テオドアの自室はベルベットルーム同様に殺風景なものだった。広い部屋の真ん中に青いテーブルセットがぽつんと置いてあり、壁際には彼のコレクションを飾るささやかなスペースが設けてある。室内にあるめぼしい物はそれですべてだ。
青年はその部屋でめずらしくテーブルについて、熱心に書き物をしていた。
「何をしているのです？」
「あ、姉上！？」
気配を感じてテオドアが振り返ると、姉エリザベスが不思議な笑みをたたえて背後に立っていた。思わず弟も立ち上がる。
「いつの間にこちらへいらしたのです？ 作業の前に確かに鍵はかけたはず……い、いえなんでもありません」
「ええ、鍵かかかっていたので気付かれないよう侵入しました。それが礼儀というもの」
エリザベスが得意げにうなずく。姉は弟が日頃から自室に鍵をかける習慣がないことを知っていた。だからこそこの状況は何かある、と思ったのだ。
「なるほど…、人は隠されているものほど暴いてやりたくなるものだと聞きます。さすがは姉上、トレースは完璧ですね」
「テオこそ私を試そうなど、ずいぶん偉くなったものですね」
「ありがとうございます。しかしまだまだ姉上には敵いませんよ」
エリザベスの皮肉にテオドアは得意げに謙遜してみせた。青年は書き物の中身を姉に見咎められないうちに、紙を素早くしかし几帳面に折り畳み、胸ポケットにしまいこむ。
「――。まるで敵同士のような物言い。いつからそんな物騒なことを言うようになったのか……」
「え！？ そうでしょうか……？」
「そもそもこの先、弟の貴方に敵う可能性があるとでも？」
「い、いえ、それは……。そう！ それは言葉のあやというものですよ」
無表情に詰め寄ってくる姉をなだめようと、テオドアは眉毛を下げて困り顔を作ってみせた。弟は、姉が自分が先に喧嘩を売りつけたことを棚に上げ、自分が慌てる姿を見て楽しんで――否、単なる退屈しのぎにからかって見せているだけだと知っている。姉にとっても弟にとっても、この手のやり取りはもう幾度となく、そして飽きもせず繰り返してきたコミュニケーションの一種だった。
「ならば撤回しますか？」
エリザベスはにこりともせずに弟に尋ねた。撤回しなければ姉の『愛のムチ』が待っている、と弟は直感した。そしてできればソレを回避したい、とも。姉の愛は容赦なく激しいものなのだ。
「姉上、お言葉ですが私たち姉弟の絆は主の御名のもと揺るぐことは決してありません。ましてや私に姉上への反逆の意志など――どうか考え直してください」
「わかりました。強情を張って後悔したいのですね」
弟に『撤回』の意志がないことを察して、姉が気の毒そうに片足を引いた。瞬く間にエリザベスの周囲に凄まじい力場が広がっていく。テオドアの視界がぐんにゃりと歪む。錯覚でもなんでもなく、エリザベスのプレッシャーで実際に部屋がひしゃげているのだ。
「い、いえ！ 姉上！滅相も！？」
必死で否定しながらも、テオドアはエリザベスの力場に対抗すべく己の力を展開しはじめていた。一応室内ということで手加減をしているだろうとはいえ、姉の力はそれでも大嵐並だ。守らなければ部屋もろとも大切なコレクションが壊されてしまう。
「あっ――いけません、大切な証が」
「そのようなものに――」
テオドアは薄汚れた歯車や虫の抜け殻に走り寄って、身を挺して大嵐からそれらのガラクタをかばっている。それを見たエリザベスはつまらなさそうに呟いて、身の内から溢れる力をあっさり引き上げた。その瞳には哀れみの色が浮かんでいる。
「あ……よかった、みな無事です。ありがとうございます、姉上」
心からほっとしたように笑みを浮かべた弟に、エリザベスは俯いて首を振った。弟は変わった。"そのようなもの"に大きな価値を見いだし、そのことに疑問を持たないどころか、誇りすら感じているようだ。
「テオ」
「はい？」
床に落ちたコレクションを再び棚に飾り付けてやりながら、弟が無防備に振り返る。己の気持ちを押し殺すようにして、エリザベスは"彼"からもらった『時の砂』を密かに握りしめた。変わってしまったのが弟だけではないことを確認するように。
「万に一つの可能性――それを人が何と呼ぶか知っていますか」
「え……？」
エリザベスの真剣な声色にテオドアは言葉を失った。
「その答えがいかに残酷なものか知りながら、人はそれを"信じる"と言う。だから私も信じようと――」
言いかけて、エリザベスはふと口をつぐんだ。辺りにかすかな呼び声が響く。直立不動の姿勢で、彼女は一瞬ぼんやりと虚空を仰ぎ見た。その声が聞こえたのはエリザベスだけだ。
「姉上？」
「呼ばれました。では」
そう言い残し、エリザベスはテオドアが引き留める間もなく消えてしまった。おそらくベルベットルームへ向かったのだろう。取り残された弟が気むずかしげに首を傾げる。
「……いったい答えはなんだったのでしょう。聞きそびれてしまいました」
