SS.

"ある"はずのない存在――。
　　　――ならば彼女が世界に与えた影響をどう説明するのか？
出口のない闇の中で誰かが見た夢、まぼろし。
　　　――そのまぼろしは、果たして誰の望みだったのか？
そして夢を見た"誰か"は幸福になれたのだろうか。

宇宙は拡大を続け、世界はそのすべてを受け入れる。
テオドアは運命の悲しげな声を聞いた。


「主、私は暇をいただきます」
イゴールが口を挟む暇はなかった。テオドアは彼らが仕える大いなる存在に断りを入れ、ベルベットルームを後にした。
「あら、テオドア。奇遇ね」
扉の外にはマーガレットが腕組みして立っていた。明らかに待ちかまえていたという風情だが、弟はそれを指摘することは諦めた。
「ええ、ごきげんよう姉上」
「ちょうど良いわ。久しぶりに稽古をつけてあげる。来なさい？」
マーガレットは優雅に微笑んで手招きをしてみせると、自分はさっさと先に行ってしまった。この場合弟に拒否権などはない。
「……困りました」
テオドアは憂鬱に俯いてかぶりを振った。姉の意図が何であろうと、彼は己の決心を誰にも譲る気がなかったからだ。

「懐かしいわ。こうしていると昔を思い出すわね」
「――戯れ言を」
時の流れに身を浸すことのないベルベットルームの住人に、今も昔もない。マーガレットとテオドアは、深淵の底で互いに死力を尽くす『稽古』のまっただ中にあった。
「メギドラオン――」
マーガレットの唇が微かに動く。姉は弟に規模無限級の核熱を、間髪入れずに数度浴びせかけた。この先に待つ者のためにできれば力を温存しておきたい弟は、己の気力体力と相談しつつ、最小限の力で姉の攻撃を回避・無効化に徹していく。
「なんて不甲斐ない、まるで勝つ気がないのね」
「ええ――」
姉上とは戦う理由がありません。落胆するマーガレットにテオドアは申し訳なさそうに黙り込んだ。
「ではどうするの？　終わりを待っても無駄よ」
「そうですね」
だが、どうしたらよいのか――。テオドアの表情が不意に曇る。彼の気が逸れたその一瞬をついて、姉があっというまに距離をつめ、弟に痛烈な蹴りを放った。
「くっ……！」
「甘いわ」
テオドアにはまるで戦意がない。マーガレットはとうとう膝をついた弟を冷たく見下ろして、イライラと続けた。
「さあ、どうするの？　このままではどうにもならない。それとも何か手はあるのかしら」
「姉上…」
テオドアは何かに気付いたように目を見開いて、厳しく己を問いただす姉の視線を受け止めた。
「姉上は私の身を案じてくださっているのですね」
「流転が世界の理である限り、どんなことにも"終わり"が訪れる。過酷な運命に寄り添う少女の魂も、いつかは開放されるわ」
「……確かにそうです。そして、永劫と一瞬が等しいこの場所で"その時"の訪れを待つのは、さほど難しいことではない。姉上はそうおっしゃりたいのですね」
テオドアは立ち上がって、マーガレットに微笑んで見せた。
「無駄なことよ」
「姉上。無駄かどうかは、私にはどうでもいいことです。ただ、人ならぬこの身だからこそきっとできることがある。それを試してみたい」
テオドアは静かに己の根元に触れ、力を集めはじめていた。姉を倒すために。これからの旅のため、出来るだけ多く余力を残しておきたいと思っていたが、姉はそれを許してくれないようだ。
「何より、私も約束を守りたいのです。彼女が見せてくれたように。そして――私は務めを果たします。秩序のもと、力を司る者として」
「そう。私は無策で敵に挑まんとする愚弟を、姉として止めなくてはならない。成し遂げたいことがあるのなら、この私を倒してからになさい」
マーガレットはテオドアの周囲に莫大な力の集中を感じ取って、即座に迎撃体勢を整えた。
「無論です」
テオドアは姉の体勢が整う直前、大戦級の核熱を叩きこんだ。

「姉上！　姉上っ！？」
「こんなもの？　……まだまだね」
その言葉とはうらはらに、爆撃の中心地で膝を折り、肩で息をする姉に駆け寄って、弟は申し訳なさにがっくりとうなだれた。
「よかった、ご無事ですね」
「当たり前よ」
マーガレットは気丈に言い放って、弟に続けた。
「――行きなさい」
「え？　……あ、姉上、私を許して下さるのですか？」
「許すも許さないもないわね。それから――行くなら、これを持ってお行きなさい」
ぱっと表情を明るくするテオドアを見て、マーガレットは仕方なさそうに小さな鍵を一つ差し出した。それは何の変哲もない形をした『鈍色の鍵』だった。
「姉上、これは――？」
「餞別よ。何かの役に立つかも知れないわ」
「あ、ありがとうございます」
テオドアは鍵を受け取ってまじまじと眺めた。どう見ても何の力も感じられない、どこにでもあるただの鍵だ。
「しかし、これはどこの鍵ですか？」
「さあ。それは自分で探すことね」
マーガレットは立ち上がって、優しげに目を細めて言った。いつも厳しくも美しい姉の、寂しそうな笑顔に胸が痛んで、テオドアは思わず鍵を握りしめた。
「テオドア」
マーガレットは弟の名を呼んで、『やるからには必ず勝ちなさい』、そんなことをつけ加えようか躊躇って、しかしすぐに思い直した。今さら言わずとも、それはきっと弟の骨身に染みているだろう。伊達に姉弟として永劫を共に過ごしてきたわけではないのだ、と。
「……姉上？」
「行くわ」
マーガレットはテオドアに毅然とした背を向けて立ち去った。これが姉と弟の別れだった。
「姉上、お元気で――」
テオドアはこの時、握りしめる鍵に小さな光が宿り、一瞬淡く輝いたことに気付かぬまま、姉の背中が視界から消えるまでじっと見送っていた。

