SS.

白天の節、三の月。
小雪がちらつく空は厚い雲に覆われている。セイロンは寝ぼけ眼でかまどへ火を入れた。冷たい水で顔を洗い、意識をはっきりさせる。午前3時。少女はまだ夢の中だ。彼は保冷庫からミルクを取りだして、何やら支度をはじめた。

ぬくぬくとした毛布にくるまれて、フェアは二度寝を楽しんでいた。部屋の外から物音が聞こえる。彼女のぼんやりした頭は、まるで危機感を感じていない。午前4時。男が起き出したのか。彼女はベッドから未練がましく這いだして、外気に身を震わせた。

「おや、起こしてしまったか」
まだ薄暗い食堂に、陽気な声が響く。男は薄衣のついた一口大の白い生地を、熱した油にひたすら落としている。辺りはすっかり、揚げ物の音と甘い香りに包まれていた。
「いい匂いだね。でも、なんでこんなに早いの？」
「ちょっとな」
不満げに頬を膨らませる少女に、男は笑って言い添える。
「ゆうべは遅かったのだろう。そなたはまだ寝ておれ。それとも、少しつまみ食いするか？」
「……顔、洗ってくる」
「あっはっは！　それがよい」
朝っぱらから高笑いを響かせる男に苦笑して、少女は外へ出た。午前5時。空から舞い落ちる雪は、地面に届いては消えていく。
「もう、こっちに入れておいてよかったよ」
彼女は裏手の食料庫から洒落た瓶を取りだして、何やらこっそり安堵した。

ふっくら揚がった菓子の出来映えに、セイロンはすっかり満足していた。皿に壊れないように盛っていく。頬を赤く染めて戻った少女が、はしゃいで言った。
「セイロン、寒いと思ったら、外は雪だよ！」
「積もりそうかね？」
「どうかな、この時期だからそんなに降らない気もするけど」
匂いにつられて寄ってきた少女の口に、菓子を放り込んでやる。
「まだ熱いぞ、気をつけよ」
「ふぁふぁっふぁ」
薄い衣はサクサクと軽く、噛むと中から熱々で、甘く柔らかいクリームが流れ出す。ミルクの優しい風味が口の中で脆く溶けていく。フェアはしばし幸せそうに頬を緩ませて、だがすぐに生真面目な表情で男を見あげた。
「これは、甘く練ったクリームを冷やし固めて、それに薄い衣をつけて、油で揚げたのね？」
「あっはっは、その通り。さすがは店主殿だ」
「シルターンのお菓子なの？」
「はて…たまに実家の食卓に並んでいたが、鬼妖界ならではかと聞かれるとわからぬな」
真っ白い揚げ菓子の上から粉糖を振りながら、セイロンが尋ね返す。
「こちらでは見ぬのか？」
「うん、わたしは初めて食べるよ。でも……なんだか懐かしい味がするね。色もキレイだし、食感も――」
真剣そのもので菓子を味わう少女に吹き出して、男が皿を差し出す。
「これ、分析も良いが。気に入ったなら、もうひとつどうだ」
「う、うん……」
「美味いか？」
上機嫌の糸目にのぞき込まれて、少女が喉を詰まらせる。
「お、美味しいよ？　わたしは、好き」
「そうか。善哉、善哉」
セイロンは満足そうに口の端を上げ、まだほうき頭に結わえていない少女の髪を、わしわしと撫でまわした。
「フェアさーん！　おはようー！」
外から少年の声が響いた。だるそうな高い声が続く。
「あーー、さっ……むーー……。ちょっとぉ、雪が降ってるじゃない！？　もおぉ！フェアー？　さっさと出てきなさいよぉー！？」
慌てる少女を引き止めて、男が得意げに笑う。
「腹が減っておるから余計に寒いのだ。出かける前に、これを皆でつまんでいくがよい」
「あ、セイロン！」
「どうした、店主殿？」
二人を玄関に呼びに行く、広い背中が振り返る。フェアはなんとなく照れくさそうに言った。
「あの……ありがとね？」
「気にするな。それより、そなたの鍋は放っておいて良いのかね？　さきほどから良い匂いがしておるぞ」
「ああっ！？　そうだった！」
大慌てで厨房へ舞い戻る少女を見送って、男は高笑いを響かせた。午前5時。大切な仲間たちを家に迎え入れる。彼は乱暴に叩かれる玄関の扉を、心からの歓迎をもって開けた。

