「ああ、どうやら今宵が頃合いのようですな」
客のいないベルベットルームで、イゴールはひとりごとのように呟いた。
「こちらの準備は、既に整いましてございます」
「よろしい。あとはお客人がいらっしゃるのを待つとしましょう」
ワイルドに目覚めた少女に四身以上の合体を解禁する。主の指示を聞くまでもなく、テオドアはそのために必要な全ての仕事を終えていた。
「あちらは天候不良で、公子様はお住まいで足止めされているご様子。これではしばらく自力でこちらにおいでいただくのは難しいかと存じます。――夢でお呼び立てさせていただいてもよろしいでしょうか」
「はたして、その必要がありますかな？」
テオドアの申し出に必要以上の何かを感じて、イゴールはどことなく意地悪く尋ねた。しかし青年は主の含みにはまるで気付かぬ様子で、いっそう熱心に主を説得しはじめた。
「私見を申し上げさせていただけるなら、いまは彼女の身の内にも、偽りの均衡を崩す嵐が吹き荒れています。残る"部品"もあと数体、急速に力を取り戻した"彼"が、この機に乗じてお客人につけいることを考えるかもしれません」
「なるほど…。可能性としては、あり得るかも知れませんな」
イゴールはまじまじとテオドアの顔を見あげ、頷いてみせた。総合的な状況から推測すると、現時点で"彼"が少女をどうこうするとは考えにくいが、目の前にいる「彼」の少女に対する入れ込みぶりを見て不安を覚えたのだ。
「さらに申し上げさせていただくなら、彼女は現在ひどくお疲れのご様子。ですがもし今こちらにおいでいただければ、更なるお力添えをご説明させていただくと同時に、冷たい雨風を避け、安心して英気を養っていただけるとも考えました。いかがでしょうか」
「ただ――もし"彼"がそうと考えていなければ、お客人につけいるのは我々ということになりますがな」
イゴールは理論武装するテオドアには聞こえないように呟いて、小さくため息をついた。青年は己が正しいと信じて疑わない目で、主の返答を待っている。
「――まあ良いでしょう。お客人をここに」
「は、はい…！ では、すぐにも散らしに参ります」
イゴールの決断にテオドアはぱっと瞳を輝かせ、颯爽とベルベットルームを出ていった。
「はてさて。呼応する力と力――果たしてどちらが先に互いを呼んだのでしょうな」
ひとり部屋に取り残されたイゴールは、なんとなく笑いをかみ殺して、そっと肩をすくめた。
＊＊
その頃、少女は自室のベッドでうなされていた。
「おいで…」
まっ暗闇に気味の悪い声が響いている。
「おいで おいで」
「おいで…」
「おいで、おいで――」
ここはどこだろう。暗闇の中に少女は立ちすくんでいた。身体が重くて歩けない。誘う声に応えようにも声の主が何処にいるか、この闇がどこまで広がっているかもわからない。
（どうでもいい……）
心の中でつぶやいて、あっさり少女は膝を折った。彼女は決して助けを呼ぼうとしなかった。闇の中でうずくまって独りぼっちでいるのは恐ろしかったが、助けを呼んでも誰も来ない絶望を思うよりは怖くなかった。
「おいで」
「おいで…」
さっきより声が増えている。少女は泣きそうになるのを堪えるために、ぎゅっと目を閉じた。
「おいで… おいで」
声は更に増えていく。少女はたまらず耳を塞いだ。
「おいで おいで おいで」
けれど声は止むことなく、頭の中に鳴り響いている。
（どうして――？）
どうしてこんなひどい目に合わなければいけないのだろう？ 少女の中に疑問が生まれた。それは理不尽な状況に生まれた怒りと言い換えても良かった。声は自分の中から響いてくる。きっと、この足が動いたとしても、逃げることはできないんだ――。そう悟った瞬間、
「オオーン！」
どこからか、闇を切り裂く遠吠えが聞こえた。思わず耳から手を離す。少女にはそれが誰のものかすぐにわかった。
（コロマル……？」
「オオーン！」
「やっぱり……。きっとそうだ――」
「ウオオーン！」
遠吠えは誘う声を引き裂きながら、何かを訴えるように続いている。少女は自分の声が震えていることに気付いて、「情けないな」と微笑む余裕が出来ていた。膝で重い身体を支えるようにして、なんとか立ち上がる。
「オオォーン！」
「コロマル……！！」
少女は思わず叫んでいた。闇の中、目をこらして、必死でコロマルの姿を探す。彼の駆け寄ってくる音を聞き漏らすまいと、耳を澄ます。
「ウオォーン…！ オォーン！」
しかしコロマルの姿はどこにも見えない。軽やかなその足音も聞こえない。ただ彼の必死の声が闇の中で響いているだけだ。けれど少女は仲間の心配を確信していた。彼女にはその遠吠えが「がんばれ」「諦めるな」と、なんだかそんな風に聞こえていた。