再び部屋の中に、今度は別の小さな声が響く。
「お客人がこちらの扉を叩いているご様子。私もすぐお迎えに上がらなくては」
テオドアは少女の気配を感じ取って、嬉しそうに目を細めると、ベルベットルームへ急いだ。
＊＊
「お客人、いかがですかな？」
イゴールの長い指がカードを切り、慣れた調子でテーブルの上に展開していく。彼の示した結果を見て、公子が申し訳なさそうに首を振った。少女がこの部屋を訪れるようになってからは珍しくもない光景だが、今回はいささか回数が多い。気むずかしげな少女の横顔を眺めながら、テオドアは心なしか落胆しているようだった。少女が主に"試し見"を乞うているペルソナは多種多様で、その依頼だけみれば、彼女が上から適当に組み合わせ、無駄に時間を潰しているようにも見える。しかし当の本人の顔は真剣そのもの、テーブルに身を乗り出して目が爛々と輝いている。
「何度もすみませんイゴールさん、それはなしで。それで次は、これとこれとこれの組合せでお願いできますか？」
「かしこまりました。――では、こちらはいかがですかな？」
少女が黙って首を振るのを見て、イゴールがおどけた様子で一息ついてみせた。今の展開で現在の少女の手持ちペルソナで考えられる組合せは、すべて"試し見"させつくしたことになる。傍目から見ても気合いが入りすぎの少女の緊張を、少しでもほぐせればと思ってのことだ。
「ご、ごめんなさい！ その、何度もお手数をおかけして。――また出直して来ます」
イゴールの気遣いを感じ取って、公子が慌てて席を立った。可哀想なぐらい頬を真っ赤に染めている。
「いやいや、お客人。お気遣いには及びません。何度も申し上げるようですが、ペルソナの合体については、"ご自分で"試されるのがよろしいのです」
「イゴールさん……」
「私どもはいつでも貴女へご協力を惜しみません。貴女がご納得されるまで、何度でもお付き合いさせていただきましょう」
「う、うん――。ありがとう、お言葉に甘えさせてもらうね」
イゴールの頼もしい言葉に、少女は照れくさそうに礼を言った。見送りに出てきたテオドアに手をとられ、すまなそうに口を開く。
「テオもごめんね？ またすぐにタルタロスで新しいペルソナを探してくるから、登録をお願いしちゃうと思うけど」
「お客人、主の申し上げた通り、私へのお気遣いは無用でございます。心からまたのお越しをお待ち申し上げますよ」
テオドアは恭しく胸に手をあてて、力強く少女をタルタロスへ送り出した。
＊＊
タルタロスのエントランスで我に返った公子は、スカートのポケットから小振りの手帳を取りだして、凄まじい勢いで何かを書き付けはじめた。傍らのゆかりがその様子に目をまるくしている。
「ちょっと…、いきなりどうしたの？」
「ごめ、忘れないうちに、あとで！」
公子はゆかりにカタコトで返し、脳内の記憶を吐き出すようにペルソナ合体の組合せを書き出し続けた。ベルベットルームに通いはじめて1ヶ月とすこし、何度もペルソナ合体をするうちに、おぼろげながら合体には何か法則のようなものがあるのではないかと思うようになっていた。イゴールにねだった沢山の"試し見"は、その法則の検証のようなものだ。
「やっぱり……恋愛と女教皇だと必ず魔術師ができてる。恋愛と皇帝だと……戦車。これも同じだ」
「恋愛が今日――？」
目を血走らせる公子を見て、ゆかりが小声で風花に首をかしげる。
「ちょっとわかりませんね。でもリーダー何だかすごく真剣みたいだし――少し様子を見ましょう」
「うん、まあ……疲れ過ぎとかで不安定になっているわけじゃないならいいんだけど。最近ちょっと顔色悪い気がするしって私も人のこと言えなかったりするんだけどね」
「確かにこのところ、連日タルタロスですからね――お疲れさまです」
心配そうなゆかりに風花は頷いて、しかしすぐにルキアに心で触れるようにしながらこう続けた。
「でも……なんだか不思議なんです。確かに公子ちゃん、とても疲れている感じなんですけど、特に危険な徴候はないし――むしろ生き生きしてる、そんな感じもして」
「――よくわからないけど、心配なさそうってこと？」
「ええ、たぶん大丈夫だと思います」
風花が考え込むように頷く。公子はそんな二人の会話など耳に入らぬ様子で、なおまだ手帳にメモをとり続けている。
「ま、風花ちゃんもそう言ってることだし、オレたちは休憩延長ってことでオッケーでしょ」
「順平、あんた自分が休みたいだけじゃないの？」
調子よく会話に加わってきた順平に、ゆかりは呆れ気味に笑った。
「ふふっ。じゃあ私、先輩方にそう伝えてきますね」
エントランスに風花のやわらかい声が響いた。
＊＊
「イゴール様はご存じだったのですね――」
公子を見送ったベルベットルームで、テオドアは力なく主に尋ねかけた。
「何のことですかな？」
