SS.

天鳥船の下層へ続く階段はいくつかあるが、その中でも一番細く目立たぬ道を柊は好んだ。

「柊。もう下は暗い、明日にしたほうが――」
入口で自分を無視して行こうとする青年を、風早が呼び止めた。
「おや、来ていたんですか」
「とぼけないでください。三層目なら、ひとりでは危険かもしれないよ。夕方に道臣が行って、同行していた忍人が妙な雨音を聞いたらしい」
兵たちの騒ぎに何事かと駆けつけて、風早は道臣から視察時のなりゆきを聞いていた。
「雨音……ですか。なるほど」
まだ見ぬ小さき水の化身を適当に想像し、柊はつぶやいた。
「そして、その後に千尋が落ちてきたそうだ。忍人が受け止めて、怪我はなかったという話だけど、姫はだいぶ混乱していたと」
柊の考え事になんとなく心当たりをつけながら、風早はかいつまんで説明した。

「姫の部屋の結界は、外から働きかけてくる『害意』に反応します。我が君が自らの意志で出て行かれるぶんには、まったく用をなしませんからね。もし、彼女が何かに誘われたのだとしても。――では」
「俺も同行しようか？」
立ち去ろうとする柊に、風早は率直に申し出た。

「君はそろそろ姫を迎えに行く時間でしょう。それにおそらく"彼"は、土の気をはらむ忍人に反応したのだと思います。これは想像ですが、ここ最近騒がしいと思っていたところに、己の力を削ぐことができる者が、突然姿を現したら――推して知るべしですね。忍人は優男ですが、彼らは"本質しか見ません"から」
「わかった。でも、十分気をつけて」
自分が支障になる可能性を察して、風早は引き下がった。
「遠夜に仲介を頼みました。彼はもう先に出たようですが」
「ああ。ならば安心だね」
言葉とは裏腹に、風早の表情は硬かった。他人の助けを必要とするほどの難物とも受け取れる。
「他言無用です」
柊は踵を返して暗い道を下りていった。
「気をつけて」
風早はもう一度背中に声をかけると、すぐに姫のもとへ駆け戻っていった。

「……承知していますよ。我が君は余計な争いを好まぬ方。しかしあの場所は我々が使わせていただく必要があります。なるべく穏便にすませるつもりです」
友人の声に感謝して、柊はつぶやいた。

＊＊
勉強会の刻限がやってきた。姫の部屋には風早と忍人が揃っていた。

「遅いな」
「うーん。そろそろ時間だね」
五分前行動を律儀に守った忍人に、風早はのほほんと答えた。千尋は緊張の面もちで、机の上の教材に目を落としている。

「申し訳ございません！　遅くなりました」
少年の元気な声が響いた。
「遅いぞ、布都彦」
「大丈夫、時間ぴったりだよ。――あれ、道臣も一緒ですか？」
布都彦の後から遠慮がちに顔を見せた道臣に、風早は声をかけた。

「ええ。ご迷惑とは思いましたが、先ほど途中で失礼をしてしまったので、姫のご様子が気になりまして。それとよろしければ、しばらく船に滞在する許可もいただければと思って参りました」
「あの、道臣さん。さっきはすみません。色々とお気遣いありがとうございました」
千尋は生真面目な礼を尽くす道臣を待ちかまえて言うと、嬉しそうな笑顔で続けた。
「風早から、すこしお話を聞いたんです。岩長姫と一緒に、しばらく船でいろいろとお仕事をしてもらえるって。こちらこそ、よろしくお願いします」
「姫にそう言っていただけると助かります。たいしたことはできませんが、何かあれば、ご遠慮なくお申し付けください」
道臣は丁寧に姫に応えると、一歩下がって続けた。
「それでは姫、みなさん。お時間を取らせて申し訳ありませんでした。では、私はこれで――」
「道臣。時間があれば、あなたも一緒にどうですか？」
退出しようとする道臣を、風早がやんわりひきとめた。

「私がですか？」
「ええ、道臣は昔から俺たちの先生のようなものですしね。あなたの話が聞けたら、きっと姫も勉強になると思うんですが」
風早がにっこり微笑んだ。
「い、いえ……そんな。私などが、姫の勉強会にお話できることなど……」
「ああ、いや道臣。ここは名前ほど堅苦しい場でもないんです。これまでは数回、俺と柊で姫の勉強を見ていたんですが――。今夜からは忍人と布都彦を加えることになって、これはどういうやり方で進めたらいいんだろうかと、決めかねていたところで。なので実は道臣が来てくれて、ちょっとほっとしているぐらいなんです。お願いできませんか？」
しきりに恐縮する道臣に、風早はぶっちゃけた。

