SS.

軍師と姫は天鳥船から降りて、船から少し離れた明るい森の中を歩いていた。地面には落ち葉が幾重にも積もり、ブナやナラの樹から落ちた実がそこらじゅうに転がっている。
「ドングリやブナの実がたくさん落ちているね。ここで拾っていこうかな？」
「ああ、姫、お待ちください。地面に落ちているものは虫食っているかもしれません。我が君の非常食には不適切ですね」
今にも走り出そうとする少女の手を取り直して、軍師は困ったように微笑んだ。
「そうなんだ。……でも、この辺りの樹は高いから、さすがに登って取るのは難しいよね」
「できれば私も遠慮したいですね。高いばかりか幹も太く、揺すっても落ちてきそうにありません。別の場所へ移動してはいかがですか。さあ、我が君。どうぞこちらへ」
軍師は『木登りは無理』ではなく『難しい』と表現する姫の勇敢に苦笑しつつ、名残惜しそうな少女の手を引き先を急いだ。一応断りを入れて船を出てきたものの、帰りが遅くなれば皆が心配を募らせるだろう。何より病み上がりの姫を長い時間連れ回しては身体に障る。

「あ、声がすると思ったら、そこの枝に鳥が止まっているわ。何を話しているのかな。なんだか楽しそう――」
軍師の思案をよそに、姫はご機嫌で森林浴を満喫している。落ち着きなく視線を動かし、見るものすべてにキラキラと瞳を輝かせている主を見て、柊はこっそり目を細めた。
「さあ、我が君。着きましたよ」
柊は3メートルほどの樹の前に姫を案内し、手近な枝を少女の手元に引き寄せた。枝には鳥のくちばしのような形をした実がついている。
「これ……食べられるの？」
「もちろんです。さあ、好きなだけお摘みください」
「う、うん――」
実は黄緑色をしていて、全面に生えた毛が鳥の頭の部分から茶色く色づいている。千尋は柊が片手で掴み下ろしている枝から、こわごわといくつかの実を収穫した。
「ねえ柊、これはいったい何という実なの？」
「おや、姫は私をお疑いですか？」
「そ、そんなことないよ！」
顔を赤らめて反論する千尋に、柊は適当な実をひとつ取ってそのくちばしを折り、毛の生えた総苞をすっかりむしり取ってしまうと、中から出てきたころんとしたドングリ状の種子を少女にそっと手渡した。枝と種子の間に残った渦巻き状の殻の形に特徴がある。
「この状態なら我が君にも見覚えがおありでしょう。これはハシバミの実です。これを乾燥させれば、携帯に適した食料となりますよ」
「このまま食べられないの？」
「いえ、ハシバミはドングリなどと違い渋がほとんどなく、下処理が不要なのです。――こうしてご説明上げるより、実際にお試しいただくほうがよろしいですね。さあ、我が君」
物欲しそうな顔をしている姫を見て、軍師はまださほど固くない殻を刃物でむしり取り、種子の中身を少女の掌にのせた。見た目は小さな生栗から殻と渋皮を取り去ったものに似ている。千尋はそれをしばらくまじまじと観察して、おもむろに口に放り込んだ。
「――あ、おいしいよ。本当に全然渋くないんだね」
「それはよかった。もういくつかお召し上がりになりますか？」
「ううん、いいよ。あまり帰りが遅くなると、柊が皆に叱られてしまうもの。このくちばしみたいなのは、帰ってから毟ればそんなに時間はかからないと思うし、これを非常食にしよう」
姫は屈託なく笑って、たくさん実のついたハシバミの枝を指差した。
「御意に。では、もう何本か枝をこちらに引き寄せましょう」
「うん、お願いね」
姫と軍師は協力して周囲をまわって、少女の腕に一抱え分ぐらいのハシバミの実を、手際よく集めてしまった。

「ふふ、いっぱい採れたね。ちょっと欲張りすぎたかな？」
姫は防寒用の薄布でハシバミの実を風呂敷包みにして、これ以上ない満足そうな笑顔で汗をぬぐった。
「姫が手づから摘まれた森の恵みです、多すぎるといったことはないでしょう。希望者を募れば、みな競って手を上げることかと」
「そうかな。でも、まずは柊の非常袋をいっぱいにしてからだよ」
千尋は柊の遠慮を感じ取って、有無を言わせない口調で断言した。
「我が君のお心遣い、恐悦に存じます。――では、参りましょうか」
軍師は少女の気持ちをかみしめて、風呂敷包みを抱え上げる。楽しい時間の終わりを感じ取って、姫がつまらなさそうに俯いた。

『本当は、もう少し柊と一緒にいたい』
神子たる姫は、最後まで正直な気持ちを言えなかった。大切な戦いを控えた緊張や、自分だけフラフラ遊んでいられないという責任感、柊本人や船にいる仲間に心配をかけたくない気持ちが、これ以上のわがままを躊躇わせた。
「ねえ、柊」
「なんでしょうか？」
天鳥船への帰路、先を歩く柊の背中を見つめ、千尋は明るい声を響かせた。
「あのね、今日はわがままを聞いてくれてありがとう。おかげでとても楽しかった」
「それはよかった」
いつもと変わらぬ様子で答えた軍師に、姫は心から感謝した。

あなたと過ごす残り僅かな時が、あなたにとって満ち足りた時間であったなら、それはあなたのしもべにとっても、これ以上ない幸福なのです。
『本当は、もう少しあなたの側にいたい』
嘘をつけない軍師は、最後まで本当のことも言えなかった。