「お客人はペルソナ合体の秘密……その法則に気付きつつあります。正直彼女がこれほどの成長をみせてくださるとは、この短期間でと本当に感心いたします」
テオドアは手放しに公子を褒め称えると、胸のポケットにしのばせた紙切れを取りだして、テーブルに広げて見せた。そこには青年の几帳面な字で、ペルソナ合体法則を網羅した表が書かれている。
「私は彼女のお力になりたいと思うあまり、彼女が自ら試行錯誤し、経験を力にする機会を奪ってしまうところでした」
テオドアはイゴールに、自分が公子にこの表を渡すつもりだったことを白状し、うなだれている。
「それほど深刻になることでもないでしょう。ペルソナ合体の神髄に触れるためには、法則の理解が必要不可欠。ですがそれはほんの入口に過ぎないのです」
「――そこまで彼女を……？」
テオドアは『神髄』という言葉を口にしたイゴールを呆然と見つめ、やがて感謝をこめて「ありがとうございます」と頭を下げていた。青年には主の評価が我がことのように嬉しかった。
「まことに残念なことですがな、あちらの時間はもうほとんど残されておりません。私どもはお客人が必要とする限りにおいて、十分なお力添えをしてさしあげなくてはなりません。そしてその判断は、案内人である貴方に委ねられていることでもあるのです」
「イゴール様、それは――それではこの合体表を、公子様に差し上げてもよろしいのでしょうか！？」
主の許しを得て、感激のあまりテオドアは大声でそう尋ねた。
「問題はないでしょう。私が申し上げるのもおかしな話ですが、お客人はいささか合体に熱心すぎる。彼女の生活は、このベルベットルームにばかりかまけていて良いものではありませんからな」
「そ、それは確かに――」
イゴールの言うことは正論だった。ここ最近の公子のベルベットルーム訪問回数は、熱心を通り越して常軌を逸脱しているレベルだ。タルタロス攻略もペルソナ回収のために行っているような節がある。
「その合体表を差し上げれば、彼女の訪問頻度も落ち着くでしょう。総当たりで全ての合体を試し見ていく必要がなくなるわけですからな」
「激減するかも知れませんね――」
テオドアは自作の合体表を取り上げて俯いた。よく考えれば、合体表を少女に渡すとはそういうことだ。なんともいえない寂しさが青年の心の中に広がっていく。
「私はどちらでも構いません。判断は任せましょう」
イゴールの穏やかな声が、テオドアの耳にはひどく意地悪く響いた。
＊＊
現実の世界で数日後、ベルベットルームには少女の楽しげな声が響いていた。
「テオ！ 頼まれていたものが揃ったよ！」
「なるほど、確かに依頼を達成しているご様子。確認いたします」
テオドアが依頼の品を受け取り報酬を手渡すと、少女が「わあっ」と歓声をあげた。その様子を青年は嬉しそうに見つめている。
「――これで現在お受けいただける依頼はすべて終了ですね。ありがとうございました」
「え、もうないの？」
「どうかしばらくお待ちください。成長著しい貴女にふさわしい依頼を、ご用意させていただきます」
テオドアは公子の何気ない要求が嬉しかった。
「わかった。でも、なるべく早くね？」
「かしこまりました。――他にご用件はございますか？」
「うん、合体もお願いします！ テオからもらった表を見て、昨日からずっと考えていた組合せがあって――」
イゴールとテオドアの想像通り、合体表を手に入れた公子は連日のタルタロス攻略を止め、それにともなってベルベットルームへの来訪回数も激減していた。だがそれでもテオドアは満足だった。目の前にいる少女は数日前よりずっと顔色も良く、自分たちに申し訳なさそうに小さくなって謝罪を連ねることもない。本来の彼女らしい無邪気さを取り戻した公子に、テオドアは微笑みを浮かべて言った。
「貴女のお役に立てて光栄でございます。主もきっと喜ぶことでしょう」
「……そ、そうかな。大げさじゃない？」
公子はテオドアの"光栄"に反応して、気恥ずかしそうに顔を赤らめる。手作りの合体表をもらって、タルタロスの探索がどれほど楽になったか、自分ばかりか仲間の負担も減って、みんなと仲良く話したり、遊んだり、様々な活動に励むことができるようになったことなど、テオに話してもう一度改めてお礼を言いたいと少女は思っていた。しかし言葉がうまく出てこない。もたもたしている間に、少女はイゴールと体面していた。
「ようこそ、お客人」
「イゴールさん、よろしくお願いします！」
公子は元気良く挨拶して、促されるまま席についた。少女は合体がはじまってもまだなんとなく落ち着かず、ちらちらとテオドアのことを気にしている。
『ご安心ください。私はいつでも貴女にお力添えできるよう――いまはこちらに控えさせていただきます』
己の心の声が少女に届くことを願って、テオドアは公子に微笑んでみせた。
終