SS.

昼下がりの回廊は、兵たちがみな出払っているせいか、しんと静まりかえっていた。奥の小部屋から賑やかな声がする。部屋はサザキたち日向族のたまり場にもなっていて、カリガネの新作料理発表会はそこで行われるのが常だった。

「あ、中から声が聞こえるね。もうだいぶ人が集まっているみたい」
「そのようですね……」

柊はちょっと考えた素振りをみせ、すぐに笑顔で続けた。

「では、我が君。私はこれで」
「え？　柊は行かないの？」

千尋はびっくりして尋ねた。

「ふふ、そのように驚かれるさまも、本当に愛らしい。あなたにお引き留めいただけるのは嬉しいのですが……。残念です」
「もう！　だからどうして、あなたはそういうふざけたことばかり――！」
「おや、困ったな。お怒りになりましたか」
「あなたが私を怒らせようとしている。そうとしか思えないよ？」

憤りにまかせて訴える少女に、柊は胸の痛みを覚えた。しかし誤解されて傷つく心などもうない。己の気持ちは当然のように無視して、彼はすまし顔で答えた。

「これは……しかたがありませんね。これ以上あなたのご不興を買う前に、退散したほうがよさそうだ。――それでは姫、失礼いたします。冷菓は思いのほかお身体を冷やすもの、ほどほどにされるのがよろしいかと」
「……柊！」

感情が高ぶった声に、男が何事もなかったように振り返る。

「どうされましたか、我が君」

柊の冷たい笑みが、千尋にはなぜか寂しげに映った。彼女はほんの一瞬ためらったあと、静かに彼を見つめて、こう切り出した

「――。ありがとう柊、ここまで送ってくれて。あなたは私のことを、心配してくれたんだよね？」
「姫……」
「私に何かあなたを手伝えることはある？　柊はまだここに来たばかりで大変だろうし――最近ここは人が増えたから、みんなと同じように本当は色々と忙しいのでしょう？」

柊は息を飲んで、少女の聡明さに深い敬意を示した。

「我が君、あなたは本当にお優しい。ですが、私にはそのお気遣いだけで。それだけであなたの道化は、今なら天にも昇れましょう」
「私は真面目に話をしてるんだよ。仲間なんだから、助け合うのは当たり前でしょう。それは……柊たちに比べたら、私にできることなんて、限られているかもしれないけど――」
「いいえ、それは違いますよ、姫」

困り果てた男は再び神子へと歩み寄った。ぶしつけに手を伸ばし、愛おしそうに少女の髪に触れる。彼は神子が厭うことを願ったが、しかし彼女は逃げなかった。千尋は驚くほど冷静な瞳で、柊に問うた。

「柊、なにが違うの？」
「我が君、あなたは――厳しいお方ですね。もう少し、私に優しくしてくださると嬉しいのですが」
「ごまかさないで」

柊はようやく観念すると、笑みを消し、真剣な面もちで語りだした。

「どうぞ姫、私の言葉をよくお聞きください。あなたのおっしゃるとおり、これからもあなたの周りには、たくさんの者が集ってまいります。そして、その者たちのために、姫がお心を砕かれるのは尊きことと存じます。ですが――」
「ですが……？」

夜闇色の瞳をじっと見つめて、千尋は辛抱強く言葉の続きを待った。

「ですが、従者が主に尽くすは当然のこと。そのことであなたが何かを気に病まれる必要はないのです。我が君、まずはそのことを、どうかそのお心に、お受け入れくださいませんか」

懇願するように柊は言った。その声の重さにただならぬものを感じて、千尋は困惑した。

「柊、あなた……。あなたは、さっきもそんなことを言っていたよね？　私の望みを叶えるのは、当たり前だって」
「そうです。我が君、あなたの望みを叶えてさしあげることは、従う者として当然のこと。そしてそれが、私のさだめにございます」

回廊に柊の声だけが響いていた。その不自然さには気付かずに、千尋はまっすぐに反論した。

「でも、私はそんな風には思えないよ。みんな仲間なんだもの、お互いに助け合って――」
「困りましたね。お受け入れいただけなければ……我が君、あなたの憂いは増すばかりですよ。私はあなたが苦しむ姿をみたくない。私の望みは、ただそれだけなのですが――」

最後はほとんどため息となって、柊の言葉は空にかき消えていった。と同時に千尋も言葉を失い、そのまま少女は呆然と立ちつくした。どこか悲しげな瞳をぼんやりと見あげながら、千尋はこれまで聞いたことがないような暗い柊の声を聞いた。

