この日は朝から小雨が振っていた。
なんとなくけだるい気分で目覚めた千尋は、いつもは入口に控えている風早の姿がないことに疑問を感じつつ、とりあえず自室を出て、食堂へ向かった。途中、那岐の後姿を認めて声をかける。
「おはよう、那岐！」
「ああ、千尋か。おはよう」
眠そうに挨拶を返して、やがて那岐は怪訝な顔で続けた。
「――どうしたのさ、いったい」
「どうって、なんのこと？」
「なんでもないって言うには、ずいぶん酷い顔をしてるからさ。夜更かしでもした？」
いつもどおりのポーカーフェイスで、しかし声にわずかな心配を滲ませた少年に、少女は心外そうに言った。
「きちんと寝たよ！ ――でも、そんなに酷いかな。なんだかちょっと夢見が悪くて」
「夢見？ 千尋がそんな繊細なことを言い出すなんてね、そんなに最悪の夢だった？」
「うーん。最悪っていうか……」
千尋は困ったように首を傾げて、今朝の夢をぼんやりと思い出した。細かいところはよく覚えていないが、どうしようもなくくだらないことで、柊と風早が言い争いをしていたような気がする。
「ねえ、那岐。夢には願望が表れるってよく言うけど、それって本当なのかな」
「なに、突然。まさかお菓子の家に埋もれる夢でも見た、とか言うんじゃないだろうね」
「もう、そんなんじゃないよ！」
ふくれっ面で押し黙った千尋に、那岐はやれやれと口を開いた。
「ま、どんな夢かは知らないけど、そんな風に気にするだけ無駄だと思うけど？ ……ここには怪しげな連中もたくさんいるし」
「――え？」
那岐はなんとなく不快な視線を感じて、しかしそのことを誰にも気取られぬようように、千尋に笑顔を作って見せた。
「だいたい考えてもみなよ、今ここで暮らす毎日のほうが、向こうでのんきに学生をしていた頃よりも、よっぽどたちの悪い夢みたいじゃないか。いくら酷い夢でも、夢ならばいつか覚めるんだ、だったら何も問題ないだろ」
皮肉めいた笑みを浮かべる那岐の顔を、千尋はまじまじと見つめた。彼が自分を慰めようとしてくれていることに気付いた。
「確かに、それもそうかも。……うん、あんまり深く考えないようにするよ。那岐の言うとおり、夢は夢だものね」
「ああ。そうしてくれると僕も助かる」
「――うん？ どうして那岐が助かるの？」
「早起きするだけでもだるいっていうのに、朝っぱらから辛気くさい顔を見せられたら、ますます気が滅入るだろ？ どうせ千尋はちょっと難しい事を考えると沸騰するんだ。それよりは、ずっと脳天気に笑っていられるほうがマシだからね」
那岐の遠慮のない物言いに、千尋は思わず手を振り上げる。
「もう、酷いよ！ そんな言い方ってないでしょ！？」
「あはは、じゃあこの話はもう終わりにする？ 食堂からいい匂いがするし、僕もお腹が空いてきた」
「待ってよ那岐、そんなんじゃ誤魔化されないから！」
長いコンパスで先を急ぐ少年を、少女はムキになって追いかけた。
「姫、おはようございます。今朝はあいにくの雨ですね」
「おはよう布都彦。出かけるまでには、雨、止んでくれるといいね」
食堂の入口で、布都彦が折り目正しく声をかけてきた。開放的な回廊の隙間から、ぶ厚い雲がのぞいている。少年は申し訳なさそうに言った。
「ええ、左様でございますね。ですが姫、この空模様では、おそらく今日は一日、雨が続くだろうと思います」
「そうなんだ。じゃあ出かける時は、布を一枚多めに持ったほうがいいかな。でも布都彦の天気予報は、本当によく当たるよね。いつも助かってるよ」
「い、いえ、姫。このようなこと、この国に長く暮らす者であれば、誰にでもわかることです」
思いも寄らぬ事で誉められて、布都彦がしきりに恐縮する。
「それにきっと風早殿なら、もっと先の天気まで見通しておられるかと――。ところで姫、今朝は風早殿はご一緒ではないのですか？」
「あ、うん、そうなの。実は姿が見あたらなくて……」
「お、姫さん。なんだ、風早を探してるのか？」
サザキの陽気な声が響いた。彼は千尋の姿を認めて席を立つと、食事に集まった兵士たちをかきわけてやってきた。
