SS.

何にもなれなかった想いが束になって、空から落ちていく。
ひとつひとつは屑。消え行くときになってようやく淡い光を帯び、人の目に触れ、不本意な忌み名を得る。

「あ、あれも流れ星かな」
薄絹を幾重にもまとった姫が、夜空を見上げて嬉しげな声をあげた。
「ねえ、柊。いまの見た？」
「残念ながら」
軍師は笑顔を浮かべて姫に答えた。
ですが私にとっては、ありふれた空の星より、我が君のお顔のほうがよほど価値がある。おそらくあなたの関心が、この哀れなしもべに、これっぽっちも向けられていないとしてもね？
と続けようか迷っているうちに、少女のせっかちな声が辺りに響いた。
「もう、柊は。もっと真面目にやって」
姫と軍師は互いの手を取り、寝室を抜け出して、空がよく見渡せる場所に来ていた。
部屋にある高い窓から星が流れたのを見て、もう夜中だというのに軍師を外に誘ったのは姫のほうだ。ほんの数刻前まで賑やかな宴があったことが嘘のように、周囲はひとけもなく静まり返っている。満天の星空すべてを自分たちで独占したような気分になって、姫は「二人で流れ星を数えよう」と、軽い気持ちで提案していた。
「ふふ、すみません。とはいえ、我が君の目に留まるばかりか愛おしげに名を呼ばれ、きっとあの星も喜んでおりましょうね。たとえこの世界のすべてが、彼らを忌み嫌ったとしても──」
「……。嫌ったとしても？」
悪びれない笑みを消して急に真顔になった軍師を見つめ、姫は穏やかに続きを促した。
「おや、勝負はもうお終いになさいますか？」
「勝負はしてないわ、最初から──。でも、まだ止めない」
おどけた調子で答えをはぐらかされて、姫は面白くなさそうに視線を天に戻した。澄み切った冬の空気に、息が白くとけていく。軍師は己の熱を姫に移すように、後ろから彼女を抱きすくめた。
「おや、お身体が冷えていらっしゃるようだ。ぜひとも私に暖めさせていただきたいものですが、お許しいただけますでしょうか」
「う、うん……。ありがとう……」
照れくさそうな姫の頬に優しく触れ、軍師は心からの言の葉を紡いだ。
「最期を見届ける目の中に、あなたがそのようにしていてくださる。彼らにとって、この上ない幸福に違いありません。姫の優しいお気持ちが、なにげないものであればあるほど」
軍師が問いに答えてくれたらしいことに気付いて、姫は彼の胸にすっかり背中を預けたまま、空からまた一つ星が流れていくさまを見送った。
「ねえ、柊」
「はい？　なんでしょうか」
「柊の目は不思議ね」
流れ星は見ていないと言いながら、その心まで覗いてきたように自信たっぷりに語り、親しげに"彼ら"と呼ぶ。そんな軍師に、姫は少しとまどってもいた。大げさな賛美はいつものことだが、軍師の返答には自分に対する皮肉も含まれている気がした。
「不思議ですか？」
「中つ国では、流れ星を不吉なものだと考える人が多いのでしょう？」
「そういえば、我が君がかつてお過ごしになった世界では、願いを叶える力を持つものとして伝わっているのでしたね」
星が空を流れ消えてしまうまでの一瞬の間に、三度願い事を唱えることができれば、その願いは叶う。異世界の他愛ないおまじないを軍師に教えたのも姫だった。
「うん、昔は信じていたよ。テレビなんかで流星群のニュースを見たりすると、その日は絶対に流れ星に願い事をするんだって言って、いつも風早と那岐を巻き込んで甘えてた」
「今は信じていらっしゃらないのですか？」
「いつの間にか、そうではなくなっていた気がする。それがいつなのかは、わからないけど」
ならば何故、こんな寒空にわざわざ寝室を出て、流れる星を数えようなどと言い出したのだろうか。軍師が疑問を口にすることをためらっていると、姫は彼の腕からするりと抜け出して、夜空を仰いだまま二、三歩前に進んでいった。彼女にとって流れ星は、もはや幸運の印ではなかったが、暖かい思い出に繋がる大切なものだ。不吉な禍つ星などとは考えられない。でも柊にとってはどうなのだろう？　よく知っていることがうかがい知れるのに、彼の口ぶりからはまるで熱を感じない。それが千尋には不思議に見えた。
姫は振り返って、暗闇にそっと控えている恋人を見つめた。彼はちょっと困ったように笑って、軽く両手を広げて見せた。
「我が君、こちらへ」
「う、うん。わかった」
姫は優しげな声に引かれ、再び軍師の腕の中に舞い戻った。赤らんだ頬を胸に寄せて甘えてくる少女を撫でてやりながら、軍師は内心ほっとしていた。
「走り星などいつの日でもご覧になれましょう。今日は朝からお忙しくされて、さぞかしお疲れなのではございませんか？　そろそろ寝室に──」
「もう少しだけ」
姫は軍師にしがみつくようにして、休息を促そうとする彼の言葉を止めた。
「もう夜も遅いもの、寝室に戻ったら、柊は自分の部屋に帰ってしまうでしょう？」
「それは──」
軍師は言いかけて、はたと思い至った。
「もしや姫はそれで星を数えようなどと……」
「誕生日の宴を柊があんなに喜んでくれると思っていなかったから、私すごく嬉しくて……。今日がずっと、楽しい時間が少しでも長く続けばいいのにと思って」
姫の声がだんだん小さくなって、最後に申し訳なさそうに「わがまま言って、ごめんなさい」と続いた。
「困った方だ。私を引き止めるおつもりなら、邸の中でそうおっしゃっていただければ、あなたをこんな寒空で凍えさせることもなかったでしょうに」
「柊……」
「あなたの望みは、いつも私の願いです。これ以上、姫のお身体が冷えてしまわないように、参りましょうか」
「うん。ごめんね、ありがとう」
気を取り直した姫が、軍師の手を取って照れくさそうに微笑んだ。その笑顔を満足げに眺めて、軍師は姫と並んで寝室への道を歩き始めた。

