避難船ラウスブルグ。
あてがわれた部屋は狭いながらも上等のしつらえで、歓待はそこからも十分に感じられる。我は久々の寝台で眠れぬ夜を過ごしていた。
守護竜の間は広々として高い窓から陽光が差し込む、開放感のある屋だった。竜はその部屋の奥に小山のような巨体で鎮座し、我を待っていた。
『鬼妖界のまれびとよ、不服か？』
我の内心の驚きを見透かしたような、深い声が響く。
たったいま目通りを許されたばかりの我を、この里へ迎え入れる。そう竜は言った。
これまで微動だにせず側に控えていた戦士が、どこか楽しげにも映る主の言動に、僅かに身じろぎをした。動揺しているのだろう。だがそれは我も同じことだ。
『いいえ。この地では寄る辺なき身の上にて、お申し出は大変ありがたく存じます。ですが……どうやら貴方はたいそう物好きな御方のようだ』
『そうだろうか』
我のからかいに、竜が無防備に返す。
『あっはっは、これはいい。まさか自覚しておられぬとは』
『貴様っ！ いい加減、控えぬか！！』
怒号が竜の間に響き渡った。竜の背にくつろぐ鳥たちは一斉に飛び立ち、戦士は大柄な体躯に似合わぬ素早さで我の間合いへ踏み込むと、よく磨かれた槍の切っ先を、ぶしつけに喉元へ突きつけた。脅しにしては殺気が強すぎる、なるほど試されていると感じた。
『おぬしこそ控えるがよいぞ。今はこの我が、守護竜殿と話をさせていただいておる』
『なっ……』
いつもの我ならば、その意気に喜んで応えていたかもしれぬ。しかしこの時ばかりは勝手が違った。
竜の瞳は、我ら二人のいさかいなどまるで目に入らぬ様子で、逃げた鳥の姿を追っている。鳥たちはそんな彼にまるで挨拶でもするかのように、天井を一度ひらりと旋回してみせて、やがて窓から外へ出ていった。幼げな天使がそれを見て申し訳なさそうに口を開く。
『あの、守護竜さま……』
『気にするなリビエル。きっと驚いたのだろう』
寂しげな声にリビエルと呼ばれた天使は居たたまれぬ様子で、自分の倍以上はありそうな戦士へ猛然と食ってかかった。
『ク、クラウレのせいですわよ？ あんなに大声を出すんですもの！ あれじゃあ鳥たちだって、びっくりして逃げてしまいますわ！』
『何を言うリビエル！ 鳥など今は問題ではあるまい！？』
気の毒にクラウレと呼ばれた戦士は大声で憤り、だがしかし天使の涙ながらの様子に気づいたか、すぐにどうしようもなさそうに槍を下げた。ようやく人心地ついた我にも、天使は非難がましくがなりたてる。
『それにあなた、あなたも守護竜さまの前で口が過ぎます。無礼ですわよ！』
『ああ、それは失礼をしたな、リビエルとやら』
気のない返事が癇に障ったか、天使の激昂は止まらない。
『ふざけないでください！？ だいたいあなたには謙虚さも、遠慮も、反省も、何もかもが全く足りませんわ！ 偉そうに何様のつもりですの！？』
この天使、見た目は童そのものだが、どうやら中身も童らしい。まったく困ったものだと竜を仰ぎ見ると、彼が彼女の剣幕に動じている気配は、まったくなかった。いっぽう戦士は苦虫をかみつぶしたような顔で、我関せずとそっぽを向いてしまっている。判断が難しいところだが、つまりこれは彼らにとって、さほど珍しくない光景とみてよいのだろうか。我はやれやれと感じながら、リビエルに向かって口を開いた。
『しかしリビエルとやら。そう言うおぬしの声が、いまこの部屋で一番騒がしいようだがのう？』
『そっ…それは……！ そうですけど……』
我の指摘にリビエルは悔しげにうつむいた。かと思えば、彼女はすぐさまはっと顔を上げ、大慌てで謝罪の言葉を口にした。いやはや、どこの地でも女子どもは忙しい。
『その、も、申し訳ありません！ あの、守護竜さま、わたくし……！』
『気にするなリビエル、それにクラウレ。あの者たちはいつも私の背を気に入り寝床にしているのだ、外に飽いたらまた戻って来るだろう』
『守護竜さま……なんてお優しい』
リビエルの噛みしめるような呟きは、竜の耳には届いていないらしい、彼は愚鈍ともとれる鷹揚さで続けた。
『おまえたちに要らぬ心配をかけた。どうか許して欲しい』