カップに満たされた濃茶の液体を、リシェルは幸福に飲み干した。すっかり温まった手で空のカップを「おかわり！」と元気に差し出す。
「ねえ、リシェル。気に入ってくれたのは嬉しいけど、あんまり飲むと、お腹がガブガブになっちゃわない？」
「そんなのへーきよぉ！」
「あはは、ならいいけど。ルシアンはおかわりどう？」
「う、うん。じゃあ…いただきます」
少年が遠慮がちにカップを差し出す。白い湯気が立ちのぼる鍋に身を乗り出して、リシェルがにんまりと笑う。
「でもさ、これ何なの？　美味しいけどさ、色はちょっと不気味よねー」
「うん、『ほっとちょこれーと』っていうんだって」
「ちょこれーと……？」
フェアは厨房から瓶を一本取りだすと、中身を姉弟に説明して見せた。焦げ茶色のペーストがまだ半分以上残っている。
「わたしもよく知らないけど、南の島で獲れる木の実をすりつぶして作るみたい。食材屋のおじちゃんが、困ってる旅の人から沢山買っちゃったんだって」
「へえ、南の島ねぇ……」
「匂いも少し変わってるよね？」ルシアンが口を挟むと、フェアは喜々として答えた。
「砂糖とミルクでのばして、隠し味にスパイスを入れてみたの。香りはそれだと思うよ」
「あーっ、読めたわよ！？」
セイロン作の菓子をむさぼりながら、リシェルが叫ぶ。
「とどのつまりあんたは、困ってるそのおじさんに泣きつかれて、これを買ったってワケね。そうなんでしょ？」
「あはは。見慣れない食材すぎて、誰にも売れなくて困ってる……なんて聞いたら、ね？　それに料理人としては、色々と挑戦もしてみたいじゃない」
「まったくもー。お人好しなんだから……でも、ま、そのおかげであたし達も、いろいろ美味しいものが食べられるんだけどさ」
「うん、本当、そうだよね。――あ、そろそろ出かけようか？　ミントさん心配しているかも」
「んー…」
慌てて立ち上がる弟に、姉が不満げに菓子をつまむ。外はまだ雪が降っている。フェアがなだめるように言う。
「残りは帰ってきたらあげるわよ。とびっきり美味しい朝ご飯と一緒に――よかったら、ポムニットさんも呼んで。ね、どう？」
「さんせーい！」
フェアの提案に、姉弟の明るい声が響いた。

トレードマークの帽子をかぶりながら、リシェルがふと尋ねる。
「ねえ、ところでセイロンはどうしたのよ。あたしたちを出迎えてから全然見かけないけど、まさか二度寝じゃないでしょうね？」
「あはは。たぶん、庭じゃないかしらね？」
「庭？」
「ほら、セイロンさんは、朝の鍛錬が日課じゃない？」
察しのよい弟に、姉はわざとらしくため息をついてみせる。
「はあー…、雪が降ってるってのに、ごくろうさまよねえ」
「鍛錬は季節や天気に関係なく、毎日続けることが大事なんだよ」
もっともらしい口振りに、リシェルが皮肉めいた笑みを浮かべる。
「へぇ、で、ルシアン？　あんたは訓練なんかしなくってもいいワケ？」
「僕は……剣の訓練は、夕方にすると決めているから。姉さんだって、それは知ってるじゃない？」
「へええ？　そうだったかしらね〜？」
果てがなさそうなやり取りに、フェアがすまなそうに口を挟む。
「ねえ、ルシアン。いつもうちのお手伝いをしてもらって、それはすごく助かっているけど、一番に優先しなきゃいけないのは、あなたの勉強とか訓練なんだから。無理しないでね？」
「き、気にしないでよ、フェアさん！？　訓練もここのお手伝いも、誰に言われたわけじゃない、僕が好きでやってることなんだ。……もう、姉さんが余計なことを言うから！」
「あーはいはい。なによルシアンたら、イイコぶっちゃってさ。わかってるわよ、いつだってあたしが悪者ですよぉーだ！」
「ちょっと、リシェル。そんなこと、誰も言ってないでしょ？」
「言ってなくても、あんたたちの態度でわかっちゃうのよ！？」
「なによ、それ！？」
「そっちこそ、なんなのよぉ！？」
「まっ、待ってよ！？　二人とも！」
向き合って頬を膨らませる少女らを、慌てて少年がなだめる。いつもの賑やかな光景に、更なる高笑いが響いた。

