SS.

愛しい人が口ずさむ途切れ途切れの異国の歌を、軍師はすっかり覚えてしまっていた。
「姫はずいぶんとその歌を、お気に召されているようだ」
軍師は歌が途切れる頃合いを見計らって、寝台に腰かけている姫を横から抱きしめた。部屋には二人きり、男を咎める者はどこにもない。恋人が寄せた頬を受け入れて、少女がなにげなく答える。

「うん？　そうかな」
「ふふ、お気づきではございませんでしたか」
自覚がなかったらしい姫の耳元で、軍師は息っぽい声を響かせた。
「うん、ごめんね。もしかしてずっと気に障っていた？」
「まさか。姫の歌うお声は麗しく――」
歌は言の葉を声に乗せ、歌い手の心を響かせることで発生する振動。その振動は呪（まじな）いと等しく人の心を震わせる。歌詞の意味は理解できないながら、軍師の心にも伝わるものがあった。
「……うるわしく？」
興味津々に姫が軍師に問い返す。彼はその無邪気さに安堵しながら、つぶやくように答えた。
「私は恐れているのかもしれません」
「恐れるって――柊が？　あの、やっぱり私の歌ひどかったかな…」
現代で覚えた音楽を豊葦原で聴く術はない。英語の歌詞も旋律も、こちらで過ごす間にずいぶん記憶が怪しくなっていた。それでも姫は適当に歌詞をつなげたりはしょったりしながら、気分良く歌い続けていたのだが、他人には聞き苦しかったのかもしれない。少女は申し訳なさそうに俯いた。

「ひどいかと聞かれれば、そうかもしれません。その歌を歌われる我が君はひどく憂いたご様子で、いつも遠くを見ていらっしゃいます」
「そ、そうだった？」
だとしたらそれはきっと、記憶を辿るのに夢中になっていたからだよ。そう言いかけて姫は、生真面目に考え込んでいる軍師に気付いた。
「姫は素直で多感なお方、過去を懐かしく思い起こされることもあるでしょう。あちらの世界を恋しく思っておいでですか？」
「戻りたいとは思っていないよ。確かにたまに向こうのことを思い出すことはあるけど」
「そうおっしゃっていただければ助かります」
「――それは柊が私を向こうに戻す術を持たないから？」
助かります。と言いながらうかない顔をしている軍師を見つめて、姫はあけすけに尋ねた。

「その通りです。我が君のご命令とあらば必ず叶えてさしあげましょう――そう申し上げたいところですが。私には正直荷が重いでしょうね」
軍師は姫の耳にかかる髪をかきあげるように撫でて、彼女の涼しげな瞳をじっと見つめて続けた。
「何より……私があなたをどこにも行かせたくないのです。我が君、もしお疲れならどうかこのしもべの腕の中でお休みください」
「そんな悲しそうな顔をしないで。柊の望みは、私の願いでもある。――柊はこの国が、豊葦原が好きなのね？」
「ええ。我が君が私のために、その全てをかけて作りだしてくださった世界ですから」
姫からまっすぐな視線が返ってきて、軍師は感謝を隠さずに頷いた。

「ふふ、理由はそれだけじゃないと思うのだけど……。ねえ、柊」
姫は機嫌良く微笑んで、軍師にほっと肩を預けた。
「お休みになりますか？」
「少し目を閉じるだけ――。しばらくこうしていてもいい？」
「もちろんです」
そんなやりとりの間に、姫の頭はちゃっかり軍師の胸を支えにしている。男は長い腕を伸ばし、その辺から薄布を引っぱり出してくると、肩を抱くようにして少女にかけてやった。
「ありがとう、柊……。私はこちらに帰ってきて、大切なものがたくさんできた。もちろん柊もだよ」
「ええ、我が君――。あなたのしもべとして、これ以上嬉しい言葉はありません」
だがあなたはそれ以上に多くのものを失われた。口に出されることはないが、心に多くの傷を残しておいでなのでしょう。力及ばずお詫びの言葉もございません。軍師は謝罪をあきらめた。口にすれば優しい姫はそれを必死に否定するだろう。彼は沈痛の面もちで、主がいま目を閉じていてくれていることに感謝した。
「みんな大切で、どれも忘れてしまいたくなんかないのに。私、欲張りすぎるのかな――」
姫の消え入りそうなつぶやきに、軍師は答えることができなかった。少女は睡魔に誘われるまま眠りに落ちた。