「あの、道臣殿。姫の御為に、私からもお願いいたします！」
「布都彦……」
姫の軍に加わる前から、彼からたびたび軍略の手ほどきを受けていた布都彦が、馬鹿真面目に頭を下げた。困惑する道臣に、忍人がだめ押しで口を開いた。

「道臣殿、ご無理でなければ。陸路の現況なども詳しくお聞かせいただければ、俺もありがたい。二ノ姫、君はどうだ？」
「道臣さんが、もし嫌でなければですけど。お話を聞きたいです」
千尋はまっすぐな声を響かせた。
「……姫、葛城将軍。わかりました、お役に立てるか自信はございませんが、喜んで」
「道臣さん、ありがとうございます！」
控えめに微笑む道臣に、千尋は明るく声を弾ませた。
「――じゃあ、全員適当に座ってください。いまお茶を淹れますね」
風早がみなを促して、ようやく勉強会は開始した。

第一回目の勉強会は、せっかく道臣と忍人が揃っているということで、「陸と空の両面から現在の状況を確認していき、まずは姫にその関係を理解していただくのはどうだろう？」という風早の提案に沿って進められることになった。

「ところで風早殿。柊殿がお見えでないのは、何かあったのでしょうか」
「ああ――うん」
他言無用。別れ際の柊の言葉を思い出して、風早は曖昧に微笑んだ。
「放っておけ、布都彦。あてにするだけ無駄だ」
「葛城将軍、そのような――！」
忍人の冷淡な言いぐさに、布都彦はいきり立った。
「時が惜しいな。はじめるぞ」
「ええ、そうですね……。布都彦」
何か思うところありそうな道臣が、忍人に同意して、少年の正義感をやんわり押さえた。風早が何事もなかったように再び進行役を務め、布都彦はしばらくまだ何か腑に落ちなさそうにしていたが、そのうち忍人の過不足ない『講義』に耳を奪われていった。

「千尋？」
風早の優しげな視線を感じて、千尋も「なんでもない」と笑みを返した。

昼寝をしていたはずが、目が覚めた時には眠った場所とは別のところにいた。道臣が言ったように「不思議な話」で済ませていいのだろうかとも思うが、岩長姫と入れ替わりで部屋にやってきた風早が、事実を知ってもなんだかのほほんとしていたので、千尋もなんとなく「まあいいのかな」ですませてしまった。
この船や、国や、誰かの不思議を追求しても、すべての答えが返ってくるとは限らない。第一、追求しようにも謎の数が多すぎる。少女にはそのことが歯痒くもあったが、だからこそ安心できる部分があることにも気付いていた。それどころか、ソレが自分を守っているかもしれないことも。
千尋は思考を止めて、道臣と忍人の話から何かを学び取ることに全力をつくした。

＊＊
勉強会が終わり、風早以外の者が部屋を去っても、千尋だけはまだ竹簡を前にして座り込んでいた。

「千尋、今夜はそろそろ終わりにしませんか？」
「柊は、万難を排して来ると言った。私はそれに、深い意味はないと思っていたけれど……何かあったの？」
千尋の瞳が「自分がその理由を知っていると確信する目」で、風早は内心舌を巻いた。隠し通すことは難しくない。柊の希望は、自分に余計な良心の呵責を感じさせないための、彼らしい配慮だ。

「もう少し待ってみる」
千尋には風早の返答がないことこそが返事だった。
「ああ――どうやらすっかり遅れてしまったようだ」
「柊……！」
入口からまったく悪びれない声が響いてきた。千尋はなんとなく握りこぶしを作って駆けだした。

「おっと。お待ちいただけますか、我が君」
駆け寄ってくる姫を片手で制して、柊は恭しく一礼した。濡れた髪から雫が落ちる。見ると長い衣服の裾も濡れそぼっていた。
「どうしたの、その格好……！？」
「少々水浴びを。――ああ。正直に申しあげれば、そのように険しいお顔をなされると思っておりました。だが、」
「待って、いま何か布を持ってくる！」
だが誤解なきよう。私にそのような趣味はございません。などと言って、べらべらといつもの調子で話す柊を置き去りに、千尋は部屋へ舞い戻った。すれ違いで入口までやって来た風早が、苦笑して言った。
「お疲れさま。困りました、勘が良くて。どこまで察しているのかも、正直さっぱりわかりません」
「なるほど、さすがは我が君」
布を持って再び舞い戻ってくる姫を見つめ、柊はどことなく嬉しそうに口の端を上げた。

