ずぶぬれの猫が、我の前に立っていた。
いや実際には我が、彼女の目の前に立っていた。
眉根をつり上げたまま、いぶかしげに猫は言った。
「ねえ、グランを知らない？」
「グランバルドか？いや知らぬが…」
その格好はどうした？
我がそう尋ねるのを見越した猫は、それを嫌うようにため息をついて、どこか恨めしそうに言った。
「ううん、知らないならいいの。邪魔したわね」
「ああ…」
不機嫌の絶頂といった顔で見つめられると、なにやらこちらの胃も痛む。これこれ店主よ。そんなに乱暴に歩いては、床が抜けるのではないね？ 軽口の一つも叩きたくなるというものだ。
「失礼ね！わたしそんなに重くないもの！！」
猫は頬をぷーと膨らませて、さっきより一層大きな音を響かせながら、我のもとを去った。
つまらぬが、仕方がない。我はそのまま目を閉じた。
足音が小さくなって、立ち止まる。何かを探すような一瞬の間があった。
「あ、アルバ。ちょうどいいところに…！」
そんな大声が響いた次の瞬間、猫はもう駆けだしていた。
足音はすぐに外へ向かって消えていった。
我は暗澹たる思いで天を仰いだ。
アルバの困惑が目に浮かぶ。せめてその濡れた服を替え…いや、泡だらけのその頭と顔を、ちょっと拭おうという気持ちにすら、そなたはならぬのか？
あまり細かいことを申したくはないが、そなたには娘としての何かが、大きく欠落しておる。
我はそう思うのだ。
ガタン…。
青い巨体が、扉の陰からおずおずと顔を出した。
彼はまるでおびえる兎のように我をじっと見つめた。
「ふぇあ、マダ、怒ッテル…？」
「ふむ。おぬしには、アレが怒っておらぬように見えたのかね？」
「ウウ…ッ。ぐらんヤッパリ、ダメダメ…役立タズ…」
さめざめと泣く巨大な兎を、我は何のきなしに慰めた。
「ああ、これ、グランバルドとやら。男がそのように軽々しく泣くものではないぞ」
「ダ、ダッテ…？」
「店主殿とて、なにも鬼ではない。おぬしが何をしでかしたかは知らぬが、誠意を持って謝罪すれば、きっと許してくれることだろうよ」
「ホントニ、ソウ思ウカ…？」
「うむ。あー……。店主殿はまこと、心根の優しい娘であるからな。そのことは拾われたおぬしが、一番よくわかっておるのではないのかね」
頷きながら我はすでに別事を考え、そして後悔していた。
己の失言の行方は、神のみぞ知る。
いや、この目の前の哀れな兎に、ついうっかりと委ねてしまった。
我もまだまだ修行が足りぬ――。
「ソウカ…！ウン、ぐらん、ふぇあがドンナニ優シイカ、チャントワカッテル…！ ぐらん、イマスグ、謝ッテクル…！！」
兎はそんなことを言いながら、意気揚々と我の部屋から出ていった。
終