「あっはっはっはっは！　のんきだな。そなたたち、まだ家におったのか」
鍛錬を終えたセイロンは、いくらか顔を上気させている。わざとらしく割って入った偉そうな男に、すかさずリシェルが食ってかかった。
「だってさー、寒いし雪は降ってるし、できれば外になんか出たくないわよぉ」
「ほう、では、今日は我がそなたの代わりを務めよう。そうすれば、暖炉の前でのんびり留守番をしていられるぞ？」
胡散臭い笑みを浮かべ、男がそう提案する。少女は急に声を詰まらせた。
「そっ、そんなのダメよ。ミントさんのところに野菜を取りに行くのは、フェアとルシアンとリュ……あ、あとは、あたしにもう決まってるの！！　あんたが来るずっと前から、そうやってきたんだからねっ！？」
居場所は渡さないと言わんばかりに、リシェルが憤然となる。
「ほほう。なるほど、それならば仕方ないな。気をつけて行ってまいれ」
「ぐむむ……」
軽くあしらわれ唇を噛むリシェルを尻目に、セイロンは申し訳なさそうに少年に耳打ちする。
「ルシアン、いつもすまぬな」
二人の子守はさぞかし大変だろう。視線を感じて少年が苦笑する。
「いえ、僕は慣れてますから……」
「何に慣れてるの？　ルシアン？」
ばかに優しげなフェアの声が響く。男達は顔を見合わせ、すぐに何でもないと首を振った。

「そ、それよりセイロンさん。お菓子ごちそうさまでした」
ルシアンがぺこりと頭を下げる。セイロンは期待に目を輝かせ、姉弟の次の言葉を待っている。困ったようにフェアが忍び笑う。どこか気恥ずかしそうに、リシェルが口を開いた。
「美味しかったわよ。ま、フェアには全然敵わないけどね？」
「そんなことないよ。優しい味で、とっても美味しかったです」
「善哉。口の肥えたそなたらにそう言ってもらえれば、まず安心だな」
「――安心？」
空のカゴの中に保温瓶と包みを入れながら、フェアが陽気に笑った。
「たくさん作ったからね。お菓子と飲み物を、お兄ちゃんとお姉ちゃんにもお裾分けしようと思ってるのよ」
「へえ、いい考えじゃない！　きっと二人とも喜ぶわよ」
「あれ――フェアさん、こっちの包みは？」
ひときわ大きい三つ目を指差して、ルシアンが尋ねる。
「ああ、それはセクター先生用だよ。あそこは寺子屋の子達がいるでしょ？」
「なーるほど、マメねえ」
腕組みしたリシェルが苦笑する。
「フェアさんらしいよね。子どもたち、きっと喜ぶと思うよ」
大荷物を全て引き受けて、ルシアンが微笑む。ふと思い出したようにフェアがつぶやく。
「これ、リュームも好きそうよね。あの子、ミルクっぽい味、好きだったし」
一瞬、沈黙が流れる。セイロンは優雅に扇を取りだして、優しげに笑った。
「ああ、確かにお気に召されるかもしれぬな。今度お会いしたら、ぜひご馳走したいものだよ。そうだ。その時はそなたらも手伝うがよいぞ」
「そ、そうね！　それもいーかも」慌ててリシェルが頷く。
「いっそのこと、リュームくんにも手伝ってもらったら、楽しいかもしれないね？」
フェアが楽しげに笑い出す。
「厨房を粉だらけにしちゃうかもしれないわよ？」
「いーじゃない！　後できちんと片づけるんだから、いくら汚したって、何も問題ないわよ」
「あはは、散らかし係が言うことじゃないわね。がんばろうね、ルシアン？」
片づけ係筆頭・ルシアンが苦笑いを返す。セイロンがさも愉快そうに笑う。和やかな空気に内心ほっとしながら、リシェルはぷーと膨れてみせた。

「じゃあセイロン。帰りはいつもより、ちょっと遅くなると思うけど、留守番お願いね」
「うむ、任せよ」
「いってきまーす！」
少女らの声が玄関先に響き渡る。午前6時。彼女は家の前に広がる坂道を、粉雪の舞う中、元気に駆け下りて行った。

