SS.

月光館学園高等部2年F組　主人公子は、タルタロスで倒れた。
シャドウに弱点を突かれて床に膝をついたところに受けた追撃が致命傷だった。
「あれ……わたし、」
身体が暗闇に沈んでいくような感覚に公子は抗おうとしたが、それは無理なようだった。口を動かすこともままならず、助けを呼ぶこともできない。
「――――」
イゴールの声が聞こえた。それは頭の中に響く、心から残念そうに少女を悼む声だった。公子の脳裏には、ついさきほどベルベットルームでかわした会話が浮かんでいた。

「うわああ…！　これ、可愛いね！」
「おや…？」
これまで見たことのないペルソナを合体で作りだし、ほくほく顔でそれを受け取る公子を見て、イゴールが何かに気付いたような声をあげた。
「イゴールさん、どうしたの？」
「いえいえ、"どう"ということもございません。――ではお客人、お気をつけて」
「う、うん……？　今日はありがとう、また来るよ」
公子が席を立つと、テオドアがいつもの案内人スマイルをたたえて、音もなく見送りに出てきた。
「お客人、少々お疲れですか？」
「えっ？」
少女が主の言いかけたことを気にしているのを察して、テオドアは彼女に尋ねた。
「貴女にとって、塔の探索は未知との遭遇の連続――消耗もさぞかし激しいかとお察しいたします」
「うん。――でも今日はすごく調子がいいし、まだ平気だよ！　あっ、そうだ、テオは大吉のおみくじって見たことある？　放課後神社でおみくじを引いたら、大吉が出て……私初めてだから嬉しくて。大吉って本当にあるんだね！」
テオの気遣いにはまるで気付かず、公子はテンション高く大吉を連呼した。
「大吉のおみくじ――？」
「待って、ポケットにあるから、いま見せてあげる」
言いながら、公子はポケットの中を忙しく物色しはじめた。
「あ、いえ、お客人。それは結構です」
「え？　そうなの？」
「ええ、それは貴女がお持ち下さい。それよりも――くれぐれもお気をつけて」
明らかに残念そうな少女に、テオドアは真顔で言い含めた。
「……ん、わかった。またね、テオ！」
少女は青年の言葉を軽く聞き流し、笑顔で別れた。

公子は別れ際、青年が一瞬だけ見せた悲しげな顔を最後に思い出して、そのまま深く暗い闇に沈んで行った。

＊＊
「――――はっ！？」
公子は目覚めてすぐに辺りを見回した。目の前には金の柱時計が鎮座している。ここはタルタロス内のエントランスだ。
「主人、どうした？」
「い、いえ。なんでもありません」
「そうか。なら良いんだが、無理はするなよ」
美鶴の声になんとなく既視感を感じながら、公子はぼんやりと答えた。
「ん…？　だが、さすがに君も少し疲れが見え始めたんじゃないか？」
「あっ、まだまだ大丈夫ですよ！　今日はすごく調子が良いんです！」
公子は陽気に答え、辺りを見回した。順平はさきほど得たばかりの大剣で熱心に素振りを、ゆかりは階段のすぐ側で弓の手入れをしている。この光景にもなんとなく見覚えがある。
「そうだ……！」
公子ははっと思い立つと、エントランスの片隅にある青い扉に駆けこんだ。

「ようこそ、ベルベットルームへ」
「こ、こんばんは、テオ！」
いつものように出迎えたテオドアの顔を、公子はまじまじと見つめた。
「私の顔に何かついていますか？」
「えっと……ううん」
公子は俯いてぶんぶんと首を振った。理由はわからないが、背中に嫌な汗が流れている。心を研ぎ澄まして、自身のペルソナたちに順に触れていくと――やはり、ない。さっき合体で作りだしたはずの可愛らしいペルソナ、ジャックフロストが。
「――知っていますよ。合体にいらしたのでしょう？」
「え？」
「主も貴女をお待ちです。どうぞ、こちらへ」
「ちょ、ちょっと待って！」
公子は思わずテオドアの腕を掴んでいた。桐条の研究では、ペルソナに目覚めたばかりの頃は記憶の欠落や混乱は別段珍しくないという。しかし今の自分のこの感覚は、それとは違う気がする。
「テオは何か知ってるの？」
どうしてジャックフロストが無くなったのか。それともあれは幻覚？　いや、無くなったのではない、だって――。
「というか、私なんで……生きてるのかな？」
「震えていらっしゃるのですか。よほど恐ろしい想いをなさったのですね――。貴女のお力になれず、私も断腸の思いです」
不安げに瞳を揺らす少女の頬を、テオドアは優しく撫でて言った。
「よく覚えていないの。順平は初めのうちは記憶が混乱してもおかしくないって言っていたけど――でも、確かに私、」
『死んだはずだ』。そう口にすることが恐ろしく、公子は俯いて黙り込んだ。イゴールの寂しげな声を聞きながら、暗い闇の中にたった一人で沈んでいく感覚は、いまも少女の心に刻まれている。もうこれ以上、深く考えたくなかった。公子は己の失敗の記憶を心の奥底へ封じ込めた。
「お客人、そろそろこちらへ」
「ああ、お客人ですかな。ようこそ」
イゴールが公子の姿を認めて声をかけてきた。
「あ、イゴールさん、よろしくお願いします」
椅子を勧められた少女は、懸命に笑顔を作って、部屋の主にいつもの挨拶をした。

