橿原宮の隅っこに軍師の執務室はあった。
晩秋は花に乏しく、生け垣に使われている山茶花の赤だけが、枯れた庭に彩りを添えていた。
「我が君、ようこそいらっしゃいました。このようなところまでご足労いただき恐悦です」
柊は訪ねてきた千尋を出迎えて、大げさに続けた。衣を重ねた中つ国の装束に身を包んで、姫は寒さに頬を赤く染めている。
「さあ我が君、どうぞ私の腕の中へ。今日は一段と冷えますから、凍えていらっしゃるのではありませんか？」
「う、うん。ありがとう、でも大丈夫だよ。お邪魔します――」
千尋は供の釆女が一旦帰って行くのを確認すると、暖かい部屋に足を踏み入れた。竹簡がそこかしこに山積みされている。すぐに深々と頭を垂れる人の姿が目に入った。
「あっ、ごめんなさい。先客があったとは思わなくて」
「ああ、姫。彼女は客でなく、道臣の使いです」
「道臣さんの？」
姫の日常の世話を焼く女官や釆女たちはともかく、宮で武官として働く女性はめずらしい。驚く千尋に、柊はすまし顔で続けた。
「まだ見習いだそうですよ。だが、ちょうどいま帰すところでしたので、お気になさらず」
「柊殿！？ 私は――」
女が顔を上げ、不満げに口を開いた。
「道臣には私から説明します。心配せずとも、咎められることはありませんよ」
「ですが……」
「姫を差し置いて、まだ何か話したいことがあるのですか？」
食い下がる女の言葉を、柊は冷たく封じた。
「いえ、そこまで言われては……承知いたしました。どうぞご無礼をお許しください、姫。御前を失礼いたします」
「え、ええ」
女はすっきりとした顔を向け、姫に一礼して立ち去った。
「めずらしいね。女の人が道臣さんの下についているのもそうだけど――」
軍師の執務室に、見知らぬ人が訪れているのもめずらしい。好奇心で目を輝かせる少女に椅子を勧めながら、柊が苦笑気味に口を開いた。
「身分や性別に関わらず、能力のある者は取り立てていくつもりだ、とそんなことを言っていました。思ったよりも彼の考えは姫に近いかもしれませんね。もっとも姫の場合、能力よりも誠実さや熱心であるかを重視なさいますが」
「ねえ、柊。本当はまだ、用事が残っていたのではないの？」
申し訳なさそうな千尋の声が響いた。
「姫はお優しいですね。だが、お気遣いは無用ですよ」
柊は少女の気を取りなすように、にっこりと微笑んだ。
ほぼ週に一度の決まった時間に、千尋は柊の執務室を訪れていた。まだ王族としての務めに不慣れな姫が、軍師に仕事に関する相談事を持ちかけ、彼の知恵を拝借するためだ。
「それはそうと、姫はいかがされましたか？ いつもの時間には、まだ少々早いようですが」
「あ、うん。ごめんなさい、急いでお願いしたいことがあったものだから……いま大丈夫？」
「お願いごとですか。てっきり我が君が、「一刻も早く私に会いたい」と願われたためだろうと、心を躍らせておりましたのに。残念です」
姫のしおらしい声に、軍師がからかい半分に答えた。
「もう！ 柊、そうやって、ふざけないで！」
「ふふ、すみません」
柊は一枚の竹簡を机に広げ、どことなく楽しげに続けた。
「姫の御命令が、こちらであればよろしいのですが。明日行われる会議の議題に応える案を、竹簡にしたためてあります」
「え！？ これ――、頼んでもいなかったのに、どうしてもう出来ているの！？」
千尋はぽかんと口をあけて柊を見つめた。「どうやら正解のようですね」と軍師が得意げに微笑み返した。
「一緒に案を考えて欲しいと、お願いしなければならないことを、ずっと忘れてしまっていたの。今からやるのでは間に合わないかも。でもなんとか間に合わせないとと思って、それで今朝はできるだけ急いでここに来たのだけど……」
「無理もありません。このところ姫は、大変忙しくお過ごしでしたから。――僭越ながら、捨て案としてもう一枚、竹簡をご用意してあります。すぐにお持ちしますので、まずはそちらから先にお目通しを」