『そんな守護竜さま、わたくしたちにそのように頭を下げたりなさらないでください！』
天使はいったい怒っているのか、それとも感激しているのだかわからない調子で叫んだ。傍らの戦士はむっとしたままかぶりを振って、こっそり肩を落としているのがわかる。それにしても、なんとも奇妙な光景だった。それともこの世界の竜は、みなこの御方のようにのんきであるのか？ いやこれこそ所謂平和ボケと言うやつかもしれぬ。そんな事を考えていると、静かな声が響いた。
『それに、お客人よ』
唐突に竜が我に水を向けた。
巨大な竜の身体に蓄えられた膨大な魔力の影響か、この竜の間は地上よりもいっそう空気が重く感じられた。ここ一帯だけが明らかに幻獣界のマナが濃い。しかし彼そのものからは、不思議と威圧感を感じなかった。瞳に親しみを滲ませて、竜は尋ねた。
『呆れているだろうか？』
『正直、いささか』
空気が凍った。
戦士の殺気が再びこの身に張りつく。クラウレはその大きな羽を広げ、鬼の形相でこちらを凝視していた。我が身動き一つしようものなら、今度は身体ごとあの槍が突っ込んで来るだろうことは想像に難くない。天使は呆れてものも言えぬのか、ぽかんと我を見あげている。そして竜は――我が彼とその部下を値踏みしていることに気がついているのか、それともいないのか、どうにでもとれる柔和な態度を崩さず、その口を開いた。
『だが、この城は貴方を歓迎する。里ではリィンバウムを追われた者達が、寄り集まり助け合って生活しているのだ。貴方がそれを望むなら、皆もきっと新しい同胞を快く受け入れよう』
『あなたもここでお世話になれば、これ以上人間たちから、不条理で不当な扱いをされることも、食べ物や寝る場所に困ることだってありませんわよ』得意顔で天使がそう付け加える。
『なるほど。異郷をさすらう者同士の仲間意識から、衣食住の保証までしていただけるとあっては、ご好意に与らぬわけにもいかぬ……か』
『ちょっと、もう少しぐらい遠慮したらどうですの。ずうずうしいですわね』
すかさずリビエルの突っ込みが飛んできた。
『あっはっは、これは失礼』
『いい加減、その薄ら寒い作り笑いを止めたらどうだ。虫酸が走る』
突然、クラウレの低い声が響く。感情を凍らせた猛禽のような眼差しが我を見つめていた。
『おぬし、先ほどから随分と苛ついておるようだが。我に何が言いたい？』
『苛つく？ その言葉はそっくりお前に返そう。だいいち言いたいことがあるのは、お前のほうではないのか？』
彼はふんと鼻を鳴らすと、主である竜へ改めて向き直り、うやうやしく跪いて言った。
『お言葉ですが、守護竜様。俺には彼が"里"にふさわしい者とは、とうてい思えない』
『ふうむ？』
竜が興味深そうに続きを促す。
『聞けばこの者は主君の命を受け、リィンバウムへは望んでやってきたとか』
『ああ、確かに彼が鬼妖界のさる高貴な御方の命を帯びこの地へ使わされたことは、私も聞き及んでいる。お客人、それで相違ないだろうか』
我が頷くと竜はクラウレに尋ねた。
『だが、クラウレ。それが何か問題なのか？』
『ええ、だからこそ認めるわけにはいきません』クラウレは我を一瞥し、突きつけるように言った。『守護竜様への感謝と忠誠が誓えぬ者は、この城へ住まわせるわけにはいかない。そしてこの者が、主を持つ身でありながら、貴方様へ臣下の誓いを紡ぐような恥知らずな男であるとも、俺には思えない』
戦士は無愛想に言うと、立ち上がって再び主へ生真面目な礼を捧げた。
『見回りの時間ですので、俺はこれで。御前、失礼いたします』
『……あっ、クラウレ！ お待ちなさい！』
リビエルも彼の後を追って走り出す。二人が部屋から出ていってしまうと、場には奇妙な沈黙が訪れた。遠い入口には見張りらしき兵が二人ついているが、それでもこの城の最高権力者の警護としてはお粗末すぎるように感じる。
『クラウレは、ずいぶん貴方を買っているようだ』竜はどことなく嬉しそうにつぶやくと、我に向かって謝意を示した。『どうか気を悪くしないで欲しい。彼に悪気はない、そしてもちろん私にも。……だが私の態度は、クラウレの言うように、貴方の主への忠誠を疑う侮蔑を感じさせたかもしれない。私の無礼を許してくれるだろうか』