合体が始まった。
少女はジャックフロストのレシピを、混濁する記憶から探り当てることを諦めていた。そこから芋蔓式に不快な記憶に辿り着いてしまうことを、無意識の内に恐れたのだ。彼女は適当に合体を終えると、そそくさと席を立った。
「では、お気をつけて」
「ありがとう、イゴールさん。……また来るね」
いつもと態度の変わらないイゴールに、公子はちょこんと頭を下げた。

「お聞きしたいのですが」
別れ際、テオドアは唐突に公子に尋ねた。
「うん…？　何かな」
「『大吉のおみくじ』には、いったいどのような術が施してあるのでしょうか？」
「――術？」
「はい。特に長嶋神社のおみくじには、『気のせい』では片づけられない確かな効果がございます。貴女も決して"単なる紙切れ一枚"と侮ってはいけませんよ？」
「う、うん……そうだね？」
冗談かとも思ったが、青年は大真面目のようだ。おまけに得意げに忠告されて、少女は苦笑した。
「あっ、そうだ。私そういえばそれ持ってるよ。見る？」
公子はポケットの中を探りながら、再び既視感に襲われていた。
「いえ。――やはりそれは、貴女がお持ち下さい」
テオドアが何事か考え込むように言う。
「？　やはりって？」
「そういったものは、やはり自ら引き当てなくては。……いつか、是非とも訪れてみたいものですね。できれば貴女と一緒に――。そのときを楽しみにいたします」
「何のことか全然わからないよ！」
ひとりで勝手にワクワクしているテオドアに、公子は思いっきり突っ込んだ。ツッコミと同時に思わず出てしまったチョップを、青年は軽々と避けて得意げに笑った。
「この部屋の空気は、手刀では切れませんよ。おかしな方だ」
「どっちが！？」
虚しく空を切った右手をポケットに収めて、公子は照れ隠しに叫んだ。身体が軽い。そうだ、今日は放課後に神社へ行って、大吉のおみくじを引いたのだ。手に当たった紙のカサついた感触がそれを思い出させてくれた。
「私の大切なお客人が何かあったら――。くれぐれも、お気をつけて」
「テオ――」
心配そうに顔を覗き込んでくる青年に少女は顔を赤らめて、
「だ、大丈夫。同じ失敗はしないよ、たぶん。……またね！」
元気に扉を開けて出ていった。

「ね、公子。そろそろ行かない？」
気付くとすぐ隣に、弓の調整を終えたゆかりが立っていた。
「あ、そうだね。じゃ、行こっか」
「オッケー。じゃあ私、順平を呼んでくるね。まったくあのバカ、素振りでもう疲れ切ってなきゃいいけど」
ゆかりはやれやれと言って順平を呼びに走った。見ると彼はまだ熱心に素振りを続けている。
「あはは、お願いね！　私は美鶴先輩に声かけとくから」
公子も美鶴のもとへ走り出す、右手に大吉のおみくじを握りしめていることに気付いた。
「あ、やば。くしゃくしゃになっちゃったかな」
走りながら、慌てておみくじを開く。初めて大吉を引き当てた興奮に我を忘れていて、まだ中身は読んでいなかった。
「――ああ、主人か。どうした、探索へ向かうのか？」
「あ、はい！　バックアップお願いできますか」
「任せておけ。こちらの準備は万端だ。……ん、その紙は――なんだ、長嶋神社のおみくじじゃないか」
出撃を控えて引き締まった美鶴の表情が、ふと緩む。
「先輩、ご存じなんですか！？」
「ふふ、そんなに驚くこともないだろう？　私だってたまには神頼みをしたくなることもあるさ」
「そうなんですか？　私もテスト前とか、困ったときの神頼みしまくりなんです！」
「そ、そうか」
公子の食いつきに驚いて、今度は美鶴が目を見開いた。
「それに今日は初めて大吉を引いちゃって、なんだか身体も軽いんです。今ならシャドウなんか、軽く蹴散せそうな気がします！」
公子は妙に張り切って胸元で握りこぶしを作っている。
「なるほど、それは頼もしいな。だが主人、何度も言うようだが、これは遊びじゃないんだ。油断は禁物だぞ。――ああ、岳羽と伊織も準備が整ったようだな」
「おーい！　早いとこ片づけちまおうぜー！」
「ちょっと順平、あんたさっきから落ち着きなさすぎ」
見ると転送装置の前で順平とゆかりが既に待機している。
「あっ、ゴメン。いま行く！！」
「では、これよりバックアップを開始する。みんな十分注意してくれ」
「了解！」
公子は美鶴の言葉に元気良く答えて、仲間の元へ駆けだした。