＊＊
千尋は気付くと橿原の家の前に立っていた。辺りを見回すと、夕方だというのにどこにも人の姿がない。ただ近所の桜が花びらを散らしている。風に乗ってその香りが届いて、「ああ、春なんだ」と少女はぼんやり思った。
「これは高校の制服――。どうして……私、戻ってきてしまったの？」
ブラウスとセーターの感触を確かめて、少女は「いいえ、違う」と騒ぐ心を押さえつけた。意を決して敷地に足を踏み入れ、玄関の扉に手をかける。不思議なことに、鍵はかかっていなかった。
「やっぱり。これはきっと夢なんだ――」
もしこれが現実なら、誰もいない家の鍵が開いているはずがない。あれ？　どうして私は中に誰もいないと知っているんだろう。それも夢だからなのか。考えを巡らせながら中に入ると、やはり風早も那岐もいなかった。
「ねえ、柊」
姫はひとけのない家の中で、唐突に軍師に呼びかけた。これが彼の敷いた夢なら、返事がこちらに届いてもよさそうなものだ。もしかしたらひょっこり顔を出すかもしれない。しかし、しばらく待っても彼の返事はなかった。

自室に入った千尋は狭い部屋の中をひととおり触れて眺め、懐かしさをかみしめた。何もかもが記憶の中の部屋そのままだった。引き出しを開け、一枚の洋楽CDを取りだしてみる。さきほど柊に「我が君お気に入り」と評された曲も中に入っている。千尋はケースからCDを取りだして、ミニコンポにセットしてから、再び天を仰いだ。
「柊。ねえ、聞こえないの？　――これがさっき話していた歌だよ。できれば一緒に聞きたかったのだけど」
やはり柊からの返事はない。千尋はしかたなくひとりで曲を再生し、しばらくの間コンポの前で歌に聞き入った。手持ちぶさたを感じて、なにげなく歌詞カードに手を伸ばす。
「……あれ？」
歌詞カードのページをめくると、中はすべて白紙だった。千尋はしばらく呆然として、やがてやっと納得した。
「そうか――。このCDは綺麗なメロディーが好きでよく聞いていたけど、どんな歌詞が書かれているかなんて、気にしたこともなかった」
少女は一度もこの歌詞カードを開かなかったことを思い出し、胸を締め付けられるような気持ちを覚えた。失った機会は永遠に取り戻せない。そんな事実を眼前に突きつけられた気がして、苦い後悔が広がっていく。

「……っ。どうして――どうして迎えに来てくれないの？　柊、私もう帰りたいよ……！」
少女の苛立たしげな声がしんとした部屋に響いた。千尋はまだ鳴り止まぬコンポをそのままに、橿原の家から飛び出して、道をひた走った。柊と二度出会ったあの路地まで行けば、また会えるかもしれない。確信は無かったが、少女の頭には他に方法が浮かばなかった。

「おや。もうよろしいのですか？」
姫の予想通り、軍師は路地で退屈そうに主の帰りを待っていた。
「柊……！」
のんきに微笑んで見せた男に、少女が突進してしがみつく。背中に手を回して離れようとしない姫を見て、軍師がようやく何かを悟った。
「いかがなさいましたか、姫。きっとご満足いただけると思っておりましたのに、恐ろしい夢でもご覧に？」
「そんなんじゃない。ただ――あの歌は柊と一緒に聞きたかったの」
顔を上げずだだをこねる少女に、男は苦笑して頭を撫でて返した。
「我が君にそこまでお望みいただけるとは。だが、残念です――」
「あの家には結界が張ってあるから？　だから柊は中に入れないの？」
「さすがは我が君。確かにおっしゃるとおり、結界は消えていないのでしょうね。だが例え結界がなかろうと、結果は同じですよ」
矢継ぎ早の質問に肩をすくめ、男がおどけた調子で続けた。本心では目を赤くした姫が痛ましく、彼女に応えられないことが悔しかった。
「他にも理由があるのね。――教えて」
「そのご様子なら姫ももうお気づきでしょう？　私はこれまであの家にただの一度も足を踏み入れたことがない。その"事実"が私の侵入を阻むのです。口惜しいことですが」
「ここはただの夢ではないの？」
事実に基づく範囲でしか存在を許さない「夢」に姫は違和感を覚えた。少女は男から身体を離して、しっかりと己の力で地面を踏みしめている。
「我が君がご覧になっているものは、すべて夢に他なりません」
否定も肯定もせず、軍師は姫の手を取って、愛おしげに口づけた。
「なら――どうして柊の唇が暖かいの？　抱きしめれば感覚があって、息づかいまで感じることができるのに」
「もうこちらでの用事はお済みですか。ならばどうか豊葦原にお戻りください。ご心配されずとも、私はあちらでも、あなたの帰りを今か今かと待ち望んでおりましょうから」
軍師は混乱する姫を軽々と抱きかかえ、有無を言わせぬ調子で言った。同時に少女の視界は暗くなり、じきに二人の姿は霧散して見えなくなった。
「ここはただの夢ですよ。そしてこの私もあなたも、その一部なのです。それでも我が君のお心を慰めることができるなら――……」
姫を想うそんな軍師の願いも、いつしか夢に消えていった。


