「私、山に行く」
休日の朝。部屋を訪れた軍師に姫は開口一番に言った。
「御意に。――裏山でよろしいでしょうか」
「う、うん」
軍師は主の安全を考慮して、とりあえず最も手近で己がよく見知った山を勧めた。千尋は柊が即答してきたことに内心驚きながら、気ぜわしそうに続けた。
「もう準備は出来ているの。今から行く」
「おっと、姫。貴重な休日です、気がはやるのはわかりますが、少々お待ちいただけますでしょうか。供の手配をしてまいります」
「供はいらないわ。あなたがいれば――。ええと、柊は今日は時間ある？」
そういえば自分の都合ばかりで、柊の予定は考えていなかった。千尋は頬を赤らめて尋ねた。
「一日拘束ですか？」
「うん。その、無理は言わないけど。……ごめんなさい、勝手に。都合を聞いておけばよかった」
「我が君、どうかその可愛らしいお顔を曇らせないでください。私の予定はどうとでも。――ですが穏やかではありませんね。山へ何のご用がおありか、お聞きしてもよろしいでしょうか」
軍師は柔らかく微笑んで言った。
山に登りたいと聞いたとき、きっと姫は山菜狩りがしたいとでも言い出すのだろうと思っていた。まだやや時期が早いが、橿原宮の裏は一般の立ち入りを制限しているため、基本的に採り放題の山菜天国である。だが、少女の目的は違っているようだ。姫の性格からして二人で山菜狩りとは言うまい。多くの供を連れ、皆で早春の味覚を楽しもう！となりそうなものだ。
「……誰にも内緒よ？」
「はい？」
姫は悪戯っぽく声をひそめて、軍師の耳元で続けた。
「秘湯を探すの」
「――――。秘湯？」
「柊、ちょっと声が大きい！ あのね、この間釆女たちが話しているのを聞いたの。橿原の裏には、あの温泉通の狭井君も足を運ばれたことがない、絶景温泉があるのだって。すごいでしょう？」
千尋は柊の苦笑には気付かず、得意げに語った。
「なるほど。確かに秘密と名の付くものを大々的に探すのは憚られますね」
「ふふ、でしょう？ それにこの間の休みが雨で流れてしまったから、ちょっと宮の外に出かけたい気分なんだ」
姫は出発が待ちきれぬのか、妙に落ち着かない様子だ。柊はすっかり山支度を調えた千尋に手を引かれ、優しげに笑みを返した。
「確かに先日は残念でしたね。我が君は何日も前から桃の宴を楽しみにしておいででしたのに」
「ちょうどその日に朝から大雨だなんて、なんだかついてなかったよね？ でも花はまた来年咲くし、中で食べたお弁当も美味しかったから。――柊。ねえ、今日はついて来てくれる？」
姫は話を本題に戻すと、軍師へ子どものような笑みを向けた。
「御意のままに」
軍師は恭しく胸に手をあてて、深々と頭を垂れた。
＊＊
軍師と姫は橿原宮を出て、裏山を沢づたいに登っていた。姫に秘湯の手がかりはなかったが、「温泉というからには水場近くでしょうね」という軍師の適当なひとことで、彼女はあっさり進路を決定した。
天気は良好。耳には川のせせらぎが聞こえ、新緑の木々が目に眩しく空気は気持ちがいい。姫は自分を先導し、藪を掻き分けて進む柊の後にくっついて森林浴を満喫した。
昼過ぎ。二人はやや大きめの岩が転がる河原に辿り着いた。
「我が君、お疲れではありませんか」
「うん――そうだね」
姫はここまで機会あるごとに川に手を差し入れ、湯が涌いていないかを確認してきたが、未だ秘湯は見つからない。姫の疲労を察した軍師が、持参した包みを解きながら生真面目に言った。
「では、この辺りで昼食にしましょう。握り飯をお持ちしましたので」
「あ、私は部屋にあったお饅頭を持って来たの。柊の分もあるからね？」
姫は川の岸辺に見晴らしの良い場所を確保して、持参した弁当を喜々として広げて言った。柊が風下で枯れ枝を集め、火を起こす準備をしているのを見て、千尋は驚いて声をあげた。
「あっ、柊！ 駄目だよ、たき火は。秘湯探索は『極秘』なんだから」
「なるほど。左様でございましたね」
極秘をやけに強調した千尋に、柊は内心苦笑していた。握り飯は同行が決まってから厨房に行き、急ぎ作らせた携帯食だ。この時点でもやは極秘でもなんでもないのだが、「まあそれも気分の問題か」と思い直して、軍師はにこやかに微笑んだ。
「それにこの山は、本当は立ち入り禁止なのでしょう？ 煙が立ちのぼって人がいることがわかったら……見張りの人が叱られてしまうかも」
「ふふ。やはり姫はお優しい」
軍師は大ぶりの握り飯を姫に手渡して、どこかからかうように笑った。