「伊織、そろそろ疲れているんじゃないか？　岳羽も無理はしないでくれ」
タルタロスで数度の戦闘をこなし、探索を続ける三人に美鶴から通信が入った
「いやいや、会長。俺はまだまだ大丈夫っすよ！」
「私も。大丈夫です！」
順平とゆかりが口を揃えた。公子はなにげなく振り返って彼らの様子を確認する。まだまだ二人は元気なように見えた。
「私もまだ平気です。それに、無理はしませんから」
「――わかった。では、探索を続行してくれ」
美鶴からの通信は切れた。

「ね、聞いて良い？　さっきさ、何話してたの？」
「美鶴先輩と？　おみくじの話だよ」
「え？　おみくじ…？」
神妙な顔をしていたゆかりがふと立ち止まって首をかしげた。
「うん。私がおみくじを持っていたら、そういう話になって。美鶴先輩も、たまに長嶋神社にお参りに行くみたい。ちょっと意外だよね？」
「いやー、でもやっぱ日本人なんだし、年一回ぐらいは行くもんなんじゃねーの？　ほら、初詣とか夏祭りとかさ。つーかあのヒト日本人だよな？」
順平も足を止め、会話に加わってきた。周囲に敵の姿はない。
「まあ、そんな感じかもね。でも私はあの桐条先輩が、あんな小さな神社を参拝してるってことがなんだか不思議かな」
「えー？　でもでも、あそこ小さいけど御利益あるよ！　おかげで今日は帰りに一万円拾っちゃったし」
公子は証拠と言わんばかりにポケットをまさぐって、くしゃくしゃの『大吉のおみくじ』を取りだして見せた。
「へー、すっげー大吉か！　…なーリーダー、その御利益で帰りにラーメン食ってかね？　この際あぶく銭はぱーっとはがくれの大盛り全部乗せに初チャレンジ！とか？　なーなー行こうぜー」
「ん。ラーメンじゃなくて、小豆あらいのジャンボクリームあんみつタイヤキ全種添えなら、挑戦してもいいよ」
順平のリーダー驕って攻撃に、公子は真顔で返した。
「い、いや……それはちょっと勘弁して。つーかさ、そもそも今の時間あの店閉まってんじゃねーの？」
「明日でもいいじゃん。一人じゃ完食無理かもって思ってたけど、みんな一緒なら楽勝だよね！」
「いや無理。みんなでもソレ無理だから！？　つーかゆかりッチも黙ってないで何とか言ってやって――って、あれ？」
順平はたまらずゆかりに助けを求めたが、彼女はくしゃくしゃのおみくじを手に、生真面目な顔で突っ立っている。
「……ゆかりん？　どしたの？」
「あ、ああ、うん……ゴメン。ちょっと中、読んじゃった」
「うん？」
気落ちしていそうにも見える友人に、公子は首をかしげた。
「つってもゆかりッチ、それ大吉だろ？　そんなこの世の終わりみたいな顔して読むようなこと書いてあるのか？」
順平がからかい半分にツッコミを入れる。ゆかりの頬がぱっと赤らむ。
「この世の終わりって…！　べっ、別に私、そんなんじゃ！？」
「――あ、そういえば私まだよく読んでなかったんだ。どんなこと書いてあるの？」
公子は順平とゆかりのやり取りを尻目に、大吉のおみくじを覗き込んだ。中には「願事」「学問」など十数項目に渡ってお告げが書かれていたが、どれも「これが大吉？」と思うような歯切れの悪いものばかりだった。
「……なんだかガッカリだよ。大吉って一番良いクジじゃないの？」
「ま、まあ、大吉っていうのは最良だっていわれてるけど、山に例えると頂上のようなものだから。後は降りるだけっていうか――好調すぎて油断しやすいだけに足下をすくわれないようにって戒める内容が多いのかも。……ってヤダ、そんな本気で落ち込まないでよ？　こんなのたかが占いでしょ！」
内容を読み進める内に、みるみるしょんぼりしていく公子を見かねて、ゆかりが力強くはっぱをかけた。
「まあ確かにそうだよな。にしてもゆかりッチ、妙に詳しくない？　さては実は意外にもこういうの、めちゃめちゃ信じて気にするタイプだったりして？」
「バッ、バカにしないでよね！　私は占いなんか興味ないから。つか関係ないし！？」
「そうやってムキになるとこが妙に怪しいんだよなー」
順平はこれ以上ゆかりをからかい続けることに身の危険を感じたのか、小声でぼそぼそ言いながら天を仰いでいる。
「もう、だいたいこんなトコで立ち止まってる暇なんか無いっつーの！　ね、公子、そろそろ行こう」
「うん、じゃあ階段探して上行こっか」
「りょーかい！　ま、減るもんじゃないし、一応気をつけて行こうぜ！」
大剣をぶんと一振りして、順平が気持ちよい声を響かせた。