＊＊
「姫、姫……。そろそろお目覚めくださいませんか、姫」
「んぅ……ひめひめうるさい……」
「よろしいのですか。じき釆女が昼食を運んでくるころだと思うのですが」
軍師は膝枕した姫の頭を撫でてやりながら、悪戯っぽくつぶやいた。姫の寝室兼私室に、軍師が昼間から入り浸っていることが知れれば、当然ひと騒動あるだろう。
「わっ！？　私寝てしまっていた？」
「やれやれ、可愛らしいあなたの寝顔をもうしばらく眺めていたかったのだが」
慌てて身を起こす千尋の身体を支え、柊はつまらなさそうにつぶやいた。
「――す、すぐそういう事を言ってごまかそうとして！　私、見た夢をちゃんと覚えているのだから」
「ふふ、どうやら夢はあまり心地よいものではなかったご様子。お疲れのようでしたので、たまにはゆっくりおくつろぎいただこうと思ったのですが、それが仇となったようですね。お許しいただけますでしょうか？」
「だからそういうことじゃなくて……。なんだか話の途中だった気がするの。柊、まだ何か黙っていることがあるでしょう？」
軍師がしらばっくれている空気を感じ取って、姫は思いきり不信のまなざしを向けた。さきほどの"夢"を柊は共有していないかもしれない、などと少女は夢にも思っていない。

「なるほど。では、姫は私に何をお聞きになりたいのですか」
「え？　そ、それは――」
千尋は柊が質問に答えていないことにむっとして、しかしはたと考え込んだ。私が柊に聞きたいこと？　
「どうかごゆっくりお考えを。寝乱れた髪も儚げでいらっしゃる、私はあなたのお言葉をいつまでもお待ちしましょう」
「な、何言ってるの！？　やっぱりごまかそうとしてるでしょう！」
千尋はうっかり騙されかけた自分にうんざりして、大声を響かせた。相手が何を黙っているか知りたい人間に「何を聞きたいのですか？」とはずいぶんずさんなとぼけ方ね。無性に怒りが涌いたが、こうやって話をはぐらかそうとする柊から核心を追求するのは至難の業だ。それに確かにそろそろ昼食の時間だ。彼が釆女に見つかって、叱られる姿を見るのはしのびなかった。
「――考え事ですか？」
「わかったわ。夢の話はもういい」
関心が自分から外れてつまらなさそうな軍師を冷ややかに眺めて、千尋はつんと答えた。軍師の顔が「おや」と様子をうかがうような色に変わる。姫はそんな男にはまるで気付かないふりをして、乱れた髪をひょいひょいと整えはじめた。
「では、他にないようでしたら、私は失礼いたします」
そんなことを言いながら、軍師は姫の髪に手を伸ばし、彼女の目が届かぬ後ろ髪を優しくなでつけてきた。男の未練を感じ取って、少女はしかたなさそうに彼の目を見つめ返し、ちょっと口をとがらせて見せた。
「もう、そういうやり方では、髪が潰れてしまうでしょう？」
「これは申し訳もございません。冷たくされると私はあなたに触れずにいられなくなる――。お怒りはごもっともでしょうが、お許しいただけないでしょうか」
「しょうがないなあ」
軍師の謝罪には、質問をはぐらかしたことも含まれていると察して、姫は肩をすくめた。少女は男の顔に手を伸ばし、頬にかかる髪の長さを確かめるように下へ触れ、表情を曇らせていた。
「他に何かございますか？」
「――じゃあ、ここは夢ではないと言って。私たちには過去を振り返っている暇なんてないのだと……そう言って欲しいの」
「我が君……」
心細げな姫を抱きすくめて、軍師は続けた。
「そんな必要がありますか？　姫がどちらにおいでになろうとも、いつでも私はその傍らにおりますのに」
「そうなの？」
「つれない方だ。その証拠に――ほら、我が君の頬がこんなに暖かい。夢も現も、人肌の心地よさに変わりがないことを私に教えてくださったのは、他ならぬあなたですのに」
軍師は姫の頬に唇を寄せてささやくように言った。
「う…っ、嘘でしょそれ！」
姫は真っ赤になって軍師に反論した。どう考えても「教えた」のは男のほうだ。
「まさか」
部屋に人の近づく気配を感じて、今度は軍師が肩をすくめてみせた。その様子に姫も時間切れを悟り、二人はなんとなく無表情を取り繕って顔を見合わせた。

『では、これで』
『待って』
胸に手を当てて退出しようとする男に少女は近づいて、その頬に軽く口づけた。不意をつかれた男が一瞬目をしばたたかせる。
『……私も確かめたかったの。柊の頬が暖かいって』
姫のまなざしに軍師はまんざらでもなさそうに微笑み返し、もう戸口まで来ている釆女に勘づかれないように、窓からすばやく部屋を出ていった。

「姫、失礼いたします。お食事をお持ちしました」
「ええ、ありがとう」
姫は窓辺から軍師の背に手を振りながら、釆女に答えていた。

＊＊
その日の午後、軍師の執務室には、途切れ途切れの異国の歌が小さく繰り返し響いていた。その男の声は柔らかく、ほんの少し切なげでもあったけれど、その歌を聴いた者はどこにもいなかった。

終