◆◆

ラウスブルグはぶ厚い雲を敷いて、トレイユの町上空に浮かんでいた。青髪の少年が、だだっぴろい守護竜の間にひとり、天窓からのぞく曙を眺めている。
「リュームくん、まだ起きていたの？」
か細い声に振り向くと、憂いを含んだ瞳がじっと見つめていた。竜は少年のような笑みを浮かべ答えた。
「おう、エニシアか。早起きだな。眠れなかったのか？」
「ううん。なんだか目が覚めちゃって。考え事？」
「そんなんじゃねーよ。ただ……」
彼は何事か言いかけて、しかしすぐに「なんでもねえ」と首を振った。所在なさそうに姫が尋ねる。
「ここにいたら、邪魔かな？」
「別にそんなことねーけど。いたかったら、いろよ」
「うん……」
二人は言葉少なに、明けていく空を見つめた。
「今日は冷えるから、町は雪が降ってるだろうな」
竜がぽつりと言った。雲の上に浮かぶラウスブルグの上空には、抜けるような空が広がっている。
「さあて、そろそろ朝メシの時間だろ？　遅れるとリビエルに怒られちまうぜ！」
そう言って、何かを振り払うように走り出した少年の後を、慌てて姫君が追う。走り慣れない彼女の息は、すぐに上がってしまう。それでも彼女は、彼の後を追いかけながら、切れ切れに言葉を紡いた。
「あのね、リューム、くん。今日が、何の日か、知ってる……？」
「ヒントくれよ！　たくさん覚えありすぎて、困っちまうから」
何代にも渡って受け継がれた、膨大な知識と記憶を持つ彼らしい返事だ。姫君が優しく微笑む。
「今日は、大切な、人のことを……想って、そして、感謝を伝える日、だよ」
大切な人。そう言われてまっさきに少年が思い浮かべたのは、地上に暮らす、小さな母の顔だった。足を止め、頼りなげに走り寄る姫を待つ。ようやく辿り着いて、激しく息を切らす肩をさする。可憐な瞳がすまなそうに潤む。
「ご、ごめん、ね……？」
「オレこそ悪ぃ。オマエ最近、ちょっとたくましくなってきたから、つい本気出しちまった」
悪戯っぽく笑いながら、リュームは我が身に蓄えし竜の記憶を辿っていた。今日は白天の節、三の月、十四夜。エニシアの言う『大切な人に感謝を伝える日』にあたりそうな事柄は、しかし竜の辞書には載っていない。彼は好奇心に満ちた笑みを浮かべ続けた。　
「それに、その『感謝する日』ってのも、オレ知らねーんだ。よかったら、詳しく教えてくれよ」
「うふふ」
エニシアが肩をすくめて笑う。
「なんだよ、おかしーか？」
「ううん。ごめんね、リュームくん。でも貴方が知らなくても、あたりまえなんだよ」
「あたりまえって？」
「うん、だってそれは、私がいま考えた理由なんだもの」
「はあ！？」
少年が怒ったように顔をしかめる。エニシアは慌てて、たどたどしい説明を続けた。
「あ、あの。ご、ごめんね。ただ私、そうだったらいいなって思ったんだよ。リュームくん、最近ずっと忙しくて、元気がなかったから」
「エニシア……」
「ね、リュームくん。お仕事も、お勉強も、確かに大切なことだけど、今日はぜんぶお休みにしてもらおう？」
姫の唐突な提案に、少年がうろたえる。
「ば、バカ言うなよ！　そりゃあオレだって……。だけど、オレはここの守護竜なんだ。自分勝手にここを抜け出すなんて――」
「ううん、そうじゃないよ。勝手にじゃない、きちんと話して、みんなにわかってもらうんだよ」
姫の言葉に熱がこもる。
「私も一生懸命お願いするから。リュームくんがいない間は、私が代わりに頑張るからって。だから、今日はフェアのところに行って、そして前みたいに宿のお手伝いをしたり、お買い物に行ったりして、久しぶりに一緒に過ごしてきて、ね？」
「な……」
リュームは絶句して、すぐにまたぶんぶんと首を振った。
「だ、ダメだ、そんなの。オレだけアイツに会うなんて。会いたいのはオレだけじゃないんだ。リビエルやアロエリだって、オレにつきあって我慢してる。それにエニシア、オマエだって――」
「ううん。私は会おうと思ったら、夢で会うことができるもの。だから、」
「ダメだダメだっ！　絶対にそんなのダメだ！　アイツに会いに行くんなら……そう思ってるヤツが、みんな一緒じゃなきゃダメなんだ。自分だけいい思いをしようなんて、アイツは絶対に考えないはずだから――」
「リュームくん……」
しょんぼりとうなだれる姫に、リュームが困ったように声をかける。
「そんなにしょぼくれんなよ。オマエの気持ちで、オレ、心がすごく軽くなったんだ。ありがとうな？」
「ううん…そんなこと……」
慰められて、エニシアはますます悲しげにうなだれた。その時、人気のない廊下に、甲高い声が響いた。
「守・護・竜・さ・ま！？」
「げっ、リビエル！？」
天使は仁王立ちで、不機嫌オーラを全開にしている。散弾銃のような小言が続いた。
「げっ、じゃありませんわ！？　もうお時間はとっくに過ぎていますのに、守護竜さまが食堂にいらっしゃらないと、給仕の者が大慌てですわよ！」
「そ、そっか……悪ぃ、すぐ行く。ほら、オマエも行くぞ！」
「は、はい……っ」
「――まったく、」
これ以上の小言は勘弁してくれと言わんばかりに、リュームはエニシアの手を取って、強引に走り出した。二人の背中が小さくなる。長い廊下にひとり残されて、リビエルがぽつりとつぶやいた。
「……まったく、水くさいですわよ……本当に」
至竜とはいえ、リュームがまだ幼いことに変わりはない。午前7時。彼の予定をねじ曲げる妙案をひねり出すべく、天使は真剣に頭を悩ませた。