テオドアは期待に胸をときめかせ、浴室の扉を開けた。
「これが……シャワー室――」
日本における標準的な浴槽と洗い場の組合せを前にして、青年はいささか落胆の声を響かせた。彼は一瞬にして室内のあらゆる寸法から浴槽の容積、果ては壁と床のタイルの材質の違い、内部の温度・湿度までぶつぶつと言い当てて、つまらなさそうに中に足を踏み入れた。
「そしてこれがシャワー……ですね」
壁に掛かった旧式のシャワーを取り上げて、無造作に蛇口をひねる。当然湯がジャバジャバと流れてくるのだが、彼はそれをまるで親の敵のように眺め、
「64度」
と得意げに言い放った。もちろん摂氏である。
「そしてこれを――頭からかぶるのですね。石鹸……は、どこにも見あたらないようですが――」
高温の湯が、衣服と靴を身につけたままのテオドアの足にジャバジャバと流れ落ちている。湯が冷えた床に落ちて、もうもうと水蒸気が立ちのぼる。視界が悪い中でしばらく探したが、狭い室内に"石鹸"らしきものが見つからず、テオドアは再び落胆した。隅にはポンプタイプのボディシャンプーや身体を洗うためのスポンジがシャンプーなどと一緒に存在を主張していたが、彼の知識では石鹸は常温にて固形である。
「石鹸とは清潔を保つために必要なもの。私は省いても問題はないでしょう」
妥協した彼は石鹸をあきらめて、おもむろに頭からシャワーをかぶった。当然帽子も身につけたまま――。
「浴槽に湯を張って"入浴"を試すのは、また次の機会にしましょう」
数分後、ずぶぬれの子犬のような顔をして浴室を後にするテオドアがいた。
「――耳に水が入りました」
テオドアは顔をしかめ、耳に入った水を取るべく床を片足跳びしながら、三度目の落胆を口にした。
＊＊
ある日、公子はベルベットルームを去り際に、なんとなくしょんぼりしているテオドアに尋ねた。
「ねえ、テオの家のお風呂ってどんな感じ？」
「――なぜそのようなことをお聞きになるのでしょう」
内心どきりとしながらテオドアはそしらぬ顔で返した。
「ゆうべ変な夢を見たから。テオがお風呂で熱湯をかぶって――」
「公子様、違いますよ。熱湯ではありません。64度です」
"変"と言われてむっときたテオドアは、思わず正直に答えていた。しまった、誘導質問にひっかかったかと後悔したが、少女にはまるでそんな意図がなさそうだということに、すぐに気付いた。
「あ、そうそう。確かそんなこと言ってたね。――あれ？ やっぱりあれは本当のこと？ 夢にしては妙にリアルだったし――というかテオ、火傷とかしてないの？」
「もちろんですよ」
心配そうにしている少女に、テオドアは得意げに頷いた。
「それならいいんだけど。……あ、そうだ、じゃあこれは知ってる？ 耳に水が入ったときは――」
「知っていますよ。水が入ったほうの耳を下にして片足跳びをすれば良いのでしょう？」
言いながらテオはどことなく不満そうだ。それもそのはず、その"まめ知識"を試してみても、耳の中の水はまだ外に出ていってくれなかった。いまも両耳、公子の声がくぐもって聞こえてくるほどだ。
「うん、よく知ってるね。私は昔、プールの授業の後に先生から教えてもらったんだよ」
「常識ですね」
テオドアは知ったかぶりをしてみせて、しかしすぐにはたと考え込んだ。少女の口振りではこの"まめ知識"は、彼女には有効な策のようだ。もしや自分のやり方が悪いのだろうか。それとも身体のつくりの違いだろうか？ いや、この身体は人を模して作られているという。筋力や耐久性その他いろいろと"多少強化"してあるが基本的な造りは同じ、ということらしい。
「テオ？ どうしたの、何か考え事？」
