうよ？」
「そうですね。私もそうしたいところなのですが――」
「忙しい？」
足下がおぼつかない姫を適当に誘導し、椅子に座らせることに成功すると、軍師は大げさに懇願した。
「ええ。ですが、せっかくの姫のお誘いです。取り急ぎの仕事を片づけますので、少々お待ちいただけないでしょうか？」
「……いいわ！」
酔っぱらい姫はこの上なく陽気に快諾した。
「ありがたき幸せ」
軍師は恭しく頭を下げると、水差しから水を一杯取って、姫に差し出した。これで多少は酔いも醒めるだろう。まあ潰れて眠ってくれれば一番手間が少なくありがたいのだが。軍師の思惑などまったく知らず、姫は水をごくごく気持ちよく飲み干した。
「ねえ、ねえ。柊は――酔っぱらいは嫌い？」
軍師のあては外れた。酔いつぶれるどころか、むしろ姫は絶好調、ハイテンション継続中だ。
「ふふ――。姫は酔われると口数が多くおなりだ」
「柊はどうなるの？ あ！ わかった、きっと笑い上戸でしょう！ それとも泣き上戸かな……！」
姫はおとなしく椅子に座って待ってなどいてくれなかった。竹簡をとっかえひっかえしながら、急ぎの仕事を片づけるふりの軍師の傍らを、まったく落ち着きなく、騒がしく、楽しげに、ぐるぐると歩き回ってくれている。多少の理性が残っているのか、抱きつき攻撃はなくなったものの、少し目を離すと花瓶が倒れていたり、綺麗に揃った竹簡の山を崩していたりするので、うっかり目が離せない。
「姫はお元気ですね。私はもう少々かかりそうですので、座ってお待ちいただけますか？」
「あ！ 私のことは気にしないで？ でも、あまり遅くなると、宴会が終わってしまうかも――」
いや、それはない。なにせ日向の民の酒宴だ。軍師は暗澹たる気持ちでかぶりを振った。
「柊は酔っぱらいは嫌い？」
同じ話を繰り返すのも、酔っぱらいの特徴だ。
「酔っぱらいはともかく――」
「ともかくは、なし！」
愛想よく流そうとした軍師に、姫が勢いよく突っ込んだ。わずかに充血して赤くなった青い目が、不満そうにこちらを見据えている。ああ、酔っぱらいの自覚はあるのか――。軍師は何かひとつ発見したような気持ちで続けた。
「姫は私の可愛らしい方ですから、好きも嫌いもありませんね。今はおとなしくしていただけると、嬉しいですが」
問題児のあしらいに飽きて、多少面倒も感じながら、軍師は本心から口にした。
「う、うん。わかった」
よっぱらい姫が急にしおらしく頷いて、ぺたりと力なく椅子へ座りこんだ。
「おや、お疲れですか？」
「ううん、――」
近づいてきた軍師を見あげて、満足げに微笑むと、姫はさらに全開の笑顔で続けた。
「ええと。柊のこと、待ってるね」
「はい――」
軍師の心にわずかな罪悪感が浮かんだ。彼は無意識に姫の頬に触れ、優しく撫でてやっていた。罪ほろぼしのつもりか。己の行動の理由に気付いて苦笑したが、酔った姫は目を閉じて、男の手を心地よさそうにしている。ああ、困ったな――。これから己がとるべき行動はわかっているが、なにやら迷いたい気もして、軍師はこっそり苦悶した。
「おとなしくしていたら、好きって――……。柊は、言ってくれる？」
姫は突然きっと瞳を軍師に向けて、拗ねた声を響かせた。軍師は真顔で凝固した。沈黙をノーと取った酔っぱらいが、がっかりと肩を落とす。
「だめなんだ」
「これは――。いったいどうしたものでしょうね？」
軍師は誰にともなく疑問符を飛ばして、心の中で空に向かってお手上げポーズを作った。
「でも、私は好きよ？」
姫はぽつりと言った。
「――はい。私もですよ、我が君？」
「ぶっぶー！ 言い方がてきとうです！ ふふふ！」
軍師の投げやりな言い方にひっかかった姫は、クイズ番組の不正解の真似をして怒って、そして愉快そうに笑ったが、それが柊に通じるはずもない。
沈黙が流れた。姫は椅子に座った足をぶらぶらさせて、つまらなそうにしている。軍師は急ぎの仕事のふりなど忘れて、姫の前になんとなく突っ立っていた。
「……酔いが醒めたら、どうせすっかりお忘れになってしまうくせに」
軍師の低い声に、姫が眠たげに顔を上げた。
「あなたは私のものですよ」
どことなく言いきかせる風に、軍師は姫の髪を掻き上げ、優しくささやいた。姫の返事はなく、代わりにすぐに手に重みを感じた。うつらうつらしはじめた少女を見つめ、青年はやるせなくため息をついた。長椅子に横になるように言うと、姫は素直に声に従った。
「おやすみ、我が君――」
姫の寝顔を独り占めした軍師が、小さくつぶやいた。
終