＊＊
「取り逃しましたわ。私としたことが、申し訳ございません」
ベルベットルームに神妙な顔で謝罪するマーガレットの姿があった。
「この責はいかようにも――」
「初めから止める気はなかったのではありませんかな？」
バカにしおらしいマーガレットを一瞥し、イゴールはどことなく楽しげに尋ねた。
「滅相もございません。すべて私の不徳といたすところです。どうか何卒お許しくださいませ」
慇懃な物言いだったが、マーガレットがテオドアを庇っていることは明らかだった。イゴールは内心苦笑しながら、弟妹思いの姉に話を合わせた。
「だが、その力を極限まで削いで送り出しましたな」
「理に背きし者に、ここで得た力を持ち出すことは許されません」
「なるほど。……それも、罪を重ねさせまいとする親心ですな」
イゴールがにやりと笑った気がした。
「お言葉でございますが、私は姉です」
エリザベスは心のうちを気取られぬよう、努めて心外そうに言った。

「それにしても、人ならぬ身だからこそできることがある――か。まさか二人揃って同じ事を言い出すなんてね」
マーガレットは弟妹たちに代わってイゴールの傍らに立ちながら、彼らの行く末に想いを馳せていた。彼女の大きな独り言を主は黙って聞いていた。
「でもあの子たち、気付いているのかしら――」
当の相手が既に"人ならぬ者"であることを。助けなど欲していないかもしれない、それどころか記憶をすっかり失っているかもしれない。マーガレットは憂鬱な気分でため息をついた。けれどそういった可能性を弟妹たちが想像しないはずがない、そして「それでも」と彼らは考え、旅立っていったのだ。その健気さが姉は愛おしく、しかし同時に不憫だった。
「このままですと、お客人には少々分が悪いかも知れませんな」
「イゴール様――。やはりそのようにお考えでございますか？」
心細げなマーガレットの様子を見かねて、イゴールが雑談に頷いて続けた。
「一対一の関係は、必然的に相手を縛ることで己を縛ることになりますな。だが、そこへ彼らと同等の力を持つ者が加わればどういった関係が成り立つか…。そう考えるのは、ごく自然なことでしょう」
「それぞれの力がうまく拮抗すれば、三つ巴の均衡が得られる――と？」
「あくまで理論上の話ですがな」
イゴールは頷いて、それから何事か考え込むようにして黙り込んだ。
マーガレットはイゴールの考えが自分と同じだったことで、弟妹たちの策ともいえない策、「希望」に確信を深め、困ったような笑みを浮かべていた。世間知らずのあの子たちのことだ、これまで三姉弟でうまくやってきた経験から、という単純な発想だろう。
「……本当に困った子たちね。ああ、こんなことなら、あの子たちももっと鍛えておけばよかったわ」
エリザベスは恨みがましくつぶやいて、可愛い弟妹に余計な苦労を背負い込ませた、ユニバースのペルソナ使いの顔をふと思い浮かべた。

＊＊
その頃、テオドアは長い回廊をひた走っていた。その行き止まりにまっ暗な出口がぽっかり口を開けている。青年は何の迷いもなく身体ごとそれにぶつかって、その身を弾かれた。
「私は恐れているのか…？　いや、そんなはずは」
青年は確信して、己に残る力の残滓をかき集めた。出口の先にあるものに目をこらすと、ぼんやりと人影が映った。
「あれは……まさか」
次第にはっきりしていく影が、よく見知った顔をしていることに驚いて、しかし彼は"彼女"と無言で意志を交わした。この見えない壁を破壊する。
「メギドラオンでございます――」
青年が渾身の力を振り絞って放った術は、向こう側から放たれたものとまったく同じ、そしてまったくの同時だった。その衝撃で出口の闇はすっかり取り払われ、テオドアは風穴の開いた行き止まりから外へ、少女と交わした約束を守るための第一歩を踏み出した。

「彼の意志は、あのような状況下に置かれてもなお、飽くなき拡大を続けています」
ふと気がつくと傍らに姉・エリザベスが突っ立っていた。ひどく損耗していることが見て取れたが、その表情は晴れやかだ。テオドアは自分もそんな顔をしていることに気付いていなかった。
「――彼女は何もかもを受け入れてしまった。そのようにし向けた運命の嘆きさえもですよ」
テオドアは心から気の毒そうに言うと、姉エリザベスと互いに頷き合った。万有流転が世界の理とはいえ、秩序の元で安穏と、いつになるかわからない転機を待ってなどいられない。『あの人に会いたい』。相手は違えど二人の気持ちは同じだった。
「では、姉上」
「テオドア、拾い食いと生水には気をつけなさい」
「姉上こそ、敵の精神攻撃にはくれぐれも」
たとえ目的が同じでも、共に行くことはできない。鏡合わせの姉弟は、まったく緊張感のない別れの言葉を交わし、不安と希望を胸にそれぞれ別々の道を走りだした。

＊＊
大切な人との約束を果たすため、テオドアは走った。
表舞台から忽然と姿を消した彼女が、確かに存在していたことを、世界に証明するために。
終