執務の合間に思いがけずに空いた時間を、軍師と姫はともに過ごしていた。
先ほどからずっと少女は男の髪をいじっている。軍師はそれがちょっと退屈になってきていた。
「我が君にお気に召していただけるのは嬉しいのですが」
軍師は膝に乗せた姫にわざとらしくため息をつき、からかうように続けた。
「どうせなら、髪よりももっと我が君のためにお役に立てるところであれば――私も素直に喜べるのですが」
「そんなこと……。私は柊の髪だけではなく、ぜんぶ好きよ？」
姫は輝くばかりの笑顔で言った。それは何の考えもなく、また、言葉を受け取った相手の気持ちに対する配慮もなにもなく発せられた、ほとんど反射といっていい反応だった。
「おや…、姫は私の全てをご存じでしたか」
男はどことなくよそよそしくたずねた。この無邪気な少女にほんのすこし意地悪をしてやりたくなったのだ。
「それは、知らないよ？ でも柊だってそうでしょう？」
「つれない方だ。私はいつでも、我が君のことを知りたいと願っておりますのに」
「それでもきっと、ぜんぶ好きなの」
まったく悪びれず意地の悪いことを言う軍師に、姫はよくわからない自信に満ちて切り返し、尋ねた。
「知らない部分があるのに、それも含めて好きだと思えるって、おかしいのかな？」
「他人から見れば滑稽かもしれませんね。恋は盲目とは、よく言ったものです」
軍師は自嘲気味に口の端を上げて、姫を抱きしめていた。優しく頬を撫でてくる男の手に少女は指をからませて、ねだるように言った。
「私も、柊のことをもっと知りたいよ」
「我が君のお言葉には逆らえませんね」
軍師は姫の指に口づけて、少女を優しく立たせて続けた。
「私はとうの昔にあなたの虜ですから。――参りましょうか」
「え？ 休憩時間、もうおしまい？」
どことなく不満げな声が響く。男が肩をすくめて微笑んだ。
「ええ。我が君のお戯れは、私には少々刺激が強すぎるようです。さすがにこの時間から御髪に指を入れては、姫もお困りでしょう？」
「柊？ それって……」
男の手に手を引かれながら、姫は思案げな表情をうかべたが、しかしすぐに軍師の言わんとすることに気付いて、顔を真っ赤に染め上げた。
「だっ、だから！？ どうして柊はすぐそういうこと言うの！！」
「おや？ おわかりになりませんか？ 仕事など放っておいて、あなたをこのまま寝床へ運んでしまいたいと――」
「だだだめ！この話はもう終わり！ きっと柊は、私のせいだって言うのだから！？」
悪戯っぽく笑う軍師に、姫は握りこぶしを震わせて怒鳴った。
「ふふ、困った方だ。そうやって、あなたがいつも私の心を煽るからでしょうね」
頬を膨らませて怒る姫を見て、軍師はわざとらしくかぶりを振った。
「もういいよ、好きに言って。どうせ私、口では柊に勝てないもの」
「ああ……我が君はやはり私のことを、所詮は口だけの男とお考えなのでしょうか。寂しいことです」
姫は軍師の手を振り払うと、ひとりでさっさと戸口まで歩きだした。軍師はその後ろ姿に目を細めて、恨みがましくつぶやいた。
「そんなことより、もう行くよ。次の仕事まで時間があるなら、ちょっと一緒に見て欲しい書類があるんだ」
あっさり気分を切り替えたらしい姫が、別の仕事を思い出して男を振り返る。思わず軍師は苦笑した。
「やれやれ、ここは『さすがは我が主』と言うべきところなのでしょうか――姫は本当に仕事熱心でいらっしゃいますね？」
「……そんなんじゃないよ。いまのうちにその仕事を終わらせたら、夜は時間が空くかなと思って。柊は、その……今夜は忙しい？」
恥ずかしそうに姫はうつむいて、寄ってきた軍師の袖をなんとなく引いて甘えた。
「あ、でも、別に無理を言うつもりはないの。もし時間があったらで、その――」
「我が君」
軍師は姫に優しげに声をかけ、そのまま少女のまぶたにそっと口づけると、低くささやいた。
「何を置いてもはせ参じますよ。私の願いを汲んでくださった優しい姫に、ぜひともお礼をして差し上げたいと思いますので」
「お礼？ 何かくれるの？」
腹を空かせた子犬のような目で尋ねられて、軍師は思わず肩をすくめた。大きなひとりごとが漏れる。
「やれやれ。まあ、そのように幼げなところも可愛らしくていらっしゃるのだが」
「柊。何か言った？」
「おっと――こちらのことです。そうですね、何かご用意させていただきますよ。我が君に、きっとお気に召していただけそうなものをね？」
おどけた声を響かせて、軍師は姫の手を引きながら、部屋を後にした。
終