SS.

俺は道場の前で人を待っていた。

「鍵はかかっていませんよ」
いつのまにか背後に人が立っていた。少年だった。
「あ、うん。……先生に、今日から剣の稽古をつけてやると言われて、待っているところなんだ」
「話は聞いています。風早族のご子息が、入門することになったと」
「風早です。よろしく」
彼の目は明らかに俺を値踏みしていた。
敵意のない印に差し出した手を、彼は無言で見つめた。

「師君が来るのは、いつも昼過ぎです」
「え？」
「それまでは、師範代や兄弟子たちが下の者の面倒をみている。――君ならばきっと、すぐになじめるでしょう」
彼は俺が聞きたいと思っていたことを先回りして答えてしまうと、戸を蹴って開けて見せた。冷淡な声が響いた。

「では、私はこれで。戸を閉めたい時も、同じように蹴ってください」
「え？　君は、ここの――人、じゃないのか？」
疑問が口をついて出てしまった。不気味な落ち着き、察しがよすぎる受け答え、何を考えているかまったくわからない瞳に、俺はひとつの考えを心に浮かべていた。

「あなたと同じです。縁あって、ここで厄介になっています。では、」
「中に入って構わないかな。誰もいないけど」
彼からはどうとでもとれる返答がかえってきた。けれど予感はおそらく正しい。少年の瞳から光が消えている。

「いちいち許可はいりませんよ」
「ごめん。――まだ、ここによく慣れてなくて。よろしく、ええと……」
「私は柊。よろしく、異形のものよ」
柊は傲然と言った。

「よろしく、柊」
差し出した手を、柊は無言で見つめた。

「兄弟子たちはまだ朝食中です。そのうち顔をみせるでしょう」
「うん。どうもありがとう」
正直、困ったなと思っていた。彼の真意が見えないことが不安だった。
「そうだ。ここに工具はあるかな」
「――この戸を修理するつもりですか？」
「開け閉めするたびに蹴られていたんじゃ、可哀相だろう？」
柊が何か可哀相なものを見るような目になった。物にだって心が宿る、などと言えば思い切り小馬鹿にしそうな顔をしていた。
それが彼の挑発だったことは、すこし後になって気がついた。

「たしか奥の武器庫の隅に、埃をかぶっていたと思いますが」
「ありがとう」
柊は表情を真顔に引き戻して言った。俺は武器庫へ走った。
彼の言う通り、工具箱は部屋の隅に転がっていた。

「――あれ？　柊」
戻ってみると、戸口にはまだ彼が立っていた。

「手を貸します」
「あ、ああ。助かるよ。……ありがとう」
なんとなく柊が笑った気がした。
やっぱり人を嫌いになれない。もう一度信じてみよう。幼い姫に出会ったときに浮かんだ暖かい気持ちを、ふと思いだした。

「枠も戸も歪んでいますね」
「うん。さすがに枠は無理だから――、戸のほうを削ってやらないといけないな」
枠から手前の戸を外すと、柊は心得たように受け取って、工具箱の中にあった手箒で、きれいに埃をはらいはじめた。

「言っておきますが、私は修理は不得意です」
「はは、大丈夫。俺はこういうことは得意なんだ。――……たぶん」
二枚目の戸の埃を払いながら、柊は偉そうに言った。俺が枠の歪みに合わせて戸を削る間、彼は終始退屈そうに作業を眺めていた。しかし必要な時には既にそこにいて、その言葉通り手も貸してくれた。
戸はきちんと枠の中に収まって、正しく開閉するようになった。

「――柊。手伝ってくれてありがとう。本当に助かったよ」
心地よい疲れが身体に残っていた。身の内に喜びがあふれている理由を、俺はうまく見つけられずにいた。
差し出した手を、柊はしばらく何か言いたそうに見つめていた。

「礼はいりません。――よろしく、風早」
柊は俺の手を取り、はじめて名を呼ぶと、きれいに口の端を上げて笑った。

終