「――わかってるよ。勝手に山に入っている人の言うことじゃないって言いたいんでしょ？」
「まさか。この山は……いいえ、この豊葦原はあなたのものです。我が君が望まれるなら、何も遠慮をなさる必要はありません」
気持ちよく握り飯を平らげていく姫を見つめ、軍師はそれがさも当然のことのように言った。
「誰のものとか言う問題ではないと思うのだけど。――それはともかく、柊も食べて。一人で食べていてもおいしくない」
「では、お相伴を」
姫は軍師への反論を探したが、すぐにそれを諦めた。握り飯にかじりつく柊を見て、千尋は元気よく2つめに手を伸ばした。
食事を終えた姫と軍師は探索を再開するためにそれぞれ支度を始めていた。
どこからか視線を感じた姫がふと川に視線をやると、上流から何か流れてくる。川の流れはさほど急ではない。千尋は岸辺に寄って、流れてくるものを確認した。それは30センチほどの長さの木の枝で、白い花がたくさんついている。
（手を伸ばせば、うまくキャッチできるかも）
千尋は考えると同時に、岸辺ギリギリにしゃがみこんで手を伸ばしていた。枝が姫の前を通過する瞬間、バランスが崩れた。
「う、わ、わああっ！？」
「我が君、何を――！」
軍師は大慌てで姫の腕を引き戻すと、自分はそのまま勢い余って川へ飛び込んだ。盛大な水しぶきの音が響く。柊は肩まで川につかって浮上すると、真っ先に岸にいる主の無事を確認して、濡れた顔をほっと緩ませた。
「我が君、よかった。ご無事で――」
「ご、ごめんなさい！ いま助けに行くからっ！？」
「姫！？ お止めください！ ここは浅――！」
軍師が制止するも虚しく、姫は夢中で川に飛び込んでいた。
＊＊
「ごめんなさい……」
「我が君は慌て者でいらっしゃいますね。私をお気遣いいただくのは嬉しいが、あまり無茶をなさらないでください」
めったに見られない柊の不機嫌顔に、姫は力なくうなだれて「本当にごめんなさい」と消え入りそうな声でつぶやいた。温泉探しに来ていたことが幸いし、二人は服を着替えた後、たき火で暖を取っていた。例の花の枝は姫の傍らにある。水の中でもがく間に「いつのまにか握っていた」と姫は言った。そのことになんとなく奇妙な因縁を感じながら、柊は千尋を取りなした。
「姫、どうかお許しを。あなたにもしものことがあったらと――つい、口が過ぎました。申し訳ございません」
軍師は穏やかな声を聞いて、千尋は激しく首を振って柊の服の裾を掴んだ。柊は少女の肩を抱いて続けた。
「我が君にお怪我がなくて、本当によかった。このままもう少し身体を温めてから宮へ戻りましょう」
「うん、迷惑をかけてしまってごめんね。結局たき火も焚かなくてはいけなくなってしまったし」
優しい恋人にもう一度謝ってから、姫は不思議そうに続けた。
「ところで柊、この花って……」
「ええ。これは桜ですね」
枝に付いた花は満開で当然濡れて雫を滴らせていたが、花びらが特に散った様子もなく美しいものだった。千尋は枝を日にかざし、「あれ、でも？」などと呟きながら、しきりに首を傾げている。柊は生真面目に続けた。
「橿原宮は先日桃が散り、桜の花はまだつぼみです。山頂の春は麓よりもずっと遅いはずだが、これは妙な話ですね」
「やっぱり変な気がするよね？ でもこの山の上では、もう桜が咲いているんだ。行ってみたら一足早くお花見ができるかも知れない」
「おっしゃる通りですね。――ですが」
姫の声にどことなく嬉しそうな響きを感じて、軍師が困ったように笑った。
「何か気になることでもあるの？」
「はい、姫。この枝をよくご覧いただけますか」
枝はまるで短刀で断ち落としたような綺麗な切り口をしていた。どう考えても自然に――例えば森の小動物が移動の際に折れたものなどとは考えにくい。
「上流に誰か人がいるのかな？」
「さて」
軍師は俯いて言葉を切った。考えにくいことだ。しかし花の枝は明らかに刃物によって、人為的に切り取られている。
「それに、そもそもなぜこのようなことを……」
「切り花の一本を取り落としたとか？」
眉根を寄せて考え込む柊に、千尋が思いつくままに言った。
「もし姫のおっしゃるとおりならば、その者はこの禁忌の山にのんきに庵でも構えて住みついている、ということになりますね？」
「それは有り得ないの？ 入山を制限する前から住んでいた人たちがいたとか、秘密の村があるとか、」