公子は妙にニコニコとして、テオドアの顔をのぞきこんだ。その目が悪戯っぽく光っている。
「――何を笑っていらっしゃるのです？ 私に"変"なことがあるなら、はやくいいなさい」
「あはは、ごめんね」
拗ねて口を尖らせる青年に気付いて、公子は陽気に謝罪してこう続けた。
「片足で跳ぶときは、水を取りたい耳とは反対の足でやってみるといいよ。理由は知らないけど、先生がそう言っていたんだ」
「そう――なのですか？」
テオドアは生真面目に尋ね返し、彼女の言うとおりの方法をすぐにその場で試してみせた。首を左に傾げたまま、右足で軽くジャンプを繰り返す。すると耳の中で軽い音を立て、水は外に出ていった。
「取れた？」
「ええ…！ 右耳の方も試してみましょう」
ぱあっと瞳を輝かせ、テオドアはもう片耳も直してしまうと、公子に向き直り、胸に手をあててかしこまった。
「ど、どうしたの、急に？」
「貴女の"まめ知識"のおかげで不快な状態が改善されました。ありがとうございます。このお礼に、とっておきのものをご用意させていただきます」
「あ、いいよ。こんなことでお礼なんて」
経験上、テオドアの"とっておき"は面白いものが多い。公子はなんとなく「どんなものかな」と期待しながらも、心から遠慮して言った。
「次に貴女がこちらにおいでになるときまでに、ご用意させていただきます。貴重な"まめ知識"を教えていただいたのです、これは正当な報酬になります。どうかご期待ください」
「う、うん――。じゃあ、楽しみにしてるね！」
少女は素直に喜んで、ふと思い出したように付け足した。
「あ、そうだ。ねえ、テオ。お風呂は普通、服を脱いで入るんだよ」
「服を脱いで？ 裸で湯をかぶるのですか？ あの空間で無防備な――。そうか、実は敵をあざむく罠なのですね。視界の悪さは敵も同じ、油断していると見せかけて待ちかまえておくのでしょう。それならば、納得できます」
「裸じゃないと身体が洗えないでしょ！」
勝手に納得しているテオドアに、「これだけは譲れない」と公子は念押しした。
「なるほど、それは確かにそうですね。――しかし、あそこには石鹸がありませんでしたので」
公子に強く言われ、テオドアは小声で言い訳をした。実際には石鹸はあったのだが、さすがに公子もそこまでは見ていなかった。何やらしゅんとしている青年に気付いて、少女は慌てて言い繕った。
「で、でも、私にしてみたらかえってよかったよ。テオが裸だったら、きっと今ごろ気まずかったと思うし」
少女は唐突に顔を赤らめて、曖昧に笑みを浮かべて呟いた。落ち着いて考えてみれば、テオがまともに風呂を使っていたら、それを覗いた自分は変質者と一緒だ。そう思い至って、少女は密かに胸をなで下ろしていた。テオドアの行動を夢に見た奇妙さについて、公子はまったく気に留めていなかった。もちろんテオドアのほうも、その異様さを指摘できるほど"常識"を持ち合わせていない。
「――公子様、折り入ってお願いがございます」
テオドアは思いつめた表情で公子に詰め寄ると、かしこまって返事を待った。
「な、何？ 言ってみて」
「次は"入浴"の作法をお教えいただけないでしょうか？ 貴女に指摘していただかなければ、私はシャワーの作法を会得することはなかったでしょう」
「会得…？」
公子は呆然と声をあげた。テオドアは自分がすっかりシャワーの作法を会得したと思いこんでいる。少女は内心うーんと考え込んで、その間違いを指摘することを放棄した。
「まあ……そのうちにね？」
「ありがとうございます。ああ、お引き留めをして申し訳ございません。またのお越しをお待ち申し上げます」
公子の曖昧な返事を当然のようにポジティブに受け取って、テオドアは嬉しげに少女を外へ送り出した。
終