＊＊
数日後、完全に気力を回復した千尋は、再び堅庭を訪れた。サルナシの成る木のそばに、柊がぼんやりと立っている。少女は一瞬声をかけようか迷って、しかしすぐに彼に向かって駆けていった。
「柊。よかった、ここにいたんだね」
「おや、私をお探しでしたか」
「うん、はじめ書庫に行ったのだけど、見あたらなかったから」
ああ、姫自らご足労いただくなどもったいない。もしそうと知っていれば、万難を排してあなたの元へはせ参じたものを――。などと延々と続く言い訳を苦笑気味に聞き流し、千尋は追熟を終えたサルナシの実をひとつ、彼の手に握らせた。
「これは――サルナシですね」
「この間、柊がここで私に取ってくれたものだよ。追熟が終わったから持ってきたの。食べてみて」
柊は千尋に言われるまま、皮にちょっとしなびた皺の寄ったサルナシにかじりついた。なるほど渋は軽くなり、果物らしい甘みが味わえるようになっている。
「美味しいでしょう？」
「ええ。姫がわざわざ私のためにお持ちくださったと思うと、これまで口にしたどのような食物とも比べようもありませんね」
「ふふ、すぐそうやって大げさに言うんだから。でも本当にずいぶん味が変わったよね」
千尋は柊のわざとらしい賛辞も聞き流し、肩をすくめて笑った。そんな姫を見て、軍師は「大げさなどではありませんよ」とつまらなさそうに口を尖らせる。

「あとはこれを渡そうと思って来たの。明日には出発だから」
姫は妙にかしこまった様子で、ハシバミの実入りの布袋を軍師に返した。橿原攻めの戦を目前に控えて、少女はどことなく緊張している様子だ。
「ありがとうございます、我が君」
「う、うん――」
もしお腹が空いたらすぐ柊に声をかけるのだから、いつも近くにいてくれないとだめだよ。事前に考えてきた台詞を千尋が言いあぐねている間に、柊は袋を大事そうにポケットにしまいこんでいた。
「あのね、柊」
「そうだ。そういえば、姫は追熟したサルナシの実をお気に召しましたか？」
「え？」
思い出したように軍師が声を上げ、にこやかに尋ねてきた。姫は思わず頬を赤らめて、「うん、さっき食べたけど、美味しかったよ」などと言って頷いた。
「それはよかった」
軍師は納得したように頷きながら、先日引き下ろしたサルナシの枝を適当にまとめ、元あった場所よりずいぶん低い位置にからげ始めた。

「――？　何をしているの？」
「こうして低い位置に枝を絡めておけば、また次の年、姫がサルナシの実を望まれたときに、容易く手に入りましょうから」
軍師はこの言の葉が、姫には二人の未来を約束するものに聞こえることを知っていた。姫が王となるまで道に迷うことがないように、軍師は彼女の誤解を正さない。
「次の年――。う、うん！　そうだね、また来年も食べられたらいいな」
「ふふっ、我が君は可愛らしい方だ。来年の今ごろは、姫は豊葦原をあまねく照らす王として、素晴らしい御世を築いていらっしゃることでしょうね」
一国の王となった姫が再び天鳥船を訪れ、サルナシの実を口にする日はおそらくないだろう。けれどその代わり、王はそれを指先ひとつ、命令ひとつで得ることができる。真白き千年の宮で、白き龍神の神子は光の道を歩むことが約束されている。

柊の満足げな視線を受けて、千尋は生真面目な顔を上げた。
「私は、みんなが安心してくらせる国を作りたい。そのためにも明日の戦は負けられない」
勝利がさだめられた戦いと理解しながら、それでも真摯にさだめと向き合おうとする神子を、軍師は眩しく思った。
「――柊」
姫は軍師の口元にそっと手をかざし、彼がさだめを語り、主を諭すことを封じた。さだめの絶対を思い知らぬ少女には、青年がただ言霊で己を縛り、苦しんでいるようにも見えた。

「私はあなたを信じる。――何がさだめられているのだとしても、私は最後まで諦めない」
「我が君は、やはり厳しいお方だ。私は姫の軍師。あなたに勝利を捧げましょう」
絞り出すように決意を誓う姫に、軍師は明言を避けて微笑んだ。

『――柊。私を信じて』
あなたは何を知っていて、何を隠しているの。私があなたの本当の幸せのために、出来ることはないの？　
神子は軍師の夜闇色の瞳をじっとみつめたまま、最後まで本心を打ち明けられず、彼の本意を問いただすこともできない己を不甲斐なく思った。

「さあ、このような場所に長くいては、お身体が冷えてしまいます。どうか、中へお戻りください」
「柊も一緒に？」
「ええ、我が君がお望みとあらば」
軍師はいつもの胡散臭い笑みを浮かべ、姫の手を取って軽く口づけてみせた。少女は一瞬息を飲んで何事か言いかけたが、すぐに頬を赤らめ俯いてしまった。




言葉にならない別れの予感が、神子の胸を騒がせていた。いつもと何も変わらない柊の態度が、千尋の目にはひどく不自然に映った。

「――さあ、我が君」
軍師が差しのべた手を、姫は迷わずに取った。ほんの少し困った表情を見せた柊の瞳を、千尋は綺麗だと思った。

終