軍師はまっすぐに伸びた長い回廊を歩いていた。
「にゃー」
ふと視線を感じて足を止める。仔猫と目がかちあった。猫は小綺麗な白い毛並みと、何かを訴えかけるような青い瞳をしていた。
「はじめて見る顔ですね」
「にゃ！ にゃにゃ！？」
「とはいえ、これまで猫と知り合いになった覚えもないが」
軍師は記憶を辿るようにして、ぼんやりとつぶやいた。猫はすこし離れたところで彼をみつめ、しきりに「にゃあ」と鳴き続けている。
「君は人の言葉を解しますか？ あいにく私は猫の言葉を知りません」
「にゃ、にゃあ……！」
軍師は白猫の優雅な姿とは裏腹に、その妙に落ち着きのない態度に興味を示した。無造作に歩み寄って距離を詰めても、猫は軍師から逃げなかった。
「腹が減っているのですか？」
「にゃっ！！」
軍師がしゃがみこんで尋ねてきたところに、猫はツメつき肉球パンチをお見舞いした。が、柊は服の上からガリガリされる腕を見て、それが猫なりの親愛？の印なのだろうと解釈した。
「残念だが君と遊んでいる暇もありません。食事が必要なら、私についてきてください」
軍師は白猫が人語を解するという前提で話しかけると、立ち上がって踵を返した。
「にゃあ」
悲しげな声に引き留められている気がして、柊はちらと猫を振り返った。白い猫はその場を微動だにしていない。
「にゃあ……！」
様子をうかがう柊に、仔猫はまっすぐ視線を向けて、声を振り絞って鳴いた。
「これは――困ったな」
苦笑気味につぶやいて、けれど軍師は仔猫をおいて、あっさりその場を立ち去った。
「にゃ、にゃ、にゃー！ にゃあああ！ にゃあ！！」
軍師が消えてからも猫は懸命に鳴き続けた。やがて鳴き声が切々と文句を言うようなものに変わり、それからしばらく経ってやっと仔猫は泣きやんだ。
「川魚は嫌いですか？」
「――にゃ」
十分ほど過ぎて、軍師は一匹のヤマメを手に仔猫のもとへ戻ってきた。
皿の上に乗った魚は新鮮で、ご丁寧に尾頭付きだ。猫の餌にしては上等すぎるものだったが、仔猫は見向きもしなかった。
「それとも、腹が減っていないのか……。そうなると、君が私の言うことを理解している、という仮説が成り立つ可能性が上がりますね？」
「にゃー！？」（だからさっきからそうだと言っているでしょう！？）
憤りのこもった声が響いた。猫のやるせない気持ちをを感じとって、軍師は首を傾げた。透き通った青い瞳が身近な誰かを連想させる。
「ところで君は、先ほどからずいぶん私に執心しているようだ。私が何か君の役に立てますか？」
「にゃあ」
明らかに猫が頷いた。軍師はしばらく考えた素振りを見せて、薄く微笑んだ。
「――しかし仮にそうだとしても、私には君を助ける理由がありませんね。そう思いませんか？」
「にゃ……」
軍師の冷たい声に、仔猫は何事か言いかけて止めた。しょんぼりとうなだれた姿が、まるで気落ちしているように見える。その様子を軍師は興味深く眺めながら、回廊脇に生えている雑草を一本むしり取ってきた。
「こういう趣向はどうでしょう」
「にゃ？」
「一度は試してみたいと常々思っていたのだが、機会がなかったものですから」
軍師はにこやかな笑みを浮かべ、まだ青い猫じゃらしを仔猫の前にふよふよと揺らした。猫はふいと横を向いて、けれどその目は頼りなげに揺れる物体に、既に釘付けになっている。軍師は仔猫の視線を十分に引きつけてから、猫じゃらしを素早く地面へ移動させた。
「にゃっ！！」
「おっと」
仔猫が飛びつく寸前、軍師はひょいと猫じゃらしを逃す。猫じゃらしはまるで子犬の尻尾のように生き生きと仔猫の気を引いた。
「にゃあっ！」