「おはよう、サザキ。サザキは風早の居場所を知っているの？」
「ああ、いや知ってるというか、今朝はやく顔を見かけたんだ。ただもう時間が時間だ、てっきり姫さんと一緒にいるとばかり思ってたが――違うってんならたぶんまだ、厨房にいるんじゃねえか？」
「――厨房！？」
千尋と那岐と布都彦が綺麗に声を揃えた。
「なんだ、あいつら姫さんたちに何も言ってなかったのか。オレはまたてっきり――」
サザキは意外そうに目を見開いて、どこか気まずそうに言葉を濁した。那岐が剣呑に尋ねる。
「……あいつら？ おいサザキ。知ってるなら、変にもったいぶるなよ」
「そういう言い方は止せ、那岐。風早殿にも、何かこみいった事情がおありかもしれない」
「事情？ だいたいあいつが――」
姫つき従者が、朝の迎えを放りだしてまで優先させなきゃいけない事情って何？ と那岐は言いかけて、やがて難しげな顔で口をつぐんだ。千尋の訝しげな声が響く。
「どうしたの、那岐。怖い顔してるよ」
「――何でもないよ」
「でも……」
「うるさいな。何でもないと言ったら、何でもないよ。だいたい千尋は気にしすぎなんだ」
「なっ……」
納得できない様子で那岐を見つめる千尋を尻目に、布都彦は声をひそめ、生真面目に言った。
「もしやサザキ殿、姫のお食事に何か問題でも、あったのでしょうか？」
「――。私の食事に？」
心底驚いた様子で千尋が顔を上げた。布都彦が思い詰めた調子で続ける。
「ええ、姫はこの国にとって最後の希望、なにものにも代え難い、尊いお方であらせられます。ですがこのところこの船には、多くの者が自由に出入りしている。中には素性の知れぬ、不届きな考えを持つ輩がおるやも……いえ！ この布都彦、ここに集う全ての者が国を思い、姫をお慕いしていることに間違いはないと、信じておりますが――！」
「おっ……おいおい！ ちょっと待て布都彦。何だかよくわからんが、お前それ、絶対に話が飛躍しすぎてるぞ！？」
純真な少年のぶっそうな推察を、大慌てでサザキが否定する。その様子を見てやや安心したように那岐が口を挟む。
「違うっていうならさ、さっさと話せよ」
「う、あ、ああ。だがなあ……」
「サザキ、お願い。私に秘密にしてくれと風早に頼まれたなら、無理は言えないのだけど」
「いや、姫さん、それも違うって！ まいったなこりゃ、野暮なことになっちまったぜ……」
しょんぼりとうなだれる千尋に気付いて、サザキは困り果てた表情で言った。
「――いいかげんに、入口を塞ぐのは止めてもらえないか」
背後から呆れ声が響いた。千尋が振り返ると、腕組みした忍人が苦虫を噛みつぶしたような顔で立ちつくしている。
「あっ。ご、ごめんなさい、忍人さん」
「謝罪はいい。だが、ここは皆が食事を取るところだ。姫とはいえ、ただ雑談がしたければ、それにふさわしい場所へ行くべきだ」
「は、はい。ごめんなさい」
「お待ちください、葛城将軍。お言葉ですが、姫にはなんの罪もございません。全ては私がいたらず、このようなところでお引き留めしてしまったことが原因。ですからお叱りは、どうぞこの布都彦へおっしゃってください」
断固として言う少年に、将軍がやや呆れ気味に答える。
「誰が悪い、という問題ではないのだが。しかし俺も少し強く言いすぎたかもしれない。それは謝罪しよう」
「い、いえ、そんな――」
慌てて首をふる千尋の横を、忍人は無表情に通り過ぎた。サザキがからかうように声をかける。
「おい忍人。しかしあんたにしちゃあ、めずらしくお出ましが遅いじゃねえか？ さてはあいつらに良いように使われ――」
「二ノ姫。風早ならじきにこちらへ来るだろう。君は余計な心配をせず、食事を始めているといい」
忍人はサザキの言葉を遮って、姫に一瞥をくれて言った。
「え、……え！？ 忍人さんは、風早に何があったか知っているんですか？」
「ああ、朝早くから叩き起こされたからな。まったく非常識にも程がある」
「叩き起こされた……？」
「何があったかは、後で本人達から聞くといい。では、俺はこれで。失礼する」
忍人はそう言って、最後まで無愛想なまま立ち去った。