「大丈夫。もう大丈夫――」
私はもう一人じゃない。公子は誰かに言いきかせるように、そして己に確かめるように呟いて、
「私は、戦うんだ。――っ、オルフェウス！！」
丸腰のままたった一つの武器・ペルソナを頼りに、再び孤独な戦いへ舞い戻る決意を見せた。
＊＊
「道案内は不要だったのですが――。やはり礼を申し上げなくてはなりませんね」
青年は済まし顔で呟いた後、地面に片膝をついて続けた。
「確か、虎狼丸様とおっしゃいましたか。私はテオドアと申します。この度はありがとうございました」
「ワン！」
コロマルは満足げに吠えて返した。仲間の無事を察して、素直に喜んでいる。
「ええ。貴方のおかげで彼女も我に帰られたご様子。――後のことは、どうかこの私にお任せ下さい」
「ワン！ ワン、ワン！！」
「なるほど。ご自分の力だけではないと貴方はおっしゃるのですね。彼女を案じていたのは自分だけではないと――。承知いたしました、公子様にはそのようにお伝えしておきましょう」
テオドアはコロマルが訴えようとするイメージを読みとって、感慨深げに頷いた。
「ワン！」
「その必要はない？ ……そのようなことは、説明するまでもなく彼女はご承知だとおっしゃりたいのですね。なるほど、絆の力とは双方に等しく働くもの――」
得意げなコロマルを一瞥し、テオドアはなんとなく面白くなさそうに考え込んだ。けれど己の不快の理由が見つからない。
「ワン！ ワン！」
「い、いえ。なんでもありませんよ。――では、私はこれで。ご心配なさらずとも、公子様はそちらの嵐が立ち去る頃合いを見て、必ずご無事にお返しいたしますよ」
テオドアは負けじと得意げにそう約束すると、コロマルが口を挟む暇もなく、文字通り一瞬で消え去った。
「クウーン…」
コロマルは己に出来ることがもう無くなってしまったことを悟り、残念そうに鼻を鳴らした。
一方、公子はひとりで戦いを続けていた。
己の中に響く呼び声は、いつの間にか消えていた。それまでに沢山のシャドウを倒していた。
「やっぱりここはタルタロスなのかな――」
コロマルと別れるとすぐに闇が晴れて、少女は見慣れた光景に激しく動揺し、しかしやがて確信した。迷路のような道をさまよえばシャドウに遭遇し、戦って勝てば報酬を得ることができるこの場所は、あのタルタロスなのだと。しかしながら、いくら探索を続けても転送機と階段は未だに発見できていない。ずいぶん長い間探しているのに。「どうしてだろう」と少女は不安げに瞳を揺らし、立ち止まった。
「――っ！ しまった！？」
ほんのわずかな隙をついて、シャドウが背後から襲ってきた。戦って気付いたことがある。このフロアのシャドウはさほど強くない。けれど公子がよく知るタルタロスのシャドウとは違って、自分の存在を確認して逃げまどうことがなかった。それどころか、どのシャドウも戦意喪失することなく、敵対心を剥き出しに戦いを挑んでくる。
「はやく、出口を探さないと――」
――このまま永遠に戦い続けることになる。
漠然とした不安が少女を襲う。公子は暗い考えを振り払うように、ついさっき拾った薙刀を振りかざし、シャドウを迎撃し続けた。
＊＊
「コロちゃん！ どうしたの、コロちゃん！」
「…ワン！」
コロマルは風花の声に呼び戻され、どこかの闇からラウンジへ戻ってきた。寮の外はまだ雨と風が吹き荒んでいる。コロマルは鼻をひくひくさせて、おいしそうな何かの匂いを嗅ぎとった。
「テレビの前で寝てたと思ったら、いきなり起きて吠え始めるし。びっくりしたぞ？」
ゆかりはコロマルを覗き込んで苦笑してみせた。傍らで風花が何かを探るように考え込んでいる。
「――ゆかりさん！ 『冷えビタシート』持ってきましたよ！」
「あ、ごめんね。寮の薬箱にまだあったと思ってたんだけど、切らしてたみたいで」
「気にしないでください。こういうときはお互い様だと思うし」
私物の熱冷ましシートを手に階段を駆け下りてきた天田に、ゆかりが申し訳なさそうに言った。
「さすがは天田少年、だな。でもおまえちょっと準備良すぎじゃねえ？ つか普通こんな物常備しとかねーだろ。実は病弱？」
「違いますよ。それにこんなの常識じゃないですか？」
「そうかー？ にしても公子ッチもちょい雨に当たったぐらいで風邪引いて寝込んじまうとは、意外にヤワだよなー」
呆れるような口振りだが、順平の声にはそこはかとなく心配が滲んでいる。
