「――朝早くから何を騒いでいるかと思えば。こんなところで、何をしている！？」
不機嫌MAXの忍人の声が響き渡った。厨房の中はまだ薄暗く、朝食の準備を担当する者たちもまだいない。それほど早朝だ。
「ああ、忍人ですか。遅いですよ、すぐにそこの粉をこちらへ運んでください」
「悪いね、忍人。ちょっと手が足りなかったんだ、本当に助かるよ」
当然のように人を顎で使おうとする柊に続いて、風早がのほほんと笑った。
「待て、お前たち。これはいったいどういうわけか説明が先だろう。いや、そもそも俺は手伝うなどとは一言も――。！？」
（…………これをつけろ。粉が飛ぶ）
ぼんやりと気配を浮かび上がらせ、遠夜が無表情に紐のついた布きれを差し出していた。反射的に受け取ってしまったエプロンの用途がわからず、途方に暮れながら忍人は言った。
「遠夜……。お前も、いたのか――」
「ああ、遠夜も手伝ってくれてるんだよ。料理は初めてみたいだけど、さすがに器用だね。助かっているよ」
（――神子は、きっと喜ぶ。だから……）
風早が取りなすと、遠夜はほんのり微笑んだ。柊の得意げな声が続く。
「忍人。その布は、えぷろんと言って、胴に巻き付けて使います。未熟者が作業で汚れがつくのを避けるために用いるものだそうですよ。私には必要ありませんが、君は不器用ですからね」
「はは、未熟者というより、誰でも普通に使うんだけどね。意外と重宝だよ」
「……そんなことはどうでもいい。俺は『ここで何をしている』と聞いているのだが」
忍人はエプロンを遠夜に突っ返すと、不快感を露わに言った。柊が小馬鹿にしたように笑う。
「おや、見てわかりませんか？」
「――わかりたくもないな。それにここは、じきに兵たちの朝食の準備で使われるはずだが」
「ああ、その心配ならいりません。カリガネに事情を話して、使用許可を取ってあるからね」
「その通りです。――しかし彼らの邪魔にならないためには、もう少し作業を急がなくてはなりませんね。忍人、わかったらぐずぐずせずに、粉をこちらへ運んでください。三度は言いませんよ」
「悪いね、忍人。なんせ本当に手が足りなくて、頼みます」
横暴で一方的な同門に、忍人は絶句した。見ると遠夜は厨房の奥で、神速のたまご割りを披露している。将軍は心底うんざりした様子で、それでも言われた通り粉袋に手をかけた。柊と風早は、ぐらぐらと煮え立つ鍋の上に、幾重にも蒸籠を重ねている。
「風早、これは姫の命なのか？」
忍人の言に風早は苦笑した。
「はは、まさか。ただ少し事情があってね。今日は特別に、朝食後に菓子を振る舞うことにしたんだ」
「兵の皆にか？ ――初耳だな」
「ああ、ごめん。柊と二人で今朝、急に決めてしまったんだ。他にこのことを知っているのは、ここにいる俺たちの他は、厨房を取り仕切るカリガネぐらいで……」
「――何があった？」
風早が急に声をひそめたことに気付いて、忍人の表情がおのずと険しくなった。柊がぼんやりと宙へ視線を泳がせ、辺りに人の気配が無いことを確認すると、つまらなさそうに口を開いた。
「簡単に言えば、あぶり出しです」
「あぶり出し？ それは、どういう――」
忍人は尋ねながら、指示されるまま几帳面にクレープ用の粉をふるい始めた。その丁寧すぎる仕事ぶりを見て、風早が軽く口を挟む。
「ああ、忍人。そんなに丹念にする必要はないよ。だまがないように、ざっとでいいから」
「ざっと、などと曖昧に言われても困るが。――それよりお前達、俺に説明する気はないのか？ それならば、それはそれで構わないが」
手を粉だらけにして、忍人はむっつりと押し黙った。
「急いては事をし損じますよ、忍人。どうやらこの船の中には、姫のお命を狙う意志を持った者がいるようです。悲しいことですが」
まるで世間話でもするように軍師は言った。忍人は愕然として、しかしすぐに冷静を取り戻し、もう一人の同門に視線を向けた。
「どういうことだ……？ それは本当なのか、風早」
「私を信用しないのは結構ですが、もともとは風早からの情報ですよ。先日、百合の花が見事な山裾で休憩を取ったことを覚えていますか。そこで姫に水を運んできた者があったのですが」
