冬のある朝。岩長姫邸の食堂に、賑やかな少年たちの声が響いていた。
「なあ、柊」
「なんですか？」
どんぶりに飯をこれでもかと盛りつけながら、なんとはなしに羽張彦が続けた。
「おまえ部屋で何か飼ってないか？ 俺は昨夜、犬の子の鳴き声を聞いた気がしたんだが」
「――犬！？」
柊が口を開く前に、羽張彦の隣に座っていた忍人が鋭く反応し、彼を睨みつけた。羽張彦の部屋は柊の部屋の隣にある。さほど広くはなかったが、この邸の門弟たちにはそれぞれ個室が与えられていた。
「犬に限らず、何か飼った覚えはありませんね。狗奴の遠吠えでも聞いたのでは？」
「柊。遠吠えだなんて、狗奴の人が聞いたら怒るよ。でも羽張彦それ本当ですか？ 俺は何も気がつきませんでしたけど」
余計なひとことを付け加えずにはいられない柊に、風早が苦笑しながら突っ込んだ。ちなみに風早の部屋は、羽張彦とは反対側の柊の隣にあった。
「いや、そう言われると自信がなくなるな。すまん。寝ぼけて勘違いしたのかもしれん」
羽張彦はあっさり引き下がって、そのままどんぶり飯をかきこみはじめた。
「……本当だろうな？」
忍人の低い声が響いた。
「おや。ひょっとして忍人、君は犬が怖いのですか？」
「話をそらすのか！？」
すまし顔で食事を続ける柊に、忍人はぴしゃりと箸をおいて食ってかかった。
「だが、たとえ私が部屋で何か飼っていたとしても、君に非難されるいわれはありませんよ？ この邸にはそんな規則はなかったはずです」
「うーん…。確かに先生は、もし俺たちが犬を飼いたいと言ったら、『好きにしな』って言いそうな気がするね」
「いや、さすがに犬は外だろ？ まあ、駄目とはおっしゃらないと思うが、そのかわり責任は全部こっち持ちだな。――ってなんだよ柊、やっぱり部屋に何かいるのか！？」
羽張彦が楽しげに身を乗り出して言った。
「羽張彦。こちらに飯粒を飛ばすのは止めてください。今のは例え話です」
「――そうやって、よってたかって話の腰を折るのはやめてもらえまいか？」
うんざりと忍人が言い捨てた。規則がなければ何をしてもいいのか！？ という類の切り返しが、柊に対してどれほど無力で無駄であるかは、さすがに少年も学習していた。
「ああ、ごめん忍人、別にそんなつもりは――」
「なんだなんだ、やっぱり葛城忍人は犬が怖いのか？」
「違う！」
忍人が苛々と叫んだ。羽張彦はちょっと驚いた顔をして、しかしすぐに笑って明るく続けた。
「ははは。なら男が小さなことでカリカリするな。だいたいここでそんな怖い顔をしていると、飯が親の敵と勘違いされるぞ？」
「――柊の話には、いつも含みがあって油断ならない。もし部屋に犬を連れ込んでいても、勝手に入ってきた、借りてきた、預かっているだけだ、だから飼っていないなどと言って人を煙に巻く。お前はそういうことを平気でする男だ！」
忍人は深い憤りをもって断定すると、そのまま席を立って走り去った。
「驚きました」
どことなく物思いに沈む目で、柊がつぶやいた。
「……なあ風早。どうしてあいつはあんなに怒っているんだ？」
「うーん。やっぱり、犬が苦手なんでしょうか？」
風早と羽張彦が二人で首を傾げていると、優しげな声が響いた。
「犬嫌いではないと思いますよ。彼が近くの村の犬に餌をやっているのを、以前よく見かけましたから」
風早たちの後の席についていた道臣だった。彼はそのときの忍人の楽しそうな様子を微笑ましげに語った。
「――なら癪か……いや、反抗期か？ そういえばそんな時期かもな」
羽張彦がさらに首を傾げた。
「俺は柊が面白がって、彼をからかってばかりいるからだと思いますよ」
どちらにしても「自分のせいではない」と言い切る羽張彦と風早に、道臣は困ったような笑みを浮かべ「さあ――私には」と曖昧に返すほかなかった。
「納得できませんね」
柊が温くなった茶を一口すすって、心外そうに続けた。
「部屋に女を引き込んだというわけでもないのに、あの嫌われようは。潔癖すぎませんか？」
「……柊。そういう先生の顔に泥を塗るような真似は、」
「えっ、ま、まさか――」
風早の真剣な声音に反応して、道臣が思わず音を立てて立ち上がった。
「はは。落ち着け道臣。心配いらないぞ、こいつは口だけだ」
「例え話と言って欲しいですね」
カラカラと笑う羽張彦に、柊が不敵に答えた。
「わかってると思うけど、俺たち以外の人がいるところでは慎んでくださいね。不名誉な噂を立てられたら困ります」
風早がやや強い語調で柊を諫めた。
「君に言われずとも、心得ていますよ」
「うん。実はあまり心配はしていません」
なぜか得々としている柊に、風早は適当に相づちを打った。羽張彦は黙って笑みを浮かべ、二人の話を聞いている。道臣はなんとなく生きた心地がしないまま、彼らを残してそそくさと食堂を出た。
（あの人たちの、何を考えているかわからないところが、すこし苦手だ――）
道臣が腹ごなしに庭をぶらついていると、ふいに激しい気配のようなものを感じた。振り返ると忍人が白い息を吐きながら、邸に向かって疾走していた。少年は道臣が声をかける間もなく、弾丸のような早さで食堂のほうへ消えた。
「柊、貴様――！」
じきに少年の怒鳴り声が響き、いくつか食器が割れた音が続いた。
ああ、また始まったか。道臣は静かにかぶりを振ると、祈るような気持ちで、その場をそっと立ち去った。
終