中つ国に新たな女王が立つ春のよき日に、軍師は薄暗い森を疾走していた。
彼はぶっそうな連中に追われていた。もっとわかりやすく言えば命を狙われていた。武器を取って彼を追う男たちは多勢で、気配どころか姿を隠そうともしていない。――彼らは中つ国の武官だった。
「40点、といったところでしょうか」
軍師は目くらましの術で身を隠し、武官たちをやり過ごした。ほどなく怒声がして、激しく武器を戦わせる音が響いてきた。
「――20点。目的を同じくする者同士、協力するという知恵もない……か。お粗末すぎて話になりませんね」
軍師は憂鬱につぶやいた。足は自然と黄泉路へ続く洞窟へ向かっていた。目くらましの効力が消えると同時に背中に冷たい殺気が走る。柊は酷薄な笑みを浮かべ、その歩みを止めた。
「狙いは良かったですよ。70点を差し上げましょう」
軍師が振り向くと、布で顔を隠したひとりの男が佇んでいた。手に武器はなく、ひとことも言葉を発していないが、しなやかに鍛えられた身体と全身から発する独特の雰囲気は隠しようがない。相当な手練れだ、まともに戦っては勝ち目は薄い。
そう判断した軍師がじりと一歩後退すると同時に、男が一気に間合いを詰めてきた。右手の隠し武器が僅かに光った。
「……っ」
敵の虎の爪が軍師の頬を削った。幸いにして爪は右手だけだ。軍師は反射的に男の右腕を取っていたが、突進してきた男の勢いに任せて投げ飛ばす案を、直ちに捨てた。瞬発力や反射神経、そもそも総合的な地力が敵の方が上、と組んでみてわかった。勝っているものがあるとしたら判断力――否、勘や運といったものだけだろう。この腕を離せば次の瞬間に己は死ぬ。
男が右腕を引きちぎるように柊を振り払ったその時、軍師の耳に嫌な風切り音が響いた。
「ぐ……はっ……！」
藪から飛んできた無数の矢が、男の背に突き刺さった。柊はとっさに彼を盾にすることで、致命傷を免れていた。暗闇から舌打ちと新たな矢をつがえる気配がする。柊は絶命している男をその場に転がして、弓兵らとは反対の藪へ転がり込んだ。
「撃てっ！！」
だみ声が辺りに響き、すぐに矢の雨が盛大に藪を鳴らした。
「やはり虎の爪には毒……か。70は点が辛すぎたかな」
きき腕に刺さった矢を引き抜きもせず、柊は急激な負荷を感じる心臓を押さえながら、まっすぐに比良坂へ走った。
洞窟の前は不気味なほど静かだった。
とりあえず追っ手は撒いたが、身体はもう限界が近い。肉体的な傷より、走ったことで毒のまわりが早かった。彼の全身は痛みに悲鳴を上げ、心臓は早鐘のように鳴り続けている。
普通の人間なら所構わず転げ回り、既に絶命しているはずの毒だ。だが軍師は苦痛に耐えながら、ここまで辿り着いた。当人に疑問はなかった。伝承の理不尽さを盾に、これまで多くの悪夢を敷いた軍師ならではの思考だ。死に場所はここではない――。星が低くささやいている。
「ここにお出迎えはなし、か。…ふふ、確かにあなたが動くまでもなく軍師は消える。さすがですね」
岩から染み出す水で喉を潤して、軍師はひとりごとのようにつぶやいた。
よろよろと洞窟の中へ消えていく男の姿を、審判の手に放たれた黒い蝶だけが見ていた。
＊＊
――少女は言うだろう。
「私は幸福だよ」と心から、さだめなど己の意志で覆せるのだと信じて疑わぬ目で、ためらいもなく。
だから私は尋ねない。
少女は微笑むだろう。「あなたも幸せになるのよ」と屈託なく、この闇がどこへ繋がっていようと明けぬ夜はないのだと、自信に満ちて。
だから私は目を閉じる。
己が誰かを幸せにするなどという傲慢はなく、誰かが己を幸せにするなどという甘えもなく、それぞれが独立した幸福を持ち寄って互いを縛る、などという砂糖菓子のように甘い夢から――少女は覚めるだろう。
この絶望の世界であなたは、ただあなただけが光なのだと知らぬまま、その瞳に何を映すのか。誰の名を呼ぶのか。私は既に知り、だからこそ恐れた。
私が『あなた』に再びお目にかかる日は二度とない。
けれど軍師の忠誠は龍神の神子の元へ、永遠に巡り続ける。
それが既定伝承。神に仕組まれた人の絆という名の鎖――。
軍師は意識をもうろうとさせながら、ひとり暗い穴の淵に立った。血で汚れた武器を帯で拭う間に、洞窟の入口のほうから爆発音が響く。ようやく追いついた武官たちを巻き添えにして、黄泉へ繋がる道は大岩によって塞がれた。その気配を察した柊は静かに息をついて、闇に舞った。
「さようなら、我が君」
この世界はただ、定められた伝承が紡がれるだけの神の庭。
あなたに何も語らぬ神々を許せず、けれどあの傲慢な者たちを討つ術を持たず、せめて何も知らぬあなたの美しさを守りたいと願う無力なしもべのために、少女は――あの心優しい姫は、きっと声をあげて泣くだろう。
けれど私は――、いや、そんなあなただからこそ、
星は見る
星の道を渡る姫あり
星と姫の道 交われど、その心 寄り添わず
星は夢に消え、煉獄を知らぬ姫の末は知れず
なれど 白き龍の神子が辿る道 常に光
星の詩を紡ぐ完全な機能であるために、人の心を捨てた。
軍師は姫の幸福な未来を思い、口元に淡い笑みを浮かべたまま、まるでぼろ切れのように時空の穴へ落ちていった。
自らを偽りながら生きる虚しさを、何かの証とでも言うように大切に抱えたまま。人知れず、ひっそりと――。
終