「う、うん――」
恭しく頭を垂れて席を外した軍師に、姫はなんとなく礼を言いそびれた。柊は寝台代わりに使っている長椅子のまわりで、散乱した竹簡をしばらくとっかえひっかえしていたが、じきにテーブルへ戻ってきた。
「お待たせいたしました。こちらが捨て案です」
「どうもありがとう、柊。もう案を作ってくれていたなんて思わなかった。おかげで本当に助かったよ！」
千尋は立ち上がって、心から嬉しそうに礼を述べた。
「礼には及びませんよ。私は姫の軍師なのですから――。それよりも、さあ、我が君。どうぞこの時間中に、内容をご確認ください。――この部屋はお寒くはございませんか？」
「大丈夫、寒くはないよ。ありがとう、すぐに確かめさせてもらうね」
肩に薄布を掛けてもらいながら、姫が明るく瞳を輝かせ、熱心に竹簡に目を走らせた。
千尋が竹簡との格闘を始めてから、小一時間ほどが過ぎていた。
「――では、我が君。他にもうご質問はありませんか？」
「うん。これで明日の会議の準備もばっちりだよ」
「それは良かった」
嬉しそうに笑う千尋に、柊が幸せそうに目を細めた。
「次のご予定まで、ここでお休みください。いま飲み物をお持ちします」
「あ、別にいいよ、柊。私は水で――」
席を立って奥に引っ込もうとする柊に、千尋が腰を浮かせて声をかけた。いつもはテーブルの上にある水差しが見つからない。あたりを見回すと、それは戸口の飾り棚の上にあった。
「あれ？ お花が飾ってあるなんて、なんだかめずらしいね？」
水差しには、白い花が一輪つっこまれていた。柊は茶瓶から器に湯を注ぎながら、声だけ返してきた。
「先ほどの者が持ってきたのです。家の前に咲いたのでお裾分け、だそうですよ。私は頼んだ覚えはないのですが――『この部屋には花瓶も無いのですか』と呆れていました」
「なるほど、それで水差しなんだ。これ、山茶花だよね？ 真っ白くて綺麗……」
柊の声には明らかに迷惑そうな響きが混じっていた。そういえば、あの女の人が道臣さんから言いつかったという用事って、なんだったのかな？ 千尋が八重咲きの山茶花を見つめ、ぼんやりとそんなことを考えていると、柊が盆に湯飲みを乗せて戻ってきた。
「我が君、火傷にご注意ください」
「ありがとう。――ねえ、聞いてもいい？ あの人は何の用事で来ていたの？」
柊が運んできた甘い葛湯をひとすすりして、千尋は尋ねた。
「掃除です」
「掃除って……。ここの？」
千尋は竹簡が散乱する室内をぐるりと見回して、考え込むようにもう一度尋ねた。
「ええ。道臣が先日、資料を求めてこの部屋を訪ねて来たのですが」
姫の質問に、柊は気むずかしげに答えてから、わざとらしく切々と続けた。
「その彼が、私には身の回りの世話をする者がいないことを気の毒がって、余計な気をきかせたのです。姫をお通しする部屋がこの有様では、さぞやお困りでしょうと。善意の塊とは、まったくやっかいで対処に困るものですね」
「あはは。それは……道臣さんらしい気の使い方だね。そうか。それであの人が、朝はやくから来てくれたのね」
どことなくほっとした様子で、姫が頷いた。
「ご明察です。ですが姫が早めに来てくださって、本当に助かりました」
柊が胸に手をあてて、ばかに大げさな調子で言ってみせるので、千尋は思わず声をあげて笑ってしまった。
姫と軍師はしばらく他愛ない雑談や、今後の予定の摺り合わせなどをして、のんびりと時を過ごした。
「じゃあ、柊。ちょっと早いけど、私はそろそろ失礼するね。――会議用の竹簡、本当にありがとう」
千尋はそう言って立ち上がると、てきぱきと帰り支度をはじめた。彼女が外で着る防寒具は、迎えの釆女が持参してくることになっている。肩の薄布を外しかけた姫を見て、軍師がやんわりと制した。
「姫。迎えの者は――、来ておりませんね。私がそこまでお送りいたしますので、それはまだお召しになっていてください」