「姫、まことに申し訳ございません」
千尋の持ってきた布で髪を拭って人心地つくと、柊は改めて謝罪の言葉を口にした。
「う、うん。でも、そんなに気にしないで。勉強会は今日は特別に道臣さんも先生になってくれて、ついさっき終わったところだから」
「そうでしたか――。我が君のご信頼に背きましたこと、どうぞお許しください。私はいかなる弁解もいたしません」
表向きは勉強会への無断欠席を詫びながら、柊は説明の拒絶を匂わせた。
「それは、私に理由は話せないということ？」
「恐れながら」
千尋の追求を笑顔で阻んで、柊はもう一度恭しく頭を下げた。姫のやるせないため息が響いて、彼はこっそり眉を寄せた。偉大な神の船に住まう小さな水神へ、引越の手引きをして参りました。わざわざ神子の耳に入れるまでもない些末事だ。

「千尋。もう遅いですから、話の続きはまた明日にしましょう」
見かねた風早が、双方に助け船を出した。
「ううん、この話はもういいよ。無理には聞かない。……それより柊、ちょっと待っていて」
千尋は素直な気持ちで言って、再度部屋の中に戻ると、すぐに一枚の竹簡を持って戻ってきた。

「――姫。この竹簡は」
「うん。その、時間があるときに、間違っていないか見てくれる？　柊が用意してくれた書を読んで、勉強できたことや感想とかをまとめてみたの」
すっかり驚いている柊に、千尋は早口で続けた。
「私が居眠りをしてしまったせいで、無駄な時間を取らせてしまったでしょう？　でも柊は謝らせてくれないし、本当は最初は反省文でも書いて渡そうと思っていたのだけど」
ただそんなことをしても柊は喜ばないだろうし、それならその分を自習して、結果をまとめて見てもらおうと思って。などと恥ずかしそうにぼそぼそ言って、千尋は俯いた。
「何日もかけて、お作りですね」
竹簡を受け取った柊は、感激を滲ませていった。
「う、うん。……え？　でも、どうしてわかったの？」
「ふふ。日によって墨の薄さが違っていますから」
驚いて顔を上げた姫に、軍師は本当に嬉しそうに笑った。

＊＊

「では千尋。俺たちはこれで」
「おやすみなさい、我が君。よい夢を」
「うん。二人とも、今日は――ううん、いつもどうもありがとう」
退出する風早と柊に、姫は優しく声をかけた。青年たちが軽く驚いて、何か言いたそうに唇が動く前に、千尋は言い添えた。

「また明日、よろしくね」
「――はい、千尋。また明日から、一緒にがんばりましょう」
「御意――」
またいろいろと迷惑をかけてしまうかもしれないけど、力が足りなくてごめんなさい。そういった台詞が、軍師と従者の顔を曇らせてしまうことを察して、姫は言葉を飲み込んだ。彼らが自分のために、何やらこっそり動いてくれていることを心から信じて、千尋は微笑んだ。


昨晩に続き、夜空は晴れ渡っていた。

―――回廊の柱の隙間から、星空がのぞいていた。星々の声は常に地上へ、まるで雨のように絶え間なく降り注いでいるので、ひとつひとつの声は、耳を澄ませ心を空（から）にして、注意深く聞いてやらなければならない。

「天の配剤の素晴らしさも、我が君の妙手の前には霞みますね」
柊は得々とつぶやいた。

「首尾は？」
「引越完了です。それから姫の件ですが、彼が呼んだというより、その恐れに神子のほうが反応したと考えたほうがよさそうですね。荒魂ではないが、助けを求める何者かの声に、といった具合で」
「そうか。姫は優しいから、そんなことがあっても、不思議ではないかもしれない。でも、とにかくそれなら続くことはなさそうだね」
柊の説明を聞いて、風早は安堵した。

「といっても、意志の疎通はすべて遠夜を通したので、明確な言葉として得た情報は少ない。おかげで水浸しです。結論はほぼ想像、ということになりますが――」
「はは、夏でよかった」
「まったくですね」
愚痴っぽいため息に、風早が声を出して笑った。

「姫の采配はいつも美しい。届かないからこそ、かもしれないが」

―――そうでなければ、たやすく他人と混同する、人の心は。
柊は友人が憐れみを持って自分を眺めていることに気付いた。

「君もたいがいだと思いますがね、風早」
「あなたに言われたくないな」

風早はそう答えた後に、満足そうな友の横顔をもう一度眺めた。

終