公子は最後尾を走りながら、なんとなく考え込んでいた。美鶴の忠告も、ゆかりの心配も、順平の気遣いも、大吉のおみくじの中身に書かれていることと、なんだか似ていると思った。
「でも――もし鳥だったら空も飛べるじゃん。山の頂上からもっと高いところにも行けちゃうよね？」
「はあ？　何それ！？」
夢見がちな友人の台詞に、ゆかりがすかさず突っ込む。
「おいおい、つか俺ら鳥じゃねーし普通にヤバイでしょそれ。だいたいそんなこと出来ちまったら誰も悩まねー」
「あはは、だよね！」
「――。冗談だよね？」
笑って誤魔化す公子に、突然ゆかりが厳しく問いただした。その声色に順平がぎょっとして振り返る。
「なんかヘンなこと考えたり――してないよね？」
「う、うん……」
「ならいいの。私の考えすぎだったらそれで。……な、なんか、ゴメンね」
「う、うん。大丈夫」
困ったように笑うゆかりの気持ちと彼女の意図がなんとなく理解できる気がして、順平は剣を強く握りしめていた。

＊＊
住人だけのベルベットルームは、しんと静まりかえっていた。
「私の大切なお客人に何かあったら――、そう思いました」
テオドアはイゴールの傍らに立ち、テーブルに組まれた彼の手を見つめてポツリと言った。しかし主は青年に何も答えない。テオドアは構わず続けた。
「同じ門をくぐったからといって、必ずしも同じ道を辿るとは限らない。それでも私は、たとえ無限の可能性を少々狭めることになったとしても――」
言い訳の言葉を紡ぎながら、青年は苦しんでいた。さすがに主を前にして、彼女を守りたいという己の願いのために、可能性の広がりを犠牲にしたとは言えなかった。
「主――、私にどんな罰をお与えになりますか？」
テオドアは悲しげな声を響かせた。どうか罰して欲しいという気持ちと、もしかしたら彼女の案内人としての任を解かれるかもしれないという絶望が、青年の心でせめぎ合っている。
「私はずっと……この時を刻まぬ精神と物質の狭間で考え続けているのです。私の役目、私の願い、ここでこうしている私は何者で、その存在が何のために"ある"のかを――」
更に突き詰めて、そもそも"ある"といえるのか、と。
「我が主よ。その問いに、答えは出るのでしょうか」
青年の自問のような問いかけに、やはり主は答えなかった。彼もまたその根元的な疑問の答えを探す、一人の旅人であり求道者だったからだ。

「彼女の"命のこたえ"は、どのようなものになるのでしょうな。果たして"終わり"へ辿り着くことが出来るのか、はたまた道半ばで潰えてしまうのか」
「辿り着きますよ。きっと見せてくれます」
テオドアは即座にイゴールに反論した。そしてすぐにきまりが悪そうにぼそぼそと続けた。
「そ、そうなるようお客人をご案内するのが私の役目です」
「ええ、そうでしたな」
イゴールは満足げに頷いた。さすがのテオドアも、主が自分を罰するつもりがないことに気付いていた。それどころか突き放して、『おまえも考えろ』と諭された気がした。青年は主が自分を対等に扱ってくれたことが、とても嬉しかった。
「……楽しみでございますね」
青年は心から主にそう言うのと同時に、胸の奥が微かに痛むのを感じた。

＊＊
この日、公子はタルタロスの探索を無事に済ませた。
＞絶好調が終わった。