『いえ――お待ちください、』
正直なところ、我は怒るというより拍子抜けしていた。素性もろくに知らぬ異界の若造一人にあっさりと頭を下げる竜の、その素直さ無防備さと、しかしその彼が身にまとうどこか不可思議な雰囲気に。
『こちらこそ、どうか非礼をお許しを。いわれなき施しは、我が主の名を落とすものゆえ受け入れることはできませぬが、このセイロン、貴方様のご好意は身に染みております』
無難な返答でひとまずお茶を濁すと、竜は我の意を汲んだようにこう言って切り上げた。
『そう言っていただけるとありがたい。これも何かの縁。今宵はこの城へ泊まって行かれるとよいだろう』
『ありがとうございます。そうさせていただければ、幸いです』
こんな調子でうやむやに終わった謁見を我はぼんやり思い出していた。
野宿の続いた身体は休息を欲していたが、ばかに柔らかい寝台がそれを邪魔する。明日からはまた、あてのない龍姫様探しの旅が始まるのだ。少しでも眠っておきたい。そんなことを考えていると、扉を叩く音が響いた。
「よろしいですか？」
聞き覚えのある可愛らしい声に応じると、案の定、竜の間で別れたきりだったリビエルがつっ立っていた。昼間は気にも留めなかったが、彼女の全身は淡く発光しており、暗い廊下にまるで亡霊のように浮かんで見える。我はなんとなく気が進まないまま無愛想に声をかけた
「……どうした？」
「ひとことだけ」リビエルはいかにも不服そうな顔で我を睨みつけ、言った。「貴方、木の葉で海を渡ろうってくらい、無謀ですわよ！」
「あっはっは。心配してくれるのはありがたいが、そんな事を申すために、おぬしはこんな夜更けにわざわざやって来たのかね」
「心配なんかしていませんわ。わたくしは、貴方がどこでのたれ死のうが勝手になさればいいと思いますけど、ただ、守護竜さまはとてもお優しい方だから……。もし貴方がその辺で土左衛門にでもなったりしたら、きっと心をお痛めになります。わたくしは、それが嫌なだけで！」
「ああ、あいわかった。そうならぬよう、せいぜい我は努力することにしよう。もう話は良いかな？ そろそろ休みたいのだが？」
軽口にリビエルの憤然とした声が返ってきた。
「どうしてですの！？ クラウレはああ言いましたけど、この城に住むには守護竜さまへの忠誠が義務だなんて、里の者は誰も思っていませんわ？ もちろんわたくしも、守護竜さまへの敬意と感謝は当然のことだと思います。でもそんなこと、守護竜さまご本人は、たぶんこれっぽっちも望まれていませんのに。言い訳なんてなされない方だから、貴方はきっと、そんなこともご存じないでしょうけど……」
次第に弱々しくなる声が哀れで、我はしぶしぶ口を開いた。ため息が混じる。
「おぬしの言い分を聞いていると、あの男――クラウレが我にそう申した理由も納得がいくがな。少なくとも、おぬしに責められるのは気の毒だ」
「……どうしてですの？」どこか忌々しげに天使が問うてきた。霊界・サプレスの住人は、我ら人型（ヒトガタ）とは根本的に異なる価値観を持つという。そうでなくとも界によって善悪の判断基準や物の道理が違うのはごく当然のことだが、しかし我にはこの幼げな天使がそのことを理解しておらぬようには、どうしても見えなかった。もしや探りを入れられているのか？ そんな考えが警戒心を呼び起こしたが、我はすぐに内心でかぶりを振った。故郷の女たちが大抵そうであったように、この者も単に手近な者に愚痴が言いたいだけなのだろう。我はうんざりした気分を面に出さぬよう努め、出来る限り優しく聞こえるように答える。
「天使であるおぬしのように、全ての者がいつも殊勝な心がけでいられるとは限らぬ。優しさだけで多くの者を束ねることは難しい。だがこの地を治める守護竜殿があのように……まあ、お優しい方では、誰かが憎まれ役を買って出るほかあるまい。我に言われずとも、おぬしも本当はわかっているのではないのかね？」
我の言葉をリビエルは悔しそうに聞き終えると、感極まった様子でわっと泣き出した。
