休日のポロニアンモールは人でごったかえしていた。ひとりの少女が路地裏へ消えたことを、気に留める者はない。影人間が消えて2週間、人も街もつい先日まで見ていた"悪夢"を忘れてしまったかのように、日常を謳歌している。
「テオ……」
少女は行き止まりの通路で、己の内面に触れてつぶやいた。何度試しても、すかすかとした感触が返ってくるだけだと知りながら、彼女は試すことが止められない。ペルソナは少女と青年を繋ぐ絆だった。
「どうした？ 具合でも悪いのか」
「――黒沢さん」
少女に声をかけたのは、定期巡回中の黒沢巡査だった。彼は振り返った少女が自分の名を知っていることに、一瞬妙な引っかかりを覚えたものの、すぐに納得してうなずいた。
「ああ、君は――真田の後輩だな。こんなところでどうした、気分が悪いなら手を貸すが」
「大丈夫です。すみません」
影時間にまつわる記憶を無くしてしまっても、黒沢巡査の人柄は変わっていない。少女はそのことになんとなく救いを感じながらも、曖昧に答えるしかなかった。
「そうか――。なら、一人でこんなところに入り込まないことだ。見ての通り人通りもなく物騒だからな」
「はい」
"こんなところ"じゃない。ここは、この通路の奥には、つい最近まで青い扉があったんです。少女はむりやり言葉を飲み込んで、巡査に促されるままモールの表通りに戻された。明るい通りに足を踏み入れる前に、少女は祈るような気持ちで再び行き止まりを振り返ったが、裏路地は何も変わっていなかった。
少女は寮への道をとぼとぼと歩いた。途中、巌戸台商店街でたこ焼きを買い、長鳴神社まで足を伸ばす。通い慣れた道で、目が自然に誰かを、何かを探してしまう。見知った顔がどこにもない。境内にコロマルの姿が無いことに、少女はほっとした。きっといま、自分はひどい顔をしている。少女は彼の帰りを待たず、もう鳴かない稲荷にたこ焼きを供えて、神社を後にした。
寮に戻るとラウンジに人の姿はなかった。少女は自室に戻るなりベッドに倒れ伏し、声を殺して泣いた。裏路地にも、タルタロスだった学校にも、何度もやり取りしたはずの携帯にも痕跡は残っていない。
「せっかく作ったのに。渡せないのかな……」
少女はぐずぐずと起きあがり、バッグから可愛らしくラッピングされた包みを取りだして、悲しげに目を伏せた。影時間は消え、青い部屋もどこかに消えてしまった。探そうにも手がかりは何もなく、会いたい気持ちが募るばかりだ。
少女は部屋の窓を開けて空を見あげた。いつの間にか星が出ている。引き出しの奥から取りだした宝物を、そっと頬に当てて目を閉じる。青年の優しげな声と笑顔が浮かんできて涙がこぼれた。彼にしてみればほんの口約束に過ぎないかもしれないのにと思いながらも、それでも彼の言葉に強く励まされている自分に気付いた。テオは必ず私に会いに来てくれる。不思議と信じられた。
（もう会えないとしても、私――忘れなくてよかった）
少女は涙を拭って宝物をポケットにしまいこんだ。すぐ近くで遠吠えが響く、コロマルだ。窓の下を覗き込むと、白い毛並みが闇夜を縫うようにしてこちらに駆けて来るのが見えた。少女は部屋を出た。
寮の扉を開けると、コロマルはアイギスから水をもらって飲んでいた。
「コロマル」
「ワンワン！」
「――心配して来てくれた？ 大丈夫。もう元気になったから」
少女はしゃがんでコロマルの頭を撫でた。犬はつやつやとした鼻を少女の手にすり寄せて返した。アイギスが一瞬何かを言いかけて、寂しげに口をつぐんだ。
「ねえ、アイギス」
「は――はい」
アイギスの声はどことなく緊張している。少女は無表情の同級生の、その存在の繊細さに思いを巡らせていた。人に限りなく近い存在のアイギスに記憶の欠落が起こっていても不思議はない。と同時に、欠落が起こっていなくてもおかしくはないのだ。ただ、もし彼女が全てを忘れてしまっているのなら、自分がいまここでそれを確認することが、悪夢を思い出させる引き金になるかもしれない――。そんな風に考えて、少女は穏やかに尋ねた。
「犬用のおやつって、中にまだあったっけ？」
「……。ええ、戸棚の下から2番めに、まだ3本ほど」
「ワン、ワン！」
アイギスが柔らかく微笑むと、コロマルがじれったそうに二人の少女を吠えたてた。少女らが思わず顔を見合わせて笑う。
「じゃあ、中でおやつにしようか！」
少女はさりげなくアイギスの手を取りつつ、コロマルに声をかけた。もう一つの可能性、もしアイギスに影時間の記憶があるとしたら――おそらく彼女はさっき自分が考えたように"仲間に配慮"しなければと考えるだろう。
「ワン！」
コロマルがアイギスを振り返って吠えた。少女に手を取られて棒立ちになっていた機械の乙女は、複雑な表情を浮かべて言葉を詰まらせた。少女のいたわりが孤独を埋めていく。彼女にはそれが『お互いさま』であることが嬉しかった。
「公子さん――」
「あー寒！ 早く中に入ろう？」
「そうですね。……天気予報では、今夜はこの冬一番の寒さだそうですよ。風邪をひかないように気をつけてください」
アイギスは少女の冷えた手を、そっと握り返した。
「アオーーーン」
コロマルはまるで誰かに聞かせるように、長い遠吠えを響かせた。
少女はコロマルとアイギスと穏やかなひとときを過ごし、自室へ戻った。ポケットの中から宝物を取りだして、ふと思い出したようにつぶやいた。
「そうだ。せっかくキレイにできたし、チョコもしまっておこう」
今日は難しくても、明日には会えるかもしれない。明日無理でも、その先はわからない。どんなに難しいことでも、可能性はゼロじゃない。仲間と一緒にそう信じて、日々を過ごしてきた結果が"今"、"ここに"ある。
少女は涙でちょっと皺の寄った包みを、己のペルソナに触れるように撫でて、宝物と一緒に机の引き出しにしまいこんだ。鏡をのぞき込むと、目を赤くして、それでも笑顔でいようとする自分がいた。
少女はこの夜も祈るような気持ちで眠りについた。
＞2月14日が終わった