「姫。みなが自分にできること、自分の役目を果たさねばなりません。たとえあなたであっても、役目から逃れることはできない。それが、さだめにございます」
「そんなこと……」

千尋は柊の言葉の呪縛にかかっていた。今の彼女には、彼に反論できるだけの経験も自信もない。悔しげにうつむいた龍神の神子に、柊はいつものように柔らかく声をかけた。

「姫？　どうぞお顔をあげてください。私にだけ優しいお声をお聞かせくださるのは嬉しいが、宴ではみながあなたを待ちわびておりましょう」

その声を聞いたとたん、千尋の身体はふっと軽くなった気がした。視界が明るく開け、小部屋からは再び賑やかな声が聞こえてきた。まるでキツネにつままれた顔で見つめる姫に、軍師は妖艶に微笑んで、彼女をあるべき場所へ送り出した。

「さあ我が君、どうか」
「――わかった。じゃあ、私……行くね」
「ええ、それがよろしいでしょう。では、私もこれで。失礼いたします」

柊はまったくいつもの調子で、恭しく頭を下げた。

＊＊

深夜だというのに、書庫にはまだ灯りがともっていた。
柊が書棚に向かっていくつか竹簡を出し入れしている姿を認めて、千尋は声をかけた。

「柊、いまちょっといい？」
「おや、姫。まだ起きていらしたのですか」

昼間のことなどまるで何もなかったかのように柊は微笑んだ。すると千尋もそのように振る舞うしかない。

「うん、もう休むよ。明日は朝からみんなで出かける予定だものね」
「そうですね……。姫にはまた丸一日、ご足労をいただくことになるかと思います。ご辛抱いただけますか」
「大丈夫よ、今日は一日のんびりさせてもらえたし。それより……柊、あなたは一緒に来てくれる？　夕食の時にいなかったから、その、少し気になって。もしかしたら、忙しくて無理かもしれないと思って」

千尋は少し言いにくそうに切り出した。柊が感激して問い返す。

「我が君……嬉しいですね。この私を、わざわざお誘いに来てくださったのですか？　もちろん明日は、万難を排してご一緒させていただきます」
「え？　う、うん、ありがとう。でも、わざわざというか、ちょっと用事もあったんだ」
「おや、用事ですか？　――私に？」
「そうだよ。カリガネのお菓子を持ってきたの。あなたの分もわけてもらえたから……」

木の葉でくるんだ小さな包みをまじまじと見つめて、柊は一瞬ぼんやり物思いにふけった。遠慮がちな千尋の声が続く。

「ええとね、果物を甘く煮たものが入った水饅頭――で通じるのかな、甘くて柔らかいお菓子なんだけど……いらなかった？」
「――。いえ、ありがたく頂戴いたします。申し訳ありません、我が君のお心に感激のあまり、しばし言葉を失っておりました」

どこか考え込んだ様子で柊は言った。

「もう、相変わらず大げさなんだから。……でも、甘いものは疲れた頭にもいいんだよ。柊は書を読んでいることが多いから、きっとちょうど良いんじゃないかと思って。よかったら食べてね」
「ええ、そうさせていただきましょう。ところで我が君、つかぬ事をお伺いしますが、忍人にはもう渡されましたか？」
「え、うん。あれ？　でもどうして――？」

千尋は確かにここへ来る前、ちょうど堅庭で忍人に菓子を押しつけたばかりだった。柊は神子の問いには答えず、意味深に笑った。

「さようでございましたか。姫のお心遣い、葛城将軍もきっとお喜びになったことでしょう」
「そう……かな？　うん。まあ……受け取ってはくれたけど」
「ふふ、彼の無愛想にも、まったく困ったものですね」

まるで見てきたように柊は笑って、怪訝な顔をする姫に続けた。

「――さて姫。できれば私もあなたのお声にもっと耳を傾けていたいのですが、夜も更けてまいりました。明日に備え、もうお休みくださいますね」

柊に促され、千尋はやんわりと出口へ送り出されてしまった。柔らかい口調の中に彼の断固とした意志を感じたが、千尋は思いきって食い下がった。

「――ねえ、柊？」
「なんでしょうか、姫」
「私、もっとしっかりするね。姫としての役目がきちんと果たせるように。……がんばるから」

真摯なまなざしを感じて、柊は内心身をひるませた。少女の凛とした佇まいが、薄暗い書庫を照らしている。

「さすがは我が君。あなたはご自分にも厳しい方なのですね。お志、心から敬服いたします。――ですが恐れながら、あなたはもう十分ご立派に役目を果たしておいでだ。龍神の神子に用意されているのは、いずれも光の道。あなたは決して無理をなさる必要はないのです」
「ううん、まだまだだよ」
「姫……。私の言葉をお疑いですか？」
「そうじゃないよ、柊。でも、あなたがいつも言葉を飾るのは、私を傷つけないためでしょう？」