「わかっていますわよ！ クラウレにばかり、負担がかかっていますのは！？ でもわたくしは未熟で……、彼に何を言っても、いくら心配しても、子どもの戯れ言程度にしか、思っていただけなくて……」
「まあ、それはそうであろうな」
当人が必死なだけに涙を誘うが、確かにこうして泣き言を言うリビエルはまったく幼い童にしか見えない。あの責任感の強そうな男が、そんな彼女を頼みにしようなどと考えるとは到底思えなかった。
すっかり眠気が覚めてしまった。まだぐずぐずとベソをかいている天使を持て余し、さて何と声をかけようかと迷っていると、外から大声が響いた。
「火事だ！！ 火事だぞーー！！」
窓の外には女たちが、鍋状の金物を棒でガンガン叩きながら叫んでいた。目を凝らすと、遠い闇の中に薄く煙が上がっている。あれがそうか？
「火事ですって！？」リビエルが青くなって叫ぶ。
「おい、そこの者。どの辺りだ！」廊下の窓を開け放ち、階下の女を呼び止めると、切迫した煤だらけの顔が答えた。
「里の西側よ！ あそこは家が密集してるから、大騒ぎになっているわ」
「なるほど西だな」答えながら窓の桟に手をかけ、我は外へ飛び降りた。突然二階から落ちてきた見慣れぬ顔を、女たちがが呆然と出迎える。
「ちょっと、セイロン！ どこへ行きますの！？」
「決まっておる。おぬしこそ、何をぼんやりしておるのだ」
「なっ……！」腹立たしげに頬を膨らませて、リビエルも窓から地面へ舞い降りた。風に煽られ、淡く光る華奢な羽が震えているようにも映る。「そんなこと、言われなくともちゃんとわかってますわ。貴方にも、しっかり働いてもらいますからね！」
「無論だ。ここの守護竜殿風に言えば、これも何かの因縁であろうからな」
悪態混じりに火事へ向かって走り出した我らの頬を、強い風がかすめていく。空には星がまたたき、空気が乾燥しているのがわかった。この分だと火の手はさぞかし速いだろう。彼らのいう"里"がどの程度の規模かは知らないが、被害が大きくならないと良いが。途中火から逃げ延びた疲れ切った顔とすれ違い、ぼんやりとそんな事を考える。
「あ、クラウレ……、いえ、あれはアロエリですわ！」空を見あげ、リビエルが声を上げた。
「アロエリ？」
「ええ。彼女はクラウレと同じセルファン族の戦士で、彼の妹ですのよ」
我らの遙か上空を、有翼の人型がひとり闇を切るように飛んでいく。その後にやはり同種族の者だろう、数名が群を成して彼女を追うように闇へ消えていった。
「リビエルよ。つかぬ事を聞くが、ここは火事が多いのかね？」
「そんなことはありませんわよ！！」だが天使は落胆を隠せない様子で、力無く続けた。「里の人たちはみんな、火の扱いには十分注意していると聞いています。ただこのところ原因不明のぼやが何度か起こっているそうで……。わたくしはまだここへ来て日が浅いので、あまり良くは知らないですけど」
「……なるほどな」
リビエルが不思議そうに口を開く。
「でも何故そんなことを聞きますの？」
「いや、なんのことはない。気にするな」
視界が白くぼやけ、火の手がごく近い事を報せてきた。ものが焼け焦げる匂いと煙が辺りに充満する。道端にはケガや火傷を放置され、力なく倒れる者達の姿が増えてきた。これまでずっと我の横についてきたリビエルが、その惨状を目にして言う。
「わたくし、このあたりで倒れている方たちの治療をします」
「うむ、それがよかろう」
我が一瞥すると、天使はどこか寂しげに笑った。
「わたくしでは、消火や救出のお手伝いをしようと思っても、かえって足手まといになってしまいますから」
「確かにな。けれど傷ついた者を癒すことは、天使であるおぬしにしか出来ぬことだ。違うかね？」
「なっ、慰めは要りませんわよ！」リビエルは頬を紅潮させ、我を叱咤するように続けた。「さあ、貴方ははやく現場に急いで！ もたもたしていると、仕事が無くなってしまいますわよ！？」
「あっはっは、承知した。張り切りすぎて、逆に人の手を煩わせるでないぞ、リビエルよ」
「その言葉、そっくりそのまま貴方にお返ししますわ！」
そんな憎まれ口を背中に聞きながら、我は再び走り出した。
終