「ふふ。惜しいですね」
「にゃにゃ……！」
何故か不満げな仔猫に再び猫じゃらしをちらつかせて、軍師は上機嫌で微笑んだ。それが更に癪に障ったか、はたまた畜生の悲しい本能か、仔猫は完全にムキになって獲物を追い回す。しかし彼女はしばらくの間、柊の勿体ぶった動きにことごとく翻弄され続けた。
「さて。名残惜しいが、そろそろ時間ですね」
さんざん仔猫で遊んだ軍師が、心から満足げにつぶやいた。
遊びをあっさりお終いにした彼は、猫じゃらしを遠くへ投げ捨てた。恨めしそうな目がをじっと見つめていることに気付いた。
「――おいで」
柊は機嫌良く、優しげな声を響かせた。
「にゃ？」
「ええ、君です。部屋に戻ったら、まずは腹ごしらえするといい。干物を焼いて――ああ、そうか。食べやすいように、小さくむしってさしあげますよ？」
「にゃー！」
軍師が差し出した手に、仔猫は必殺猫パンチをお見舞いした。軍師はふわふわの毛が生えた手を受け止めて、仔猫がびっくりして手を引っ込める間もなく、ふわりとその身体を抱き上げた。頼りなげだが、暖かい。柊がそんな感想を浮かべていると、猫らしからぬ絶叫があたりに響き渡った。
「にゃ！にゃにゃ！！ にゃああ……！？」
「あまり騒がないでもらえますか。願いを叶えていただいたお礼をするだけです。――どうぞご安心を」
軍師は暴れる仔猫の頭を撫でてやりながら、もっともらしく言った。
＊＊
「――私、猫だった」
寝床に座り込んだ姫が、ぼんやりと口を開いた。まだ夜明け前なので、部屋の中は薄暗い。姫は憂鬱そうにかぶりを振って、逃げていく記憶を繋ぎとめようとしていた。
私、猫になっちゃった！ どうして！？ どうしよう！？ ――柊！ 柊、私どうしたらいいの！？
猫になった私は、柊の名を何度も呼んだ。一生懸命に助けを求めたりもしたけれど、まるで言葉が通じなかった。それどころか、なんだかひどい目にあった――気もする。
千尋が朧に消えていく記憶をたぐり寄せていると、耳元で現実に引き戻す声が響いた。
「ふふ、姫はまだ寝ぼけておいでですね」
「――。私は必死だったのに！」
こちらに帰ってきた姫は、大変にご立腹だ。軍師はそれには気付かぬ振りをして、向かい合う少女をしっかりと抱きしめた。ふくれっ面の顔を眺め、長い髪を撫でて、そのなめらかな感触を楽しんでいると、姫は拗ねた声を響かせた。
「柊は猫に冷たいのね」
「おや――」
夢の記憶は目覚めた途端に容赦なく欠けていく。それをなんとかつぎはぎして、姫はそのように結論づけた。軍師は主の結論をやや不本意な結果として受け入れて、少女の額へ畏まった調子で口づけた。
「我が君に優しくして差し上げたいと思うあまり、余裕がなくなってしまうのです。どうかお許しいただけないでしょうか？」
「そんな風には、ぜんぜん見えないよ。……いまだって」
余裕たっぷりにしおらしいことを言ってみせる軍師に、姫は呆れ果てて言った。首筋に落ちてくる口づけが何かを誘うようで、妙にくすぐったい。
「もう一度、今度はもっと心地よい夢に遊びに行かれますか？ 起床のお時間には、まだ早いようですが」
「二度寝はしないわ。でも柊は寝てもいいのよ？」
千尋はどことなく意地悪に言いながら、柊の背中に腕をまわして抱きしめた。白い指が男の髪を撫でていく……というには少々乱暴な調子ではあったが、彼はそれがこの上ない幸福であるかのように、嬉しそうに目を細めた。
「……まさか。我が君にお戯れいただけるのでしたら、私はどこへなりと――お供いたします」
軍師は姫の顔をのぞきこみ、その悪戯な笑みを見て取ると、心からの忠誠を言の葉に乗せて静かな微笑みを返した。
終