千尋はそう言って、明るく微笑んだ。柊が驚いた顔をしてみせると、少女は慌てて続けた。

「あ、別に責めているわけじゃないの。そもそも柊だけじゃないよ、私が子どもだから、みんなが私に気をつかって、うまくいくように陰で色々とがんばってくれている。だからこそ私は、誰も私のために貧乏くじを引かなくて済むようにしたいんだ。あなたにも――あなたが昼間のようにわざわざ憎まれ役を買ってでなくてもいいように、がんばるね」

気負いもてらいもない言葉で、千尋は自分の本心を口にした。
しかし伝承の姫がまっすぐな願いを抱けば抱くほど、彼女の軍師はその健気な心を痛ましく思い、暗澹とした気持ちになっていく。柊は悲痛な気持ちをまるで他人事のように心の外へ追いやって、神子に軽く笑みを返した。

「我が君、あなたは眩しい方ですね」
「……もう。またそういうこと言って」
「ふふ、本当のことです。あなたの御為に神籤（みくじ）を引く必要があるとき、その役目を厭う者がいるとは、私には思えない」
「柊……」

千尋は柊と語れば語るほど、互いに相容れない溝を感じた。しかし溝を埋めようにも、その方法がわからない。柊の酷薄な笑みが、いまは彼女の目に驚くほど寂しげに映っていた。千尋はなんとなく柊にかける言葉を失い、彼はそんな神子の気持ちを知っているのか、まるで幼子に物語を読み聞かせるように、優しく続けた。

「そのように悲しい顔をなさらないでください、我が君。あなたが望もうと望むまいと、私はどのような籤からも、龍神の神子の勝利を引き当ててご覧にいれましょう。恐れながら私は、姫の軍師にございますれば。――さあ、本当にもうお休みくださいますね？」

悲しい顔をしているのは、柊のほうだよ。扉を開けて、いよいよ自分を外へ追い出そうとする男に、千尋はついにそう言い出せなかった。

「邪魔をしてごめんなさい。よかったらお菓子、食べてね」
「ええ。姫、あなたの優しいお顔を思い出しながらいただきます」

柊は思いをかみしめるように言った。
自室へ向かって歩き出した千尋がうしろを振り返ると、柊はまだ入口に立っていた。姫はもっと彼に言うべきことがあるのではないかと思いめぐらしたが、結局それは見つけられなかった。

「柊――。あなたもできれば、早めに休んで」
「お気遣い感謝いたします。我が君、どうぞよい夢を」
「ええ、おやすみなさい」

そう言うと、なんとなく不満げに姫は走り去った。軍師はその背が見えなくなるまで見送っていた。

＊＊

柊は古びた書簡をひとつ取りだし、掠れかけた文字に、愛おしそうに指を走らせた。

伝承は決して変わらない。変わるとしても、些末なことだけ。
姫が軍師に、軍師が姫に寄せる思いが、たとえ夢のように儚いものであっても、気の遠くなるような長い巡りのほんの瞬きに過ぎないと知っていても、けれど人はその夢を愛しく思うことを止めない。
親しい者たちとの別れを惜しみ、恋しい人と離れたくないと泣き、運命に抗おうとあがき苦しむ。

「しかしその苦しみすら、アカシャに定められしこと――」

柊は自嘲するように呟いた。
根を詰めすぎて、ろくに焦点を結ばなくなった視覚を回復しようと、目を閉じてこめかみに指をあてる。彼の瞳には星の記憶が映る。彼にとって夜は決して静寂ではない。星は己の知る過去と未来を、その存在の証しとして全霊をもって主張する。識者はそれを、たった一人で受け入れる。全ては龍神の神子のために。

「これは……。さすがにそろそろ休まなければなりませんね」

柊は回復をあきらめて、手近な書棚にもたれかかった。
残酷な神意が常に姫に注がれていることを、軍師は忘れることがない。自分のために他人に貧乏くじを引かせたくないと言った少女その人こそが、繰り返し神に選ばれる生け贄であることを。

星たちのささやきに耳を傾け、神子の未来に思いを馳せながら、卜者はつかのまの眠りにおちた。

（我が君、どうぞ、あなたの夢に忍んでいくお許しを――…）
姫の憂いをひとつ残らず取り除くことこそ、軍師のさだめなればこそ。

終