「大丈夫よ？ ここで十分に温まったから、そんなに寒くはないもの。柊だって忙しいのだし、送ってもらわなくても、」
「ああ……寂しいですね。本来ならば、姫はまだこの部屋にご滞在いただいている時間なのです。せめて刻限まで、あなたの愛らしいお顔を見ていたい、そう願う私の気持ちも、もう少しお考えいただけないでしょうか？」
きっぱりと遠慮する千尋に、柊は大げさな哀願で対抗してきた。
「もう。柊はいつもそういうことを言って――」
呆れ声を響かせながらも、千尋の手は優しく柊の頬に触れていた。男が少女にそっと顔を近づけて、嬉しげに目を細めたのにつられて、千尋も微かに頬を緩ませた。
「お許しをいただけますね、我が君」
「……じゃあ、そこまでお願いする。迎えの釆女と会うまで……よろしくね？」
「御意――」
柊は敬意をこめて一礼すると、千尋を守るように先に立った。戸口で所在なく棚に飾られた水差しが目に入って、軍師は思いだしたように続けた。
「姫。よろしければ、あの花をお持ちになりますか？」
「あの山茶花を？」
「先ほどの者の話では、このあたりで白花はめずらしいのだそうです。ここに置いても愛でてやる者はおりませんし、お気に召されたご様子でしたので」
柊が柔らかく微笑んでいた。千尋はちょっと考え込んで、小声で答えた。
「いいわ。私は山茶花は赤いほうが好きだから」
「おや、そうでしたか」
軍師が意外そうに目を見開いた。
「う、うん。どちらかといえば……だけど。宮の生け垣に使われている赤い花も、一重だけど素朴で可愛いと思うの」
柊からじっと見つめられて、千尋はなんとなく慌てた様子で続けた。
「柊は？ 白いほうが好き？」
「私ですか？」
柊は更に意外そうな顔をして、うっすら頬を赤らめる千尋に視線を落とした。思わず苦笑がこぼれる。すぐに姫の不満げな声が響いた。
「……どうしてそこで笑うの？」
「姫は楽しい方ですね。どの花が好きかなど、特に考えたこともありませんでしたので――答えに窮しておりました。参りましょうか」
柊はもっともらしく誤魔化すと、千尋の手を取って、そのまま執務室を後にした。
二人が庭に面した回廊を歩いていると、向こうから釆女が慌てて走ってくるのが見えた。
「残念ですね。もう迎えが来てしまいました」
「来週なんて、忙しくしていればすぐよ。私、またすぐに来るから」
柊のいつもの軽口に、千尋は自分に言いきかせるように答えた。どちらからともなく、つないだ手が離れた。
「姫。どうぞあなたのしもべに、夢に忍んでいくお許しを」
生け垣の山茶花を手折って、軍師が姫の頭にそっと飾りつけて言った。長い金色の髪に赤い花がよく映えていた。
「――うん。その……柊が、忙しくなければだけど。無理はしないで」
照れくさそうに千尋は、「待っているから」と小さな声で付け加えた。
「ありがたき幸せ」
軍師は心から嬉しそうに微笑んで、姫と赤いかんざしを満足げに見つめた。
「よくお似合いだ。だが――どんなに美しい花も、あなたを前にしては霞んでしまいますね」
「……もう。どうして柊はいつもそう大げさなの」
口の上手い恋人に呆れながらも、少女がまんざらでもなさそうに笑った。
「本心ですよ。姫もご存じでしょう？」
軍師が悪戯な笑みを浮かべながら、耳元でそっとささやいた。
「姫！ お迎えが遅くなりまして――まことに申し訳ありません！」
「ううん、こちらこそごめんなさい。話が終わったから、時間よりも早く出てきてしまったの」
息を切らして辿り着いた釆女たちに、姫は申し訳なさそうに謝罪した。肩掛けを軍師に返し、かわりに釆女から上着を受け取って、千尋は明るい声を響かせた。
「じゃあ、行きましょう。柊、今日はどうもありがとう。――またね？」
「ええ、我が君。どうかお気をつけて」
輝くばかりの姫の笑顔に、柊は思わず息を飲んだ。表情を軍師のそれに引き戻し、彼は恭しく頭を下げた。
終