「ああ、姫のかわりにお前が器を受け取り、地面へ落としたと聞いていたが――……」
将軍は記憶を思いめぐらし、やがて厳しい顔で言葉を切った。軍師が口の端を上げて笑う。
「ええ、その時のことです。割れた器を処分する際、風早がその破片にわずかな毒が付着していたことに気付きました」
「――気付いてすぐに、何故その者を処断しなかった？」
「わかりませんか？ 彼が毒を仕込んだわけではないからですよ、忍人」
真剣さのあまり語気が荒くなる忍人に、柊は挑発的に続けた。
「彼は器を取り落としたあと、姫の前で失態を犯したことに呆然として、しばらくその場で放心状態でしたからね。もし彼が犯人であれば、慌てて割れた器を拾って証拠を隠すか、そのまま何もかも放り投げて逃げるかのどちらかでなければおかしいでしょう」
「――気の毒な話だな。その者に『失態』を犯させたのは、お前だろう」
「おや。おかしな言いがかりは困りますね」
「まあまあ二人とも、時間もあまりありませんから、ケンカは止めてください。それに忍人はあの時その場にはいなかったからね、知らなくても無理はない。あまり大事にするのもどうかと思って、黙っていたんだ。ごめん」
申し訳なさそうな風早に呆れつつ、忍人は率直に疑問を発した。
「まさかとは思うが、姫にも話していないのか？」
「ええ。このことを知っているのは、ここにいる俺たちだけです」
その言葉を聞いて、忍人は不意に遠夜に目を向けた。彼はこちらの会話にはまるで興味がなさそうに、大鍋のたまごを丹念にかき混ぜている。柊が補足して言う。
「遠夜には、つい先ほど話しました。彼にも今日の作戦に参加していただきますから」
「――なるほどな、話はわかった。それでそのあぶり出しとやらは、どういう手順で進める気……」
「ああ、忍人。粉をふるい終えたね、次はここに卵液をいれるから、かき混ぜてくれるかな。はい、これを持って――」
「あ、ああ……わかった」
風早にのほほんと話の腰を折られ、忍人は大きな杓子を持たされた。粉の入った大鍋に薄甘い卵液が投入される。忍人は不器用に端から粉を崩しながら、鍋の中をぐるぐるとかき混ぜていった。固くべたつく生地に四苦八苦する彼を尻目に、手ぶらの柊が首を傾げる。
「風早。この生地はいつ鉄板で焼くのですか？」
（……まだだ。これはまだ、よく混ざっていない……）
大鍋を押さえる係の遠夜が、ふるふると首を振った。風早が「うん」と頷いて続けた。
「焼くのはもう少しあとですね。ああ忍人もそんなにムキにならないで、いまのところは卵と粉がだいたい混ざればいい。このあと水や牛乳を入れて、生地を薄めていくからね」
「――風早。そういったことはもっと先に言え」
べたべたの生地に難儀する忍人が、思わずむっとして言った。柊がまるで鬼の首を取ったように笑う。
「おや、だらしがないですね。天下の葛城将軍ともあろう方が、このような菓子づくりで弱言を吐くとは」
「そういうお前は、いったいさっきから何をしている？ ぼんやり人の作業を見ているだけの者に、非難される筋合いなどない」
「嫌ですねえ、私はさきほどから、ずっとぷりんの様子を見ているのですよ。忍人よりは、よほど役に立っています」
柊はまるっきり棒立ちで、しかし偉そうに言った。彼は先ほど「蒸しものの途中で蒸籠の蓋を開けてはいけない」と風早に教わり、プリンの蒸し加減を大気の流れを読むことで計ろうとしていた。実際の所は忍人の言うとおり、ただ見ているだけなのだが。遠夜が聞こえない声で、風早に語りかけた。
（…………まだか？）
「あ、そうだね。じゃあ、そろそろ鍋に牛乳を入れようか。忍人、少しずつ注ぎますから、ダマにならないように、よーくかきまぜてくださいね」
「……「よく」とはやけに曖昧だな。もうすこし確かな指示があると良いのだが」
忍人が恨みがましくつぶやいた。
「大丈夫、そんなに難しいことじゃないから。気楽にいこう、忍人」
「無理を言うな。俺は――君と違ってこういった作業には向いていない」
「はは、料理に向き不向きはないよ」
そう言って風早が鍋に牛乳を注ぎ始める。忍人がぎこちなく杓子をふるう姿を、柊と遠夜はどこか微笑ましそうに眺めていた。