「戦は終わった」
そう聞かされてから、もうどれぐらい経ったのだろう。
犬は店の片隅でぼんやりそんな事を考えていた。
小さな主が切り盛りするこの店は、ちょうど昼時を迎えて大忙しだ。
最後の戦の後、大きい主が自分の頭を撫でて言った。
「よくがんばったな。誉めてつかわすぞ」
男が自分を鬼妖界へ送還しはじめたのがわかった。
己の身体が浮遊するかのような不思議な感覚に身を任せていると、
小さな主が駆け寄ってきて、自分をぎゅっと抱きしめた。
「いままで本当にありがとうね、イヌマル」
いつもの笑顔で。でもすこし涙声で。
主たちの目はこの別れが『永きもの』であることを告げていた。
「真の名のもとに、我が命ずる……疾く、為したまえ！」
「イヤダ カエサナイデ」
そう思った瞬間、術は弾けるように破れた。
それ以来、自分はずっと『ここ』に在る。
小さな主は、相変わらず商いに忙しそうだ。
大きい主は、小さな主にめいっぱいこき使われている。
だがこの男は最近とても幸せそうに笑う。
それはよいことだ、と犬は思った。
男はいつだって機嫌よさそうに見せていたけれど、
その本心はたいてい違っていた。
己の不甲斐なさに対する怒りと憤りを支えに、
辛うじて立っていたそのことを、隠していた。
小さな主はそのことを知らない。
これから先も知ることはないかも知れない。
それが男の望みであるから。
否、望みであるなら。
小さな主の笑顔と大きい主の願いは繋がっている。
だから少女は笑うのだろうか。
泣きたいときも、苦しいときにも。
愛しい男との繋がりを離さぬために。
「お昼の部、営業しゅーりょーう！」
小さな主の声が高らかに響いた。
それに倣うように少年が、続いて別の少女の声が続く。
「おつかれさま、みんな」
「あー！今日もつっかれたあ〜！
それにお腹もぺっこぺこ！！」
「あはは、それじゃわたしたちもお昼にしようか」
「やったー！」
「フェアさん、じゃあぼくはスープを温め直すね」
「ありがと、お願いね」
「あたしもう動けなーい！！」
「はいはい。最初から期待してないわよ？」
「なによそれー！？」
毎日のように繰り返される会話。子ども達の笑い声。
それをまるで宝物のように見つめる男がいる。
「ねえ、セイロンはイヌマルを呼んできてくれる？」
「うむ。だがイヌマルならもうとうに来ておるぞ？」
「わうん！」
「あ…ほんとだ！」
「はっはっは、こやつも腹が減ったのかも知れぬな」
「それじゃあこっちも急いで準備しなくちゃね」
「ああ、我も手伝おう」
「うん、ありがとう！」
他愛ないやり取りにも、小さな主は笑う。
その姿に安心するように、大きい主が笑う。
犬は思う。
このつかの間の夢のような時間を、
壊れ物のような幸福を、守ろうと。
そのために自分は在るのだ、と。
終