「あ、あのね、柊」
「はい？　なんでしょうか」
「部屋に戻ったら、私、すぐに火鉢を支度するから。私につきあったせいで、柊も冷えてしまったでしょう？」
「おや、火鉢ですか」
心なしか残念そうな軍師の声が響いた。不思議そうに見上げてくる姫に、彼は悪戯っぽくこう続けた。
「私はてっきり寝床にお誘いいただけるとばかり思っておりましたのに。残念です」
「え？」
「この哀れなしもべのために、今からでもお考え直しいただけると嬉しいのだが」
軽い調子でからかわれて、姫がたまらず大声をあげた。
「もう、柊は！　ふざけないで！」
「ふふ、すみません」
まったく反省していない軍師が、繋いだ手を離されまいとするかのように握りなおすと、姫は少しためらった後、そっと握り返した。


姫と軍師は寝室に戻り、天蓋のついた広い寝床で身を寄せ合った。
「ねえ、柊」
結い上げた姫の髪を優しく解きながら、軍師は少女に穏やかな視線を返した。
「あのね、宴の時にも言ったけれど──。お誕生日、おめでとう」
正確にはもう日付はまたいでしまっていたが、姫は笑顔で何度目かの祝福を口にした。軍師はすっかりほどけた少女の髪を一房指に絡ませて、愛おしそうに口付けた。
「残念ながら私には、今日という日を我が君の下に留めておける力はありません。ですが明日の朝は、誰よりも早くあなたのお側に控え、お守りさせていただくこと、お許しください」
「……ずっと一緒にいてくれる？」
甘えた様子で身体を預けてきた姫を抱きしめて、軍師は幸福を噛みしめるように呟いた。
「もちろんです。それこそが、私の願いなのですから」
「うん……。私、柊が好き。大好き」
軍師が姫の唇を貪る合間に、少女は彼への愛しい想いを何度も伝えながら、その白い手で彼の髪を撫でた。

愛になれなかった願いが束となって、大地に溶けていく。
ひとつひとつが星。淡い光は人の夢。
たとえ人の目から消えても、その心には残るものがあることを、少女が男に気付かせた。
この日、星がひとつ幸福を知った。

終