千尋は天鳥船の厨房に立っていた。
「よし、今日はお菓子を作ろう！」
お気に入りのエプロンを身につけ、きりりと腕組みして気分を盛り上げていると、不意に声をかけられた。
「……素晴らしい。我が君は料理もなさるのですね。そのお姿もいつにも増して可憐だ」
「柊！？ どうしてここに？」
「姫のあるところに軍師あり、です。よろしければお手伝いさせていただきます」
彼にしてはさわやかな笑みを浮かべ、柊は断言した。よくわからない気合いを感じる。とても断れる雰囲気ではない。千尋は曖昧に答えた。
「――うーん、まあいいか。それじゃあ、手伝ってもらおうかな」
「ふふ、相変わらずつれない方ですね。どうぞご遠慮なく、なんなりとお申し付けを。私は必ずお役に立ちましょう」
無駄口を続ける軍師を適当に流して、千尋は準備をはじめていた。ビニールの袋に入った小麦粉に、瓶入りの牛乳、果物の缶詰にチョコレートチップ、ボウルに泡立て器、ゴムべらはもちろん、とどめに電気オーブンまで揃っている。さすがに少女は首を傾げた。
「何か――変よね……？」
「ところで我が君、何をお作りいただけるのですか？」
「え？ ああ――」
軍師の声に思考を中断させられた千尋は、目の前に広がる食材を眺めながら続けた。
「そうだね、今日は柊がいるし、クレープにでもしようかな」
「くれーぷ、ですか。そのくれーぷと私がどのように関係するのか興味がありますね。教えていただけないでしょうか」
「関係もなにも、作るのが簡単だからだよ」
「それはどういう意味ですか、とおたずねするのは止めにしておきます。あまり喜ばしい理由ではなさそうですから」
柊はがっかり顔でかぶりを振った。千尋はボウルを手元に引き寄せ、パック入りのたまごをバリバリと開封した。軍師にひとつ手渡してやると、彼はそれを不思議そうな顔で受け取った。
「ぼんやりしていないで、そのたまごをお椀に割ってくれる、柊」
「御意――」
柊はしおらしく言うと、すぐになにやら呪文を唱えはじめた。彼の手からたまごが縦に浮き上がる。
「な、何してるの柊！？」
「……？ 割れとお命じになったのは、我が君ではありませんか」
うす黄緑色の怪しげな光に包まれて、たまごは柊の胸元でふわふわと頼りなげに浮遊している。困惑する主に彼は得意げに笑い、仰々しく言った。
「これからたまごを割ってご覧にいれます。どうぞ目をお離しくださいませんよう。――はっ！」
術の発動と同時に、たまごには真横へ綺麗な筋目が入った。上蓋が持ち上がり、じきに流れ落ちる中身を器用に椀で受け止めて、軍師は「いかがですか」と言わんばかりに姫を見つめた。脱力した声が厨房に響く。
「――柊。中つ国では、みなそんな風にたまごを割るの？」
「おや、お楽しみいただけませんでしたか？」
「別に楽しみを求めた覚えはないのだけれど……」
千尋が頭を抱えると、再び背後から声がした。
「ははは。千尋、大変そうですね。よかったら俺も手伝いましょう」
「――風早！？ 風早もどうしてここに？」
「ええ、少し心配で」
風早は優しげに笑ってみせると、ちょっと柊に向き直って眉をひそめた。
「それであなたは『ここ』で何をしているんですか、柊」
「君に咎められる理由はどこにもありませんよ。姫のお許しはいただいております。ねえ、我が君？」
「――お許しっていうか、柊にはクレープづくりを手伝ってもらっているんだよ」
なんとなくモヤモヤした気持ちで、千尋は言った。ここは確かに天鳥船の厨房だ。目の前には薪を入れて焚く炊事場と、切り出した石を積み上げただけの素朴な調理台が広がっている。しかしそれだけに、台の上の現代食材や細々とした小物は、これ以上ないほど強烈な違和感を醸し出していた。前触れもなく現れた柊と風早の存在も、唐突すぎるせいだろうか、なぜだか妙に落ち着かない。千尋は誰にともなくつぶやいた。