「彼女にも何かと無理をさせてしまっているからな。それに加えここしばらくは文化祭の準備もあったろうし、おそらく疲れが一度に出てしまったんだろう」
「その文化祭も中止で、ずいぶんがっかりしていたしな。思わぬ連休で気が抜けたのかも知れん。お前らも体調管理には気をつけろよ。特に順平、昼間びしょ濡れになって帰って来ただろ」
ソファから立ち上がってうなだれる美鶴を見て、真田が後輩たちにまとめて声をかけた。
「えー、真田サン気付いてたんスか？ オレが千鳥んとこから帰ってきたトコ？ いやー実際大変だったんスよ――」
順平ののろけ話に、全員が「またか」と顔をしかめたその時、食堂へ続く扉が開いた。
「――出来たぞ」
荒垣が小さめの土鍋を持って、ひょっこりと顔を出した。辺りにはふんわり甘い香りが漂っている。匂いの正体はコレだ、とコロマルはいっそう鼻をひくひくさせた。
「ああ――美味そうな匂いだな。シンジ、それは何だ？」
「がっつくな。てめえらには別のもんを用意した。――山岸。これ、食えそうなら食わせてやれ」
「は、はいっ！ この匂い、お粥ですね！ すぐ行ってきます…！」
風花は荒垣から土鍋を受け取って、嬉しそうな笑顔になった。
「あ、風花。公子のとこなら私も行くよ、天田君から貰った"冷えビタ"貼ってあげたいしね――」
「氷嚢、いつの間にか外しちゃってるんだよね？ 重いから嫌なのかな…？」
風花とゆかりは並んでラウンジを立ち去った。
「やれやれ、まったく心配かけさせやがって――ってトコですかね？」
「はは、それをお前が言うのか順平」
「確かにな」
まとめに入った順平に真田と美鶴が苦笑気味に突っ込む。
「ああっ！？ 何スか、先輩たちが揃ってその扱い！？」
「ワン！ ワン、ワン！！」
和やかな雰囲気に合わせるように、コロマルが楽しげに吠えたてる。その様子に天田がなんとなく首を傾げた。
「コロマル、なんて言ってるんでしょうね…？」
「――コロマルさんは言っています。食欲をそそるとても良い匂いがする、と」
ずっと黙っていたアイギスが、犬語翻訳機能を使って、ようやく口を開いた。
「ふふ、腹が空いているのか？」
美鶴が笑ってコロマルの頭を撫でる。
「二人が戻ったら、俺たちも食事にするか。シンジ、全員分あるんだろ？」
「ああ」
荒垣が当然といった風情で頷く。
「そんじゃ、オレらは先に移動してますか。――ホラ、ぼけっとしてないで行くぞ天田！」
「え、あ、でも――」
先輩風を吹かす順平に、天田が俯いて口ごもる。
「遠慮すんな」
「そうそう、たくさん食わないと、大きくなれないぜ！」
ぶっきらぼうな荒垣をフォローするかのように、順平が有無を言わせぬ笑顔で少年の背中を叩く。
「い、痛いです！ ――それに子ども扱いは止めてくださいっ！！」
鼻歌を歌いながら先を行く順平を天田がムキになって追いかける。その後にそっと付いていく荒垣の背をぼんやりと見つめながら、アイギスがつぶやいた。
「……わからないであります」
「くうーん？」
「いいえ。"彼"はダメではないであります。でも――」
コロマルに付着した"青服の青年"のイメージを拾い上げ、アイギスは蓄積データを検索したが、何度やっても結果は同じだった。
「やはり、わからないであります」
「…ん？ どうしたアイギス？」
深刻なアイギスに美鶴が不思議そうに声をかけた。
「いいえ。――ただ、私は公子さんの側にいるであります。そうでないと、ゆかりさんと風花さんが食事を摂取できません」
アイギスは無表情に言うと、美鶴の許可を待たずに走り去った。
「つまり……主人はまだ目が覚めないってことか？」
真田が途方に暮れたように尋ねた。
「そういうことだろうな。アイギスが言うには、彼女は風邪というより疲労による衰弱状態に近いらしい。昨日無理を言って来てもらった医師にも詳しいことはわからなかったしな――。外がこんな状態でなければ、すぐに大きい施設に移送して検査させるんだが」
己の力不足を責める美鶴の手を、コロマルはそっと舐めてやった。気むずかしげな少女の顔が、困ったように緩む。
「ワン！ ワン！」
「――コロマル。そうだな、ここで悩んでいてもしかたがない。明日になっても回復しないようであれば、別の手を考えよう」
「俺に出来ることがあれば遠慮なく声をかけろよ。俺だけじゃない、今はシンジもいる。お前が一人で何もかも背負い込む必要はないんだからな」
「ああ、わかっているさ。……そろそろ行くか。せっかくの料理が冷めてしまってはだいなしだろう」
階段を降りてくるゆかりと風花の気配を察して、美鶴はいつもの笑顔を作ってみせた。