あなたの口からこぼれ落ちる闇に、私は触れる。
「涙がとまらないの」
寝床の中で声も出さずに少女は泣いていた。たったいま目覚めたふりをする私の視線に気付いて、彼女は申し訳なさそうな、途方に暮れた顔で「おかしいよね」と小さく自嘲した。
「ああ、お可哀相に……怖い夢でもご覧になりましたか？」
幼げに涙を袖で拭って首をふる少女に、私は優しく続けた。
「忘れてお終いなさい。後ろ髪引く記憶に心を残しても――詮無いことです」
私を救うために置き去りにしたもの全てが少女を責め立てている。それは彼女の律儀さと優しさが見せる幻想にすぎないが、その痛みは本物だ。
「どうして……。どうして柊には私の考えていることがわかるの？ 同じ夢を見たから？」
「いいえ神子、残念ながらただの当てずっぽうですよ。さぁ、どうかお顔をあげて、こちらへ」
私は身を起こし、枕に顔を押しつけてくずる姫の頭を撫でて、我が腕の中へ少女を誘った。
「私、もう、神子じゃないもの……！」
神子と呼ばれた意図に気付いたのか、少女は急に顔を上げ、私を睨みつけた。
「ここでどんなに彼らの未来を憂いても、今の私たちに出来ることはなにもない。本当は姫もおわかりでしょう？」
「そんな資格がないってことも、わかっているよ。でも――」
そう言って少女は言葉を詰まらせた。私に泣き顔を見せまいと、胸にしがみついてきた少女が痛ましかった。
「姫。この世界にあなたを咎める者は、おそらく誰もいないでしょう。ですがそのことが、そうやってあなたがご自分をお責めになる理由なら……私は姫をお諫めしなくてはなりませんね？」
「柊――」
「困りました。こんな役目は、とうてい私に向いていると思えないのですが」
それでも少女がひとりで己を責めて泣いているのを放っておけるはずがない。私がおどけてみせると、姫はやがて顔を上げて、再びその瞳から盛大に涙をこぼした。
「お可哀相に」
姫の瞳がこぼす光に、私は触れた。涙を拭うついでにそっと頬に触れると、少女は堰を切ったように吐き出した。
「違う、柊のせいじゃない！ 後悔をしているわけでもないの。それにもしも同じ選択を迫られても、私はきっと同じ行動を取るってわかっている。それでもときどき、どうしようもなく、胸が苦しくなるの」
ごめんなさい、としゃくりあげながら心情を吐露する少女に、私は無力だった。ただ胸を貸し、彼女の長い髪を撫で、背中をさすってやることしかできずにいた。
「夢のようなものと、冷たく思い切ることができない姫の優しさは尊い。しかし同時に恨めしくもありますね……。我が君のお心を占めるものが、すべて私のことであったなら――このように悲しげなお顔をさせずにすんだ。そう思わずにはいられません」
私のわざとらしい恨み言を聞いた姫は、一瞬どこか驚いた顔をして、しかしすぐに泣きはらした顔に淡い笑みを浮かべた。いつもなら「またそういうふざけたことを言って！」と可愛らしく頬を膨らませるところだ。
「――ごめんなさい。こんな風に泣いたりして、私、小さな子どもみたいだね……」
ああ、我が君。私に頭を下げる必要などないのです。あなたが悲しむ姿はできれば見たくはないが、もし泣かれるなら、どうかこの私の胸の中で――。いたらぬしもべではございますが、せめてそう願うことはお許しいただけるでしょうか？
そんな本心がなぜか言葉にならず、私は少女をかき抱いた。華奢な身体が安心したような吐息をもらす。おずおずと背中に回された手の暖かみが、薄衣を通して伝わってきた。
「今になって気付いたの。私たちは前に進むしかない、そう言って柊はいつも私を励ましてくれていたけれど、もしかしてその言の葉で、自分自身を奮い立たせていたんじゃないかって」
物思いに沈んだ声で、少女は唐突に言った。
「私自身を……ですか？」
「もしかしたら柊も、いまの私と同じことを――ううん、あなたは私以上に何度も、後ろ髪を引かれるような辛い気持ちに耐えてきたのではない？」
少女はひどく大人びた顔で私に問いかけた。屑のような可能性をなんの感情もなく塗りつぶしていく「作業」を、我が君はまるで美談のごとくとらえている。実際はそれほどお綺麗なものではなかったと知る私には、その評価が気恥ずかしかった。
「ふふ。さあ――どうだったかな」
「すぐそうやってごまかすのだから」
曖昧に答えをはぐらかした私に少女は優しげな笑みを向け、両手で労るように男の頬に触れた。
「こうしていると、なんだか安心するの。暖かくて、私の大切なものがここにあるんだって……確かめることができるみたいで」
「どうぞご存分にお確かめを。私は我が君の」
「よきように、でしょう？」
千尋は言葉を引き取って悪戯っぽく瞳を輝かせた。私は誘われるまま、少女の唇に口づけを落とした。
「――姫。姫、どうか目を開けてくださいませんか」
長い口づけのあと、すっかり安心しきって身体を預けてくる少女に私は哀願していた。彼女の瞼が重そうに持ち上がる。
「……どうしたの？」
「お休みですか？」
彼女の声が聞きたくて、答えのわかりきったことを尋ねた。機嫌を損ねてしまうかもしれないと思っていたが、もはや当人にはそんな余裕すらないようで、無防備に私の頬をなでてきた。それがとても心地よかった。
「うん……おやすみ、柊」
私の頬に口づけを残して、少女は再び瞳を閉じた。その顔は安らかに落ち着いている。
「お休みなさい。よい夢を――」
愛しい姫の寝息を聞きながら、やがて私も眠りに落ちた。
終