「やっぱり……おかしいよね」
「クレープなら俺にも手伝えますね。千尋、たまごをもう一つ二つ割りましょうか？」
「――あ、うん。お願いね、風早」
再び思考を中断させられた千尋は、そう言って頷いた。片手で器用にたまごを割る風早に、柊が勝ち誇った笑みを浮かべて言う。
「ふふ、無難すぎてつまりませんね。我が君、どうぞ私にもいま一度、たまご割りをお命じください」
「でも、妙な術を使うより、このほうが早いですよ」
「――困りましたね。君は相変わらず、姫との時間を最大限に楽しむ意欲に欠けているようだ。主に退屈を感じさせるなど、臣下として失格でしょう」
「はは、俺が楽しむことではなく、姫に快適に過ごしてもらうことのほうが重要ですから」
男たちはやんわりと己の主張を戦わせ、競ってたまごを割りを始めた。なにげにムキになっている二人に呆れた千尋が口を挟もうとしたその時、耳障りな音が鳴り響いた。
「いま何か変な音がしなかった？ 外かな――」
少女が慌てて周囲を見回す間に、軍師と従者は無表情に視線を交わし、しかしすぐにその表情を笑顔に引き戻した。風早が穏やかな声を響かせる。
「……いえ。俺には音は聞こえませんでしたが」
「そうなの……？」
「千尋。その音は、まだ聞こえますか？」
どことなく怯えた様子で、千尋は首を振った。柊が神妙な顔で申し出た。
「なにか気がかりな事でもおありですか。でしたら私が外へ様子を見て参りましょう」
「え？ 柊、ちょっと待っ――。……行っちゃった」
軍師は姫の返事を待たず、さっさと入口から出ていってしまった。途方に暮れて千尋が風早を見あげると、彼は「心配いりませんよ」とのんきに笑っている。その数分の後、軍師は厨房へ戻ってきた。
「お待たせしました、我が君」
「柊！」
「ふふ。わざわざお出迎えいただけるとは光栄ですね。そんなにこの私がご心配でしたか？」
喜色満面で柊は言った。
「ち、違うよ！？ そんなんじゃないから！」
「姫……。否定されるにしても、できればもう少し躊躇していただけないでしょうか。あまりの仕打ちに心が打ちひしがれてしまいます」
「――っ。知らない。柊はすぐそういうことを言って、からかってばかりなんだもの！」
ふくれっ面で姫はそっぽを向いた。風早が苦笑混じりに尋ねる。
「それで外の様子はどうでしたか、柊」
「そうですね。私が見たところ、特に目立った異常はありませんでしたが」
「……本当？」
千尋が振り返って首を傾げる。
「ええ、我が君。それでもあえてご報告申しあげることがあるとしたら、逃げていくネズミを一匹見たぐらいでしょうか」
「ネズミ！？」
千尋はショックを隠さずに叫んだ。風早が澄まし顔で口を開く。
「うーん。食べ物を扱う場所につきものとは言え、参りましたね。ここも決して不衛生にしているわけではなさそうなんですが。兵糧を食い荒らされても困りますし」
「それに確かネズミは病原菌を持っていて、それを媒介したりもするんだったよね」
「はい、正解です。千尋、よく覚えていましたね」
風早は教師口調で千尋を誉めると、考え込むように続けた。
「退治するのは可哀想ですけど、このまま放ってはおけないでしょうね」
「我が君。よろしければこの件は、私にお任せいただけますか。根絶は難しいかもしれないが、厨房の管理を任されているカリガネらと協力して、対策にあたりたいと思いますので」
「柊、何か良い案があるの？」
「ええ、お任せください」
「うん、それじゃあ……悪いけどお願いね。でも私にも何かできることがあれば言ってね？」