――天狗が住んでいるとか。柊の眉間の皺がどんどん深くなっていくので、千尋はさすがに天狗は止めておいた。
「可能性がないとは言えませんが」
軍師は一瞬「土蜘蛛」の名を思い浮かべ、すぐにそれを消去した。
この山の奥に秘境が存在するらしいという噂は、柊も聞いたことがある。「らしい」というのは、怪しいという話ばかりで、実際に人がそこに辿り着いた記録がまったく残っていないためだ。その話を聞いた柊は、ずいぶん前にこの山を探索してみたが、結局彼もその「秘境」とやらにはたどり着けなかった。
「姫。この山には人が足を踏み入れることができない神域がある、という噂もあるのです」
「はじめて聞いたよ。でも神域って、秘湯のこととは違うんだ？」
「私は土蜘蛛の結界と似たようなものではないかと考えます。残念ながら、辿り着いたわけではないので、推測ですが」
姫はまだ秘湯に心残りがあるようだ。軍師は気まずげに続けた。
「そしてこれも推測ですが、我が君のおっしゃる秘湯もおそらくその中にあるのではないかと」
「――そうなの？ でも、あれ……」
それでは柊は、自分たちがはじめから秘湯を見つけられないことを承知で、ここまでやって来たことになる。無駄嫌いを公言してはばからない彼にしては妙なことだ。姫はますます首を傾げた。
「楽しそうなあなたのお姿を見て、いいそびれました。いや、本当は――せっかく我が君に二人きりでお誘いただけたのに、その機会を失うのが惜しかったのです」
けれどそのせいで、姫をまだ冷たい川へ飛び込ませる事態を招いてしまった。
柊は心から悔いて、最後に「お許しください」と頭を下げた。
「柊――」
千尋はすまなそうにしている柊の顔をのぞき込んで続けた。
「そ、そんな風に謝らないで？ 私も……私だって、秘湯を探すなんて口実みたいなものだったし。宮にいると急な仕事が入ったりするし、里に出ても人の目があるし――だから、山へ来れば大丈夫かなって。その……私もただ、柊と一緒にいたかっただけなんだよ？」
「我が君はお優しいですね」
「だから、違――」
軍師はむきになる姫をそっと抱きよせて、優しく頬に触れながら言った。顔にはどことなく気恥ずかしそうな笑みを浮かべている。柊は千尋を抱きしめながら、哀願するように言った。
「ああ、まだ冷えていらっしゃいますね。どうかもうしばらく、私の腕の中で」
「う、うん。――ありがとう、柊」
素直にすっかり身体を預けてきた千尋に、柊は何度も暖かい口づけを求めた。
＊＊
「きっと悪戯な人なんだよ」
橿原宮への帰り道。岩場を先導して手を差し出す軍師に、姫が何気なく言った。
「悪戯……？」
「私なんとなくだけど――この花は、プレゼントなんじゃないかと思って」
だっておかげで私と柊の気持ちが同じだったと知ることができたのだもの。とはさすがに気恥ずかしくて言えなかったが、姫は桜の花の枝を嬉しげに見つめにっこりと微笑んだ。
「ぷれぜんと、とはどういう意味ですか、我が君」
「あ、ごめん。贈り物という意味だよ」
「贈り物――」
笑顔で説明する姫に、柊はなんとなく面白くなさそうに考え込んだ。
「姫。そのように、たった一枝を大事に持ち帰られずとも、宮の桜もすぐに美しく咲きましょうに」
「え？ ええ。それはそうだけど……？」
ひょっとして、やきもちだろうか。姫は軍師の手を取って大岩から降りると、すまし顔で続けた。
「ねえ、柊。この桜が早く咲いた理由は、やっぱり温泉のおかげなのかな？」
「……さすがは我が君。おそらく地熱によってそこだけ気温が高くなっているのでしょうね。もし姫がまだ温泉をお望みなら、手を尽くして探索をいたしますが」
姫が振ってきた話題に、軍師はやや事務的に言葉を繋いだ。千尋は拗ねているようにも見える柊の腕を取って、優しく尋ねかけた。
「ううん、いいわ。お風呂なら大きいのが宮にあるし――。柊も、帰ったら一緒にはいる？」
「――は」
柊が一瞬ぽかんとしている間に、千尋は彼の頬に口づけた。姫の残したぬくもりに手を触れて、軍師は困ったように微笑んだ。
「我が君、お戯れを」
「ふふ、でもいつか……二人きりで温泉とか、行ってみたいね」
もっと国が落ち着いて、余裕ができたら――。はやくそうなるように、頑張らないといけないな。姫は軍師の顔を見あげて、心の中で決意を新たにしていた。
「ではその時までに、私はとびきりの秘湯をご用意しておきましょう」
「期待してるね」
明るい笑顔を見せた姫に軍師は眩しそうに目を細め、恭しく胸に手をあて頭を垂れた。
終