「御意――」
柊は至福の表情で答えた。
「では千尋。そうと決まったら、そろそろクレープづくりに戻りましょうか」
「うん、そうだね。――って、ええ！？ 二人ともいつの間に、こんなにたまごを割ってしまったの！？」
大きなボウルに山と割入れられたたまごを見て、千尋が悲鳴を上げた。犯人である柊と風早が曖昧に笑う。姫は目をつり上げて言った。
「いったいどうするつもり？ それでクレープの生地を作ったら、きっと100枚分以上出来てしまうよ！」
「そうなのですか？ でしたら姫、くれーぷは皆に振る舞われるのがよろしいでしょう。姫の手製となれば皆喜んで、あっという間になくなりましょうから。何も問題はありませんね」
「――あのね。私はそういうことを言ってるんじゃないの、柊」
クレープを一枚焼くのに2分かかるとして、100枚で200分。しかし三人で焼けば、ひとり1時間ほど焼き続ければ終わる計算だ。あれ？ じゃあそれ程大変でもないかな。などと千尋が軍師を叱りながら考えていると、従者が他人事のようにおっとりと口を開いた。
「いや、これはもしかすると、200枚ぐらいは焼けるかもしれませんね。さすがに大変ですし、一部はプリンにするのもいいんじゃないでしょうか」
「……うーん、プリンか。そうだね……それもいいかも……？」
姫の気力ゲージは既に半分以下に減少していた。無神経に軍師が尋ねる。
「ぷりん、とはなんですか、我が君」
「簡単に言うと、たまごで作った甘い蒸しものですよ」
軍師の問いにすかさず従者が答えた。柊が迷惑そうに口を尖らせる。
「私は姫におうかがいしたのですが」
「誰が答えても同じだと思いますよ、柊」
「おや？ 君は意外に子どもじみたことを言いますね。無駄な対抗意識ほど見苦しいものはありません、止めていただけませんか」
「あなたこそ穿ちすぎじゃありませんか。俺は別にそんな――」
「――二人とも、いい加減にして！？」
いつの間にか仁王立ちの千尋が、青筋を立てて叫んだ。
「……いきなりどうしました、千尋？」
「お呼びですか、我が君」
きょとんとした顔で、いい歳した男二人が同時に振り返る。堪忍袋の緒が切れた千尋は、彼らに向かってばかに優しく口を開いた。
「なんだか二人はとっても仲が良いみたいだから、後は任せても大丈夫だよね。クレープもプリンも」
「え、千尋――」
「姫、それは、」
「出来上がりを楽しみにしているからね！」
有無を言わせない笑顔を残して、千尋は厨房から消えた。文字通りこの空間から跡形もなく、まるで霧のように消えてしまった。軍師の寒々とした声が響く。
「――ああ、我が君にご不興を買ってしまいました。それもこれもみな風早、君のせいですよ」
「大人げないことを言わないでください。だいたいあなたに任せておいたら、いつ千尋がおやつを食べられるかわからないでしょう。ですから俺は――」
「おやおや、少しばかり料理ができるからといって、威張らないでいただきたいものですね。私は自ら料理を楽しまれようとする、姫の尊いご意志を尊重していたに過ぎません」
「……そうでしたか？」
千尋という核を失ったことで、この怪しげな厨房そのものが存在の意味を無くし、夢に消え始めていた。場の形成維持に力を貸していた従者と軍師は、崩れていく世界からあっさり手を引いて、しかしお互いまだ何か言い足りなさそうにしながら、相手の意識が夜に霧散していくさまを見送った。完全に意識を手放す間際、風早が口を開いた。
「――柊、ネズミ退治は俺も手伝いますよ」
「言われずとも、君は勘定にはいっています。我が君との逢瀬を邪魔しに来たのは、それが理由なのだろうと思っていましたから」
皮肉めいた